ラッキーカラーにうたう

あひる

ラッキーカラーにうたう


 朝は苦手だ。暖まった布団からじんわりと香る湿った匂いが酷く鼻につくから、寝起き一番に憂鬱が訪れる。スン、と奥まで突き抜けたかび臭さを誤魔化すべく窓の外を見た。

 腰窓から見えるのはまず、洗濯物。昨夜干しておいたそれは夜風を一晩浴びて凪いでいる。その向こうに、雲がひとつ浮かんでいた。本日の天気は晴れ時々曇り。ラッキーカラーはそうだな、今飛んできた黄緑の葉の色にしよう。毎朝恒例になりつつある朝のお天気お姉さんごっこをしながら、暫く窓の向こうを眺め続ける。

 昭和生まれの古いアパートの為かベランダもないこの部屋から見える景色はとても狭く、窓に掛ける物干し竿しかない部屋は、布団すら干せずに湿気が充満する。先程勝手にラッキーカラーに決めたあの黄緑色は地面へ落ち、今頃誰かに踏まれているだろう。いやもしかしたら浮遊を続け、干されたままのシャツにくっ付いてくれるだろうか。そんな幸運を祈りながらようやくわたしは窓から視線を外し、カビ臭い布団から起き上がる。寝起き最初の重力を頭で受けながら、じっとりと重たい体を布団の外へ押しやった。もう少し布団と共にいたい気持ちを消すべく強引に畳む。ぐちゃっと崩れた掛け布団を敷き布団に添えて、高さの出来た布団に背中を預けた。床に敷かれた畳へ尻を預け、布団を背もたれにした簡易ソファへ身を委ねた。まだ怠い体で傍にあるスマホへ手を伸ばす。

「あれ、起きてたの」

 がちゃりと音がしたのは玄関先。ふわふわにしたセミロングのパーマを揺らして入ってきたアイは、コンビニの名前が記されたビニール袋から卵と牛乳を冷蔵庫へしまっていた。わたしよりも早く起きて早く仕事にいく彼女は、悪戯っぽい顔をして笑う。

「ん、おはよ」

「今日は早起きだね。まだ六時だよ」

 ふふ、とトレードマークのえくぼを浮かべて笑う彼女は、冷蔵庫への用事が済むとそのまま洗面所へ向かった。恐らく仕事の準備をするのだろう。化粧をして、髪を整えて、女っぽい香水を振りまく。わたしはあの男を誘惑するような香りが、嫌いだ。


 


 アイは同居人であり、セックスフレンドであり、そして恋人のような関係だ、と思う。正確に名前を付けられないのは、お互いに体を重ねる相手がひとりだけではないということだろう。

 洗面所で身支度を調えているアイは、鼻歌を奏でる。その声は昨日、わたしを抱くときに歌っていたもと似ていた。わたしの体を包むように寄り添い、指を這わせ、快楽を歌う。時間を惜しみなく使い体の芯からずぐずぐと溶けていくようにわたしを抱く。アイはそうして快楽に落ちたわたしを満足げに眺めたあと、そのまま眠る。そして次の日の夜は、決まってわたしの知らない男の元へ向かい、抱かれるのだ。

 アイと初めて出会った夜、彼女はワイングラスを傾け遠くを見つめて「適当に愛せたらいい」と言っていた。彼女自身が満足するための道具が欲しいと、遠回しに言われているようだった。

 けれど愛したくて愛されたくて仕方ない彼女は、わたしだけでは足りない。わたしがどれだけ応えても足りない。恐らく女の体を愛でることでの満足感と、男に愛撫される満足感は違うのだろう。少なくともわたしは、”そう”だ。

「今日は帰らないけど、明日はお休みでしょ」

 化粧を終えふわふわとした髪のセットを終えたらしいアイは、洗面所から軽やかに出てきた。金曜日は特に気合いをいれているようだ。会社の飲み会に必ず誘われるというアイは、そのまま夜の町へ出かけているらしい。淡い桜色をしたワンピースは今の季節にぴったりで、だぼっとした寝間着代わりのジャージを着たわたしとは正反対。白い薄手のカーディガンを羽織って、いつもの仕事鞄を持つ。

「明日はパンケーキ、食べようね」

 そういえば先程、卵と牛乳を買っていたな、と思いだしながらわたしはスマホから顔を上げる。視線だけで彼女を見ているだけでは飽きてしまったのだ。出かける前くらい、ちゃんとその姿を見届けたいと思うのは自然の感情だろう。

「ん、楽しみにしてる」

 アイは休みになると大好きなパンケーキをよく作る。ただし毎週ではない。「必ず帰宅する気がある」場合だけ、作る。休日をわたしと一緒に過ごそうとする合図にも似たそれに私は頬を緩ませて応えつつ、スマホを畳へ画面を伏せるように置いて立ち上がる。

「じゃあ行ってきまあす」

 ヒールの高いパンプスを履いて、ひらりと手を振り彼女は風のようにドアをくぐった。いってらっしゃい、と伝えるわたしの声は、バタンと音を立てて閉まったドアの音に掻き消され届かなかったことだろう。ほかほかと暖かい陽気に連れて行かれたアイをドア越しにしばらく眺めた後、コーヒーを淹れ、わたしはもう一度布団を背もたれにして座った。洗濯物が窓の向こうで踊るのを眺めながら、わたしは昨夜を思い返しながら目を閉じ、マグカップから伝わるコーヒーの熱を感じていた。




 ねえ、わたしのこと、すき?

 そんなことを気軽に聞けるほど、わたしはもう若くなかった。きっと女子高生くらいに心や体が瑞々しければ、おなかすいた? くらいの空気感で聞けたことだろう。けれどわたしは、もう大人になってしまった。わたしを抱いた手で他の男を愛すると分かっている女のことを、どう受け止めたらいいのかが分からなかった。都合のいい女、と言えばそれまでだろうか。

 飲み終えたマグカップをシンクへ置き、昨日の食後に水に浸しただけの食器と共に片付ける。昨夜私は得意料理のペペロンチーノを拵え、残業でいつもより少し遅く帰宅したアイへ振る舞った。じゃあお礼をしなくちゃね、と楽しげに笑う彼女によって体を組み敷かれた。セックスがなにかへの対価になると思っているのだ、彼女は。そしてそれを嬉しいと感じてしまうわたしにも、どこかへ頭のネジを外してきたのだ。すき? そんなこと、セックスの最中に聞く方がどうかしているだろう。その答えが貰えるなんて微塵も思わないのに、野暮なことを聞いて白ける方が最悪だから。

 昨夜干した洗濯物を取り込む。一晩夜風に靡いたシャツも、春風に宛てられて暖まっている。葉っぱは勿論くっついていなかった。

 日当たりが悪い訳ではないけれど、狭い窓からは布という邪魔者がなくなっても薄暗い。少しでもかび臭さを消そうと窓を開ける。緩やかな風が吹き込んできて、それが気持ちよくて鼻歌を奏でた。

 窓からの風が室内を埋めて空気が循環する頃、朝の身支度にアイが使っていた洗面所へ向かう。わたしの朝に感じていたゆったりとした空気も、時計の針が進むほど消えていく。アイが朝のバタついた環境で閉め忘れたらしい化粧水のキャップを閉めてやる。

 一人暮らしをしていたはずのアイは、小さなことを良く忘れる。トイレの電気を消し忘れるし、風呂の蛇口をしっかり閉めずポタポタと水が流れていることもあるし、たまに玄関の鍵を閉めることを忘れる。そのときは焦ってわたしも注意をするが、いつものようにケロッと笑って忘れてしまうのだ。わたしがいなくなったらすぐに犯罪にでも巻き込まれるのではないだろうか、なんて架空の妄想をしつつ身支度を調える。

 黒く長く伸ばしっぱなしの髪を梳かし軽い三つ編みを施し、臙脂色をしたシュシュで止める。長い髪が邪魔くさい、と強引にプレゼントされたそれは、アイから貰った唯一の物体だ。食事、そして体も共にするけれど、お揃いのモノなんてひとつもなければ、アイがわたしへ買い与えたものも、これだけ。

「……情けない、顔」

 洗面所に備え付けられている大きめの鏡に映るわたしは、少し窪んだ垂れ目が浮かんでいた。体を愛されたところでなにかが満たされていないのを表すように、睡眠不足を訴えるように、わたしの目の下にはくっきりとしたクマが出来ている。なんて不細工なのだろう。コンシーラーでそれを必死に隠した。なにも考えたくないと塞ぎ込むわたしのように、黒ずんだそれを、奥へ奥へと追いやって、隠した。



 うだうだしていないでシーツも洗えばよかったかも、と後悔するくらいに扉の向こうは晴天だった。朝適当に予報した、時々くもりは期待はずれだったようだ。春風を吸い込んだ部屋の扉をしっかりと閉めて町へ繰り出したら、もう夏が近づいているのではないかと錯覚するほどに太陽は熱かった。普段太陽が昇る時間に外出をしないわたしにはそれは焦げ付くように痛くて眩しくて、消えたくなる気持ちを抑えるように足早になった。

 目的地に辿り着くと、広さに唖然とする。使っていたマイクの調子があまり良くないので新調したほうがいいかと家電量販店に来たけれど、せっかく太陽から逃れたのに今度はLEDライトが私を襲ってきた。眩しくてもともと大きくない目が半分ほど閉じてしまう。その光にようやく慣れた頃、なんとか目的のコーナーを見つけたときにはドッと疲れてしまった。外は敵ばかりだというように、わたしを小さく攻撃してくる。

「なにかお探しですか?」

 挙動不審だったのだろうか、定員がにこやかな笑顔を貼り付けてわたしと一定の距離を保ちながら声を掛けてくる。それにはっと顔を上げ、陳列されたお目当てのマイクと店員を交互に眺めたあと「えっと、だいじょうぶ、です」とまるで来日したての外国人のような返答をしてしまった。

「お困りになりましたらいつでもお声掛けください」と店員は軽く御辞儀をして立ち去っていった。今時の接客は深く追求してこないらしい。わたしはほっと胸を撫で下ろした後、目当てのものに手を伸ばす。

 いまいちどれがいいのかは分かっていなかった。仕事先のマスターや常連のカナメさんから「こういうのがいいよ」と言われていたメーカーすら思い出せず、どうにか思い出すためにメモしていたスマホを取り出す。スマホのメモ帳ではなく、コンビニのレシート裏に殴り書いたそれを取り出して、値札と睨めっこした。わたしはあまり機械と仲良くなれないタチらしく、メーカーの名前が覚えられないどころか、配線なんかもよくわかっていない。わたしがひとりで分かるのは、生きていく最低限の、更に最低限だけだ。それでも生きていけるのは、なんだかんだと生かされているだけ。

「よし」

 人知れずに頷き、オススメされたものと同じ品番の商品を探し当て、わたしはそれをレジへ持って行く。お会計は、出来る。けれど、クレジットカードはないので現金主義だ。もっといえば帰る家が同居人宅の為、二度と帰ることのない実家に住民票があるばかりに、わたしは出来ることが少ない。たったひとりの母へ会いたくない、早く死ねば良いのに、と願う娘には恐らくいつか天罰が降りるのだろう。たとえば、アイに捨てられる、とか。

 目当てのものをぶら下げたビニール袋。歩く度に揺れて、時折箱の角が脚に当たった。いつもより歩くからとジーパンで来ておいてよかった。アイが着ていたようなふわふわとしたスカートでは転んでいたかもしれない。鈍くさくて情けない顔をしたわたしには、春風を思わせるふわふわのロングスカートはまだ早い。

 他に寄り道することもなく、目的地まで真っ直ぐ進みすぎたのだろうか。いつもより早く訪れた店は静けさに包まれ、閉まっているようだった。まだ営業時間前なので当たり前だけれど、なんとなく胸がぼやけた。

 ポケットから鍵を取り出して鍵穴へ突っ込む。ひと回ししたけれど開けた手応えがなく、不思議に思って重厚感のあるドアハンドルを引っ張ってみると、扉はいとも簡単に開いた。

「あれ?」

「あれえ?」

 からん、鳥の姿を模したドアベルが鳴る。その音に顔を向けたオーナーと、わたしの声がハミングする。アレ?

「まだ出勤時間じゃないでしょ」

 オーナーは蓄えた無精髭を撫でながら首を傾げた。わたしも、首を傾げる。

「お昼寝しようかとおもって。オーナーだって今日お休みするんじゃなかったの?」

 程よく広い店内は閉店中らしくテーブルへ椅子が逆さまに乗せられている。世界の場所が変わったようにひっくり返ったテーブル横へ鎮座しているあるソファへ腰を掛ける。固めのソファはわたしの体を押しのけるように反発した。

「いろいろ終わってなくてね。なんだ、今日は歌う日だったか」

「うん、マイクを買ってきたからテストも兼ねさせて貰おうと思って」

「へえ、買い物出来たんだ?」

「えっとまあ、この前カナメさんのオススメ教えてもらったから、そのまま買ったの」

 弾んだ会話と共に、オーナーはいつもカクテルを注ぐグラスへ麦茶を注いでわたしに手渡してくれる。それを有り難く受け取り、一気に飲み干した。想像以上の暑さに自分で想定していた以上に体は乾いていたらしい。その様子をオーナーは手持ち無沙汰に無精髭を撫でながら眺めてくる。そしてその瞳の奥で燻る熱に、気付いた。

「ねえ、まだお昼だけど」

 オーナーはわたしを、何故か気に入っている。路上でひっそりと歌っていると「うちで歌わないか」と誘ってきた男。誰かに歌を必要とされることがなかったわたしは嬉しさに舞い上がり、うたい、そして気がつけば店のソファで抱かれていた。閉店後の誰も居ない防音が施された部屋で、ひっそりと静かに抱かれた。

「お昼になんて、滅多に会えないだ。いいだろう?」

 その下心を隠そうとしない視線はそのままに、わたしの隣に腰掛けた彼はそのままわたしを組み敷く。男性とのセックスは苦手だった。こんなことをするくらいなら、アイに抱かれているときのほうが比べものにならないほどに幸せだった。けれどわたしはそれ以上に、歌いたかった。人に聞いて貰いたくて、わたしの歌で幸せになってもらいたくて。それなりに広いこの店でわたしは歌っていたかった。だからこの無精髭が唇の周りに当たることが痛くて不快でも耐えられる。オーナーはわたしを愛でてくる。心以外を、全部愛おしいと思っているというように、触れられる。そしてここへ置いてくれる。

 わたしの上で狂い踊る男を眺めながら、アイを思った。まだ昼過ぎだ。今頃仕事に明け暮れているのだろうか。昼食後の眠気に耐えるべく唇を噛みながら、パソコンへ向かっているのだろうか。それとも今日食べる男を物色しているだろうか。わたしのことを、ひとかけらでも、朝電車の中でみる当たらない占い程度にでも思い出してくれているだろうか。

 気が済んだオーナーは、「あ、そういえば」と思い出したように脱いだズボンから財布を取り出した。使い込まれた上品な折りたたみ財布から、曲がった札が数枚テーブルに置かれた椅子の間に挟まれる。恐らく、十枚程度あるだろう。

「いつもありがとう」

 わたしはそれだけ言って、目を閉じた。普段は夜しか活動しないのに、昼から動いて疲れ切っていた。早く眠りたくて体を丸める。どこかしこも濡れた感触がしたけれど、もうどうでもいいから早く眠りたい。

「おやすみ」

 カラン、と扉が閉まる音。鳥の姿をしたドアベルが鳴いた音。その後鍵を掛ける音がして、わたしは完全に一人きりになった空間へ身を委ねた。

 わたしの体をしゃぶった無精髭は、これから妻子の元へ帰る。わたしはいい女なのだ。彼にとって声がいい、体が良い、都合のいい女。だけどそれでいい。どうせもう、普通に働くことなんて出来ないのだから、もうこれで、いい。



 泥のように眠った後、スマホが震える音で目覚めた。ソファで眠るといつも体のあちこちが痛む。テーブルに置かれていたスマホを取ろうと手を伸ばすと、ぴき、と脇の裏が鳴った。あとで少し体を動かさないと考えながら手をあちこちペタペタと触れるが、スマホに当たらない。ううん、と唸ってから怠い体を持ち上げた。思っていた以上に奥まった場所で転がっていたスマホを取り上げ、ついでにオーナーが置いていった札を財布に突っ込んだ。

 スマホの通知はどうでもいいものだった。定期的に、そして一方的に送られてくる母の近況報告だ。スマホを握りつぶしてしまいたい衝動を堪えながらカバンの奥へ仕舞い、店で用意されている衣装に身を包む。男の匂いが残されたまま、男が見繕ったドレスを着て、男に選んでもらったマイクを持つ。新品のマイクは、よく音を通してくれた。わたしの声だけを響かせて、わたしを包んでくれた。歌は、わたしとわたしでしか分かり合えない語り合い。発した声から届く先を思って、わたしは歌い続けた。その先になにがあるのかなんて、分からないけれど。

 男の香りは、気付けばもう消えていた。



 始発に乗って帰路に向かう。鉄板で出来た階段で、踵を鳴らし登る。ドアノブを一度回してみたけれど鍵が開いている様子はない。アイが先に帰宅していれば恐らく鍵を閉めていることはないだろう。仕事だったわたしのほうが先に帰ったのか、とふわりと浮かんだ虚しい気持ちを鍵穴と一緒に押し込めて部屋に上がる。もう少しで帰ってくるだろうか。わたしはシャワーも浴びずにキッチンへ向かった。もしかしたら男の匂いが残っているかも、と思ったときには昨日アイが買ってきた卵をボールへ割り入れた瞬間だったので、もういいかと諦める。それよりも先にパンケーキを仕込んでおこうと泡立て器を使う。本当ならアイが先に帰って、いつものように作ってくれるのかな、なんて想像はわたしの妄想だったようで、彼女からしたら作られたものを食べて体で対価を払うほうがいいだろう。そうだとわかっているのに、胸にもやが広がる。

 愛されたいなんて、願っていないはずなのに。ジュウウ、とフライパンの上に広がったパンケーキの種に、溜め息を添えた。願っていないことは想像出来ないはずだ。想像出来るということは、心のどこかで願っているのだ。部屋に広がる甘い香りが鼻を通っていくと、それはもやもやしたへに被さるように広がっていった。

 一枚目のパンケーキが焼けた頃、トントン、と鉄階段を上る音が聞こえてくる。ヒールで鳴らすそれに、ああ帰ってきた、と安心したわたしは、ドアに手を掛けられる前に鍵を開けてやる。

 がちゃり、と音がした。おかえり、と声が出る前に、わたしは息を飲む。そのまま暫く息をすることを忘れた。

「ああ、帰ってた? ごめんね、もう帰ってこないでくれる?」

 そこにいたのは、アイと、知らない男。スーツを着崩した男は真っ白なシャツに臙脂色のネクタイを緩めながらアイの腰に手を回して、寄り添っていた。二人の間には、見えない熱が見える。

「……そう。わかった」

 ふたりはまだ酒が入っているのか、脚をもたつかせながら靴を脱ぐ。それを見た後、わたしはフライパンの上でふっくらと焼けたパンケーキをシンクにひっくり返し、水で流す。食べて貰えないとわかった以上、もう、必要がない。

 持ち込んでいた最低限の服と貴重品をボストンバッグへ詰めている間、カビ臭い布団を敷きだした二人を横目に靴を履く。

「お幸せに」

 そんなこと、一ミリも思っていなかった。けれど、そういうしかなかった。わたしのために、アイのために、二人が決別をする為に別れの言葉を紡ぐしかなかった。

 けれどわたしの声は、アイの嬌声に掻き消されていく。耐えきれないわたしはドアの向こうへ飛び出して、鍵を掛けてポストへ投げ入れた。

 まだ早朝だというのにカンカンッと派手に音を立てながら鉄階段を下りる。洗面所に唯一アイからもらったシュシュを忘れたな、と思い出したけれど、わたしは足を止めなかった。いいや。もう、思い出も、置いていこう。

 近所の公園まで歩いてベンチに腰掛け、わたしは空を見上げた。何もない人生が更になにも無くなったなあ、と他人事のように思いながら、流れゆく雲を眺める。

 今日の天気は曇り時々晴れ。ラッキーカラーは、さっきの男が付けていたネクタイと同じ、臙脂色でしょう。

「良い日になるかなあ」

 ぼやいた独り言は、湿った風に掠われていった。この湿っぽさは雨が降る。雨のにおいがする。さっそく天気予報が外れた。わたしには天気予報士は向いてないだろう。

 ならば今日の仕事には、臙脂色の服を着よう。白いシャツを臙脂色に染め上げて、たまにはスーツでも着てみよう。スーツで歌い上げるのも悪くはないはずだ。

「わたしの手で、良い日に、しちゃおう」

 わたしは公園を後にする。向かう先は、古いアパート。

 あのシャツを、臙脂色へ染めに行くわ。だって今日の、ラッキーカラーだから。

 もやのかかった胸はすがすがしく晴れ、足取りは鳥が飛ぶように軽い。

 きっと今日は、いつも以上に気持ちよく歌えるだろうという確信を持ちながら、先程降りたばかりの鉄階段を駆け足で上りきり、薄いドアを蹴飛ばして笑って、うたった。



End.

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