寒い異界の思い出話

高田 英

第1話 変な道

私が、初めて、あの世界に行ったのは、あの時だったと思う。


当時、小学生だった私は、父の仕事の都合で、日本海に面した小さな町に住んでいた。その町は、もともと、父の郷里でもあった。父は、遠く離れた都会の会社に技術者として就職したが、私が小学生だった頃、父の会社は、この町にある工場の技術を指導させるため、父をこの町に赴任させたのだと聞いている。ちょうど、その話の少し前、父の父、つまり、私の祖父が死んだので、一人で暮らすことになった祖母の心配をしていた父にとって、この赴任はありがたいことだったのだと思う。父は、会社からは、そこそこ給与をもらっていたようで、私達家族は、その町の中では、そこそこ裕福な方だった。町の中心部には、そこそこ大きな繁華街があり、その南側、つまり、海から遠い側にある住宅街に、私は、両親と弟と祖母と、5人で住んでいた。


その頃、私の小学校の男子児童の間では、ザリガニ釣りが流行っていた。当時、町の北側にある、H川の河口の付近ではアメリカザリガニがたくさん釣れたのだ。それを釣ってきてバケツで飼う。飼う、といっても、餌などをやって育てていた記憶はほとんどない。自分のザリガニがハサミを振り上げる姿が強そうだと言って友だちに見せたり、自分の釣ってきたザリガニと友達の釣ってきたザリガニを喧嘩させたり、そんなことをしていただけだ。ザリガニの殆どは、釣ってきて一ヶ月もしないうちに死んでいたと思う。今から考えると、残酷な遊びだったような気もするが、まあ、田舎の小学生男子の遊びなんて、そんなもんだ。そのときは、学校の友達もみんなそういう感じでザリガニに夢中になっていたし、だから、クラスの中でちょっとでも大きくて立派なザリガニを持っているやつは、みんなから羨ましがられた。ザリガニがよく釣れる河口の堤防のあたりは、子供だけで行くには、ちょっと遠かったから、私は、休日のたびに、ザリガニ釣りに連れて行ってほしいと父にねだっていた。


その日は、たしか日曜日で、私は、朝、工場の夜勤から帰ったばかりの父に、河口の堤防まで連れて行ってくれるようにせがんだ。ザリガニ釣りの道具は、簡単だ。1メートルくらいの棒の先に、タコ糸を結びつける。タコ糸の反対側の先には、餌を結びつける。ザリガニがいる水の中に棒の釣り竿の端を持って餌の付いたタコ糸を垂らすと、ザリガニは、ハサミで餌をつかもうとする。そこで、グイと糸を引っ張り上げてやると、ハサミで餌を掴んだザリガニが、そのまま釣り上がるのだ。餌は、色々試してみて、水でふやかした煮干しが一番良かった。


眠そうな顔の父にクルマで河口まで連れて行くことを了承させると、私は、棒の釣り竿とタコ糸とバケツを用意して、それから、母が、味噌汁のダシに使うために台所に置いていた煮干しをひとつかみ拝借して、父のクルマにのった。 河口には、クルマで30分くらいだ。河口の近くには堤防があった。その堤防のコンクリートの階段を降りると、そこは、私が見つけた、ザリガニが一番釣れるスポットなのだ。


その日は、ザリガニは、あまり釣れなかったと思うが、よく覚えていない。私のザリガニ釣りが始まって30分くらいで、父は、ちょっとタバコを買ってくるからここにいなさい、と私に言って、そこを離れた。堤防の向こうには、小さなバス停と売店があって、私がザリガニ釣りをしているときにタバコが切れると、父は、たいてい、その売店でタバコを買うのだ。


タバコを買いに行った父は、なかなか、帰ってこなかった。しばらくは、私一人で、ザリガニを釣って待っていたが、だんだん不安になってきた。どれくらい待っていたかよく覚えていないが、たぶん、1時間位は待っていたんじゃないか、と思う。タバコの売店までは、せいぜい3分くらいだったから、父が1時間も帰ってこないのは、異常なことだった。私は、棒の釣り竿をおいて、父の様子を見に行くことにした。草でぼうぼうの堤防の斜面を登って、向こう側の売店のところに行くと、なぜか、売店はなくなっていた。堤防の向こうには、小さな道と、道の反対側に藪があるだけだった。ひょっとしたら、父は、いつも使っていた売店がなくなったので、別の店までタバコを買いに行ったのかもしれない、と思った。それで、私は、堤防の上に止まっているはずの父のクルマのところに戻ったのだが、なぜか、そこにはクルマはなかった。理由は分からないが、父は、私をおいてどこかに行ってしまったらしかった。


そのまま、少しの間、じっと父を待っていたが、やがて、私は、そのまま待っていても仕方がないと、歩いて家に帰ろうと考えた。正確な道順は分からなかったが、河口から、とにかく川上に歩いていけば、おそらく、私たちが住んでいた家の近くにつくはずだ、と思ったのだ。


私は、川に沿った道を歩き始めた。道は、徐々に川から離れたが、迷う心配はしていなかった。川上が南の方角なのはわかっていたし、私達の住んでいたT市の周辺では、どこからでも、南側には、いつも大きな山が見えていたから、迷う心配はなかったのだ。とにかく、山の方向に歩けば、私の家の近くにつくはずだ、と思った。


川が見えなくなってしばらく歩いて、たぶん、あるきはじめから2時間位たった頃だと思う。道の進む方向には、小さな丘が繰り返し現れるようになった。道は、小さな丘が現れるたびに、それを迂回するようにくねくねと曲がった始めた。それで、私は、ようやく、この道はおかしいと思い始めた。河口には、父のクルマに乗って何度も行ったことがある。その際に、こんな道を通ったことはない。ここはどこなんだろう。不安なのはそれだけではなかった。歩き始めて3時間以上もたっているのに、この道では、まだ、一人の人にすれ違ってもいない。だれか人に会えれば、道を聞くこともできるだろうに。私は心細かったが、しかし、とにかく南だと思う方角に歩き続けるしかなかった。


繰り返す丘を迂回する何度目かのカーブの途中で、不意に、道沿いの竹藪の中から、声をかけられた。

「子供か。坊、こんなところで、なにをしているの?」

背の低い中年女性が立っていた。私が、家に帰る途中で道に迷ったのですと答えると、彼女は、竹藪から出てきて、どこに行きたいのかと聞いた。彼女が道に出てきた瞬間、私は、なにか、一瞬、寒気のようなものを感じた。道から出てきた女性は、私よりも背が低かったように思う。たぶん、当時の私の身長が140~150cm程度だっただろうから、それより背が低い彼女は、大人にしては、かなり小柄だった。私は、彼女に、自分の住んでいた住所を言ったが、彼女は分からない様子だった。T市です。N小学校の近くです。と私は、住んでいた市の名前と私が通っていた公立小学校の名前を伝えた。

「あー、Tのマチにデたい?」

そのとき、彼女のイントネーションがちょっとおかしいことに気がついたが、素直に、はい、と答えた。とにかく、市街地に出られれば、家には帰れるのだ。

「アミダ町は、わかる?コッチを通り抜けるとアミダ町。ちかみち。」

彼女は、自分が出てきた竹藪の中に入る小さな道を指した。アミダ町は、T市の中心部にある商店街、中央商店街を呼ぶ時、地元のじいさんばあさんたちが呼ぶ呼び名だ。中央商店街が、東西方向に貫通する数本のにぎやかな通りと、それをつなぐ南北方向の短い小さい道で構成されていて、まるで、全体があみだくじのようだから、昔、一時期、そう呼んでいたのだと聞いた。もし、その道で中央商店街に出られるのなら、私の家は、そこからすぐだ。


私は、竹藪の中のその小柄な中年女性が指し示した細い道にはいった。細い道を歩いて、おそらく100メートルくらい。不意に、広いところに出た。そこは、私の通っていた小学校の裏にあった小さな空き地の中だった。振り返って、今まで歩いてきたところを見ると、小さな竹藪があった。


すでに夕方だった。私は、急に安心して、泣きながら、走って家に帰った。私の家には、父も母もいた。私は、父に、なぜ、私をおいて帰ったのかとなじった。父は、困惑している様子だった。両親によると、その日、父も母も、朝からずっと家にいて、私は、一人で、午前中から、近くの友人宅に遊びに行ったのだという。私は、そんなはずはないと泣いて訴えたが、両親はふたりとも困った顔をするばかりだった。


その夜、私は、体調を崩した。酷い寒気がして、体が痺れたような感じになって、立ち上がってもフラフラしたのを覚えている。母親が、体温計で熱を測って、

「熱はないようね。」

といっていた。熱はなくても、とにかくだるくて、夕飯は、ほとんど食べられなかった。母は、私に風邪薬を飲ませようとしたが、気持ち悪くて吐いてしまった。祖母が、こういうときにはこれがいいんだといって、私の枕元で、生姜をすりおろして、それに何だったか、冷蔵庫の中にあった野菜を混ぜて、私に無理矢理に飲ませた。その夜は、寒くてだるくて体が痛くてたまらなかった。


翌朝起きると、体調は元通り良くなっていた。そこで、私は、普通通り、学校に行った。

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