2 バグ(イウ)

 寒気にも似た、身の毛のよだつ感覚が一瞬にして足先から頭まで駆けのぼる。鐘が低く唸るような耳鳴りに頭の中をかき回され、イウは慌てて目を開けた。


(いけない)


 椅子から立ち上がって、穴から距離を取る。思ったより大きい。灰色の石の床がイウの足元でボロボロと崩れ落ち――否、「崩れ落ちる」という表現は適切ではない。


 割れるのでも崩れるのでもなく、風化するように堅牢な石材がサラサラと跡形もなく消えてゆき、そこには人が両腕を広げられそうな大きな穴が開いていた。穴の向こうには下の階の編纂室の明かりが見えている。瓦礫も、砂も落ちていない。見知った瞳面どうめんがこちらを見上げ、椅子を蹴飛ばすように立ち上がる。


(やってしまった)


 イウが深く息を吐いて震える呼吸を整えると、崩壊は徐々に緩やかになって、十数秒で完全に止まった。見回せば、資料室にいた数人の編者は腰が抜けたようにうずくまっている。


 何かこちらを指差して叫んでいるようだが、唸るような耳鳴りのせいで聞こえない。もう一度ゆっくり深呼吸をすると、少しずつ周囲の音が聞こえ始めた。頭を振ったり耳を叩いたりしていた人達も顔を上げている。


(一生虹を見ることは叶わないなんて、考えたから)


 少しばかり後ろ向きな性格をしているイウは、こうして時々小さなことに絶望しては、床や壁を壊してしまう悪癖があった。


 それでも今までは小さいへこみを作ってしまうくらいで、誰にも知られたことがなかったのに。ああ、こんなに大きな穴を、それも皆が利用する資料室の真ん中に開けてしまうなんて、叱られるどころでは済まないだろう。目の前にいる編者の一人は、今にも叫び出しそうに全身をぶるぶる震わせている。イウは、これからいろんな大人に入れ替わり立ち替わり叱責される未来を思って悲しくなった。


 しかし、声の限りに怒鳴り散らすと思われた編者は、予想に反してすぐに彼女を叱りつけようとはしなかった。両腕をしっかりと自分の体に巻きつけ、周囲を何度も見回し、立ちあがろうとして尻餅をついている。


 彼女はひどく掠れた声で、喘ぐように言った。


「バグだ……三ツ目を呼べ。『涙目』のイウは〈バグ〉だ!」


 その声に反応し、集まってきていた編者達の何人かが走り出すのが見えた。


(……バグ?)


 知らない言葉だ。「三ツ目」というのも、聞き覚えがない。けれど何かよくないことが起こり始めている気配を感じたイウは、そっと穴の縁に触れ、開けてしまったそれを少しでも塞ごうとした。


「触れるな!」


 編者が金切り声で叫んだ。イウは縮み上がって手を引っ込めた。


「――待て、三ツ目は早計ではないか」


 と、そこに割り込む人影があった。先ほど階下からイウの方を見上げていた編者だ。こちらの様子を見に来たらしい。精鋭揃いの第四編纂室所属、伏し目がちな一つ目の瞳面をかけた青年シュドは、イウと名前を知らない編者の間に立ち塞がって、凍えるような冷たい声で問答を始めた。


「非常に特異な例だ、判断が早すぎる」

「〈バグ〉の消去は早いほどいい! 当然のことだ」

「処刑の前に、研究の余地があると言っているのだ」


(……処刑?)


 血なまぐさい単語に、少女はくしゃくしゃに丸めていた思考の皺を伸ばして、ゆっくりと顔を上げた。何か、きつく叱られるとか、罰として仕事を増やされるとか、そういった事柄とは全く別のことが起きようとしてはいないか。この部屋の床は、そんなに大切なものだったのだろうか? 命で償わなければならぬほど? さすがに、そこまでのことではないと思うが。


 面の下から見つめるイウの視線を感じ取ったか、編者が「ヒッ!」と情けない悲鳴を上げた。床に尻餅をついたまま、ぶるぶる、ずるずると震えながら後ずさってゆく。


 わたしを恐れているようだ、とその様子を見たイウは静かに思考を巡らせた。彼女にはそういうところがあった。つまり陰気で引っ込み思案だが心の中は常に慌てず騒がず、ゆったりと自分の思索に耽り、そうしていざという時に逃げ遅れるようなところが。


「――〈バグ〉は発見次第消去する。それが獣型であろうと、人型であろうと、崩壊と滅びをもたらす世界の綻びであることに変わりはない」


 背後から、艶のある弦楽器のような低い声が聞こえて、皆が一斉に扉の方を振り返った。廊下の光を背に黒衣が翻り、慈悲深そうに細めた銀眼の瞳面がスッと皆を見下ろす。


 その人のことはイウも知っていた。


「長老……」シュドが奥歯を食いしばるように呟く。


「『涙目』のイウ、そなたに非はない。悪いのは、そなたを〈バグ〉として生んだ運命だ。瞑目し、祈りなさい。三ツ目の手によって、苦痛を感じる前にそなたは星へ還るだろう」

「お待ちください、長老。彼女にはまだ」

「丁重に葬れ」


 すると資料室の青い闇から滲み出るように、どこからともなく「三ツ目」が現れた。背が高い人物と、低い人物の二人組。


 彼らが三ツ目なのだと彼女にはすぐわかった。頭にすっぽり被った大きな籠に、見開いた闇のように黒い目が縦に三つ並べて描かれていたからだ。


 背の高い方が手慣れた動作で刀を抜く。長い刃がぶつりと途切れたような、先の尖っていない刀。近づいただけで血が流れそうな青白い輝き。スッと優雅に持ち上げられるそれを、イウは状況が掴めぬまま、ただぼんやりと見ていた。


「――おい」

「跪き、目を閉じなさい」長老が優しく命じる。

「おい。聞いているのか、〈バグ〉」


 ぎゅっと腕を掴まれ、イウは目の前の青年を見上げた。


「……伏し、目」

「このまま大人しく処刑される気か? あれは斬首刀だ。黒怪こっかいの首も易々落とす」


 そんなことを言われても、足の遅いイウが走って逃げたところで敵いっこない。困ってしまって俯くと、シュドは小さく舌打ちしながらイウと三ツ目を素早く見比べた。


「……答えろ。その穴は、他の場所にも開けられるか」

 耳元で押し殺した囁き声。

「伏し目、涙目の手を離しなさい」と長老。

「おい、答えろ。地面にも開けられるのか」


 よくわからないが、強い語調に圧倒され、イウはこくんと頷いた。途端、視界がぐるりと回って彼女は目を白黒させた。舌も噛んだ。


「……わっ」

「死ぬ気満々だったところ悪いが、処刑はさせない。攫ってゆくぞ、〈バグ〉」

「……え?」


 疑問の声を上げたが、返事はなかった。シュドはイウを抱き上げると身を翻して部屋の隅まで疾走し、そしてすぐに三ツ目達によって壁際に追い詰められた。


 当然だ。出口の方へ逃げていないのだから。


「諦めなさい、伏し目よ」

「……覚えておけ、壁に背をつけて『回し蹴り』だ」


 耳元で囁いたシュドがさっと身を屈める。ローブに包まれた彼の右足が、布越しにふわりと青く光を放ったのが見えた。


 瞬間、彼は素人目から見ても実に見事な体捌きで、体ごと回転しながら背にした石の壁を蹴りつけ――スルンッ、と堅牢な石の壁をすり抜けた! 突然視界が黒一色になり、驚愕に息を詰める。自分の手のひらも見えない真っ暗闇。何も見えないまま冷たい床に降ろされると、すぐにポッと小さな明かりが灯った。見回したそこは狭い通路のような場所で、隣に立つシュドの手のひらに、拳ほどの大きさの、小さな炎。


「そ、それ、どうやって」

「壁抜けは、回し蹴り〈スキル〉を使った〈グリッチ〉だ。一時的に壁面の〈コリジョン〉を無効化することができる」

「何を言って……その炎、火傷は」

「ここは隠し通路のひとつだ。ここを通って下へ向かう」


 どうやら彼女の声が小さくて聞こえていないらしい。かといって声を張るのも恥ずかしかったイウは、燃え盛る火を直接乗せた手のひらをそっと指差した。シュドはそれを見て理解したらしく、軽く手を動かして炎を揺らしながら淡々と述べた。


「灯火の〈スキル〉だ。心配ない、初歩的なもので〈MP〉の消費もごく僅かだ」


 何を言っているのか全くわからなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る