イレアの果て
綿野 明
序章
1 報告書(イウ)
窓のない資料室は相変わらず、どこから照らされているとも知れぬ青っぽい光で、うすぼんやりと明るい。
弱い光に目が慣れるのを待って、灰色のローブを着た少女は書架に掛けられた長い長い梯子を登り始めた。
下から数えて六十三段目。ちらと見下ろし、すぐ視線を上へ戻す。
高い。
ひゅう、と細い息が漏れる。
しかし彼女が恐怖に唇を震わせているかどうか、はたから窺い知ることはできない。少女の顔を隠している長い布には、涙を流す大きな目の刺繍がひとつ。その後ろでふたつの目を細め、編者イウは視線を滑らせる。
彼女は若い番号の一冊を抜き取って、器用に片手で表紙を開いた。
(虹の、出現時間に関する報告書……)
これは「当たり」かもしれない。イウは薄闇のなかで目をこらし、そうっと次のページを確かめた。悪筆な殴り書きではあるが、論理的思考を感じさせる文章。
(素晴らしい)
大切に胸に抱いて、足を滑らせながら急いで梯子を降りると、閲覧席へ駆け寄ってランタンに火を入れた。重い
(花園集落の、モリン――知らない名前だ。けれど、おそらくこの報告書は信頼できる)
水中遺跡区域の上空で稀に目撃される不可思議な存在「虹」は、アーチ状に湾曲した七色の光の帯だ。大気現象の一種であるとされてはいるが、時間経過で空模様が変化するというのは、他に類を見ない。何かの生き物ではないかという説すらある。
しかしイウは、この「特定の条件で現れたり消えたりする自然現象」という突拍子もない説が大好きだった。
同じ場所に立っているだけで、虹の存在する空と存在しない空、両方を楽しめる。
本当にそんな場所があるのなら、もしかすると世界のどこかには、時間経過で雨の空と晴れの空が交互に入れ替わる土地だってあるかもしれない。晴天、夕焼け、星空と空の明るさが変化する場所すらあるかもしれない。その空模様それぞれに、虹の架かる様が見られるかもしれない。そう思うと、胸がおどって仕方ない。
(湖底遺跡区域は、雨降る早朝の地だから……しっとりした灰色の空の、雲と雲とを繋ぐように、淡い橋が架かる。降りしきる銀の雨を透かし、虹の色も上品に透き通るように煌めくだろう……ああ、一度でいいから、本物の虹を見られたならば)
編者である彼女はこの「塔」で生まれ、生涯外へ出ることなく「智の編纂」に一生を捧げることが決められていた。つまり、こうして収集された情報を整理し分析するだけの毎日が、死ぬまで続くということだ。
大半の編者達にとって、そんな人生は誇りそのものであるらしい。探索者のように命懸けで世界を渡り歩かずとも、依頼の紙を一枚書くだけで、どんな情報も手に入る。彼らにとっては塔を出ないことこそが地位であり、名誉であり、喜びであると。
けれどイウはその「恵まれた環境」を、巨大な石の檻に閉じ込められているようにしか思えなかった。自分は世界の美しいものを何ひとつ見ることが許されない、呪われた運命を背負わされているのだと。
(全てを捨てて……虹を見にゆけるとしたら、わたしは)
とはいえ彼女には身一つで外へ逃げ出せる度胸も能力もない。「この目で世界を見たい」という願いが、淡い夢以上の鮮明さを持つことはなかった。
パラパラとページを捲って、詳しい情報へ目を通す。
週に一度水の日、早朝の六の鐘と、十二の鐘と、夕暮れ時の十八の鐘。厳粛なその音に誘われるように、空へ光の帯が出現する――この報告書を書いたモリンという探索者はつまり、虹が出現する瞬間を目にしたのだろう。その法則性がわかるまで、何度も、何度も。イウは久々に胸の内へ灯った羨望の火をしかし、小さなため息ひとつで消し止めた。
(わたしはきっと、安全なところにいるからそう思うだけ。危険な探索職が、必ずしも幸福とは限らない。無限の知識に囲まれたこの塔にいれば……世界中のあらゆる景色を思い描ける。それができるだけの情報を容易に、膨大に得ることができる。だからわたしの世界の方がきっと広い。そう、きっと、きっと……)
目を伏せて、脳裏に虹を見ようと試みる。「花園のモリン」による報告は実に詳細で、イウはその景色をはっきりと思い描くことができた。
水彩絵の具で描かれたスケッチよりもずっと鮮やかで実体のない、色とりどりの幻想的な光。モリンが繰り返し観察し、イウは生涯目にすることのない、この世のものならぬ美しい光。
面の下できつく目を閉じる。そうしていないと、泣き出してしまいそうだった。虹どころか塔の外の空すら見たことのない自分が惨めで、貧しくて、耐え難かった。彼女は胸の前でぎゅっと手を握り、足元が崩れてゆくような暗い絶望から自分を引き上げようと――
ズッ……
とその時、世界がズレた。
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