第1話:どうやら私はお兄ちゃんだったようだな……

 その日の空模様は、雲一つない快晴だった。


 さんさんと輝く陽光は眩しくもとても暖かく、その下では小鳥達が優雅に泳いでいる。


 時折頬をそっと、優しく撫でていく微風は大変心地が良い。


 このような気候はまさしく、絶好のお出かけ日和と言っても過言ではないだろう。


 青年が目を覚ましたのは、そのような天候の中で――まったく身に覚えがない光景に彼がひどく狼狽するのは至極当然の反応と言えるだろう。



「ここは……どこだ?」



 青年はそうもそりと呟いた。


 そこは広大な森の中だった。人の気配はなく、周囲に建物らしきものは一つとしてない。


 代わりに穏やかな静謐さと心地良い空気が辺り一帯を優しく包んでいた。


 それはさておき。


 まったく身に覚えのない場所に青年ははて、と小首をひねった。


 “俺は、確か海に飛び込んだはずなのに……”

 “ここはいったいどこなんだ――?”

 “見た感じ、俺が知っている場所ではない……よな”


 しばし周囲を一瞥して、青年はやがてゆっくりと歩き出した。


 このまま右往左往していたところで、なんら進展がある兆しもまるでない。


 ならばどうするか――自ら動くことでしか進展は得られまい。青年はそう判断を下した。


 とは言え、彼に行く当てなどあるわけもなく。故に今進んでいる道も、なんとなくこっちだろう、というなんとも曖昧すぎる理由からに他ならなかった



「しっかし、本当にここには何もないな……」



 景色が一向に変わることもなく、延々と続く緑に青年の中で飽きが生じ始めた頃。



「おっ……」



 ようやく訪れた変化に、青年はぱっと笑みを浮かべた。


 そこは森の中にあるというシチュエーションから、一般にはないどこか不思議な雰囲気をひしひしとかもし出していた。


 もう、何年と人が訪れてないことは外観の汚れや破損状況から大方察することができよう。


 しかしながら、それが返って青年の好奇心を強く刺激した。


 教会の中は、外観がそうであったように案の定ひどく荒れ果てていた。


 荒れていても、以前からずっとあった神聖さは未だ失われておらず。陽光を浴びて床に浮かぶステンドグラスの模様は、美しいの一言に尽きよう。青年はしばし周囲を物色して、だがすぐに視線を鋭くした。


 “この荒れ模様……ただ単に放置されてそうなったってわけじゃなさそうだな”


 四散した破片は長椅子のもので、床や祭壇の損傷具合も明らかに人為的によるものなのは、火を見るよりも明らかだった。


 すなわち、この教会でなにかトラブルがあったと察知するのは当然で、青年は周囲に視線を凝らした。



「――、誰かそこにいるのか?」



 不意に鳴った物音に、青年はそちらに顔を向ける。

 彼の視線の先を、一人の影がさっと横切った。

 むろんそれを見逃すほど、青年は鈍感な男ではない。




 青年は教会の外へと出た。


 そこに人の姿はどこにもなかった。


 代わりに、異形と呼ぶに相応しい者たちがそこにずらりといた。


 異形の者たちは、灰色の肌に赤き瞳をぎらぎらと不気味に輝かせている。


 体躯は小柄ではあるものの、見かけで判断すれば手痛い目に遭おう。



 “怪異……小鬼か? いや、こんな奴は見たことがないな”

 “新種か? いずれにせよ……”



 さほど強くはないだろう。青年はそう思った。


 彼が懐から出したそれに、怪異たちが下賤な笑い声をあげた。


 というのも怪異らの手には一様に武器を携えている。こん棒や剣、と統一性こそないがいずれも殺傷する力が十分にある。


 対する青年は――龍笛を手に、あろうことか怪異と対峙した。


 本来、それは楽器の一つであって殺傷能力は極めて低い。


 それを堂々を手に携えたのだから、怪異らが彼を嘲り笑うのは至極当然の反応だった。まっとうな感覚の持ち主であれば、彼のような行動はまずするまい。


 だが青年の表情かおに迷いの類は一切なかった。むしろ不敵な笑みさえふっと浮かべて余裕さえも感じさせる。


 それが、戦いの合図となった。


 怪異らが一斉に、青年へと襲い掛かった。


 小柄であるがために極めて機敏で、ましてや数においては青年の何倍もある。


 数による蹂躙ほど恐ろしいものも早々にあるまい――その圧倒的不利な状況下でも、青年の顔に余裕は損なわれない。



「――、さてと。それじゃあやりますか」



 青年は龍笛をそっと奏でた。


 彼が奏でるその旋律は、この殺伐とした空気の中では大変相応しくない。


 玲瓏たる龍笛の音色は、耳にするだけで自然と心に安らぎと平穏を与えよう。


 それを奏でる青年の腕前は見事というほかなく、されど怪異に彼のその音を理解することはできない。


 奇声にも似た声とともに、手にした武器を容赦なく振り下ろす。彼らの得物は一様にして、古くてボロボロだ。手入れがまったく行き届いていない。されど直撃すれば最悪、致命傷ともなりえよう。


 “怪異が武器を使う……というのは別に珍しくもなんともない”

 “だからって、手入れをしていないやつがあるか”

 “俺が知ってる怪異なら、その辺りはもっとしっかりやってたぞ”


 内心でそう愚痴をこぼしつつ、青年は龍笛を奏でる。


 その間にも目まぐるしい凶撃が彼へと襲い掛かるが、それをひらり、ひらりとかわしていく。まるで滞ることを知らない流水を髣髴とする動きは、時に舞のごとき美しさもかもし出す。


 ほどなくして、青年の旋律ががらりと大きく変わった。


 穏やかだった音色が、徐々に苛烈さを露わにしていく。


 それは穏やかな小川が、人々に牙をむく鉄砲水と化したかのように。


 迅速にして激しい旋律は耳にする者の心に焦燥感を募らせる。


 今まさに、表情を険しくした怪異らが、一斉に青年へと郷愁を仕掛けた。


 あれは何かが危ない、とそう察したのは怪異ならではの生存本能故か。とにもかくにも、さっきと比較して苛烈に攻める怪異らであったが、その攻撃は等しく虚空を切るばかりで肝心の青年には掠りもしない。


 “ここで終曲だ――!”


 青年の目がカッと見開かれた。


 次の瞬間、地面から青き炎が突然燃え上がった。


 一点の穢れもない、母なる海のごとき蒼い炎はごうごうと激しく音を立てて燃え上がり、怪異らを容赦なく包み込む。


 間髪入れずに、奇声にも似た断末魔が森中に反響した。


 悶絶し、どうにかして炎から逃れようとする彼らだがその行為が好転するはずもなし。


 結果、青年の目前にはかつて真っ黒に焼き焦げた怪異だったモノが残った。


 周囲に肉を焼く、なんとも不快感極まりない臭いが漂う中で青年はふんと鼻で一生に伏した。


 だが、同時に彼の表情は怪訝なものへと変わった。



「――、どうして死体・・が残ってるんだ……?」


 青年ははて、と小首をひねった。


 “どういうことだ? 怪異は人の怨念や恨み……荒魂から生じたもの

 “肉体こそあるが祓えば塵となって消えるはず……”

 “それなのに、こいつらは消えてない……”


 沈思する青年は、不意になったその音にハッとした顔をした。



「そこにいるのは誰だ?」



 青年がそう尋ねると、茂みの中から一人の少女がそっとその姿を晒す。


 歳は、外見から察するにおよそ十代後半といったところだろう。


 栗色のロングヘア―に円らな藍色の瞳がよく似合う、あどけない顔立ちは大変可愛らしい。ただし青年は、彼女の服装に対してはて、と小首をひねると共に訝し気な視線を送った。


 というのも、少女の出で立ちはあきらかに彼の故郷――葦ノ国とはあまりにもデザインが違いすぎる。大陸の出で立ち、ということは気が付かない間に自分は他国へと流れついたのだろうか……、と青年は思考を巡らす。


 可能性としては、ありえなくもないがそれは那由他に等しい可能性だ。


 大海原を漂えば、もしかするとそのようなことが起きるやもしれない。


 もっとも、例えそうであったとしても五体満足で生きていること自体が奇跡と断言してよかろう。


 長時間、飲まず食わずで大海原をただ漂うだけで渡れるのであれば、船と言う文明の利器は必要あるまい。


“もし、ここが本当に大陸だったら……さっきのもまぁありえなくはないな”

“でも、本当にそんなことが起こり得るのか……?”

“鮫なんかに襲われずにだぞ……?”


 わけのわからないことが多すぎる。青年は小さく溜息を吐いた。


 そんな難色を示す青年に、少女がおずおずといった様子で歩み寄った。



「あ、あの……」


「ん?」


「あの、もしかして――私のお兄ちゃん・・・・・ですか?」


「……はい?」



 少女の問いかけがあまりにも突拍子もないものだったから、青年は素っ頓狂な声をついもらしてしまった。

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