第33話 命

「ねえ、吸血鬼さん」

「ん」

「今日は、一緒に寝てくれない?」


 吸血鬼がミアを保護してもうすぐ二ヶ月が経つ頃。

 ミアは初めて、そんなおねだりをした。


「……どうして」


 吸血鬼も訝しむ。


「そんなに変なお願いではないと思うの。仲の良い人同士は、一緒のベッドで眠るものよ」

「それは人間の文化……というか生殖活動の一環では?」

「子を作る、作らないに限らず、そうするものなのっ……げほっ、ごほっ」

「……! ミア、水を」


 咳き込むミアに、吸血鬼はすぐ水を差し出す。

 ミアは苦しげに、しかし懸命に水を数口飲むと、弱々しくもいつもの微笑を浮かべた。


「とにかく……お願い」


 そう必死に頼まれれば、吸血鬼にも断る術は無い。

 眠りを必要としない不死の吸血鬼である彼女にとって、ベッドに横たわり毛布にくるまるという行為は、ひどく懐かしいものだった。



「ねぇ、吸血鬼さん」

「ん」


 先ほどと同じやりとり。

 それを、ベッドに並んで繰り返す。


「貴女の顔に、触れても良いかしら」

「顔? 別にいいけれど」


 毛布から出されたミアの手を、自分の顔へと導くために握る。


(っ……)


 ミアの手はひどく震えていて、殆ど力が入っていない。

 吸血鬼はそれに気が付きつつも、黙って彼女の手を握ったまま、自分の頬へと這わせる。


「見えなくてもね……こうすれば、貴女が分かるでしょう?」

「……ああ」

「肌、すべすべで気持ちいい……鼻も高いし、すごく美人なのね、貴女……」


 殆ど吐息と混ざった声を絞り出しながら、ミアが呟く。

 その声に、苦しげな笑顔に、吸血鬼は胸を締め付けられる。


 ミアは吸血鬼の顔を撫でながら、彼女の質問に答えていく。


「髪は銀色。肌は白いって言われる。瞳は……真紅」

「真紅って、どんな色……?」

「ええと……深みのある赤色、とか言われるけど、近いのは……」


 血の色、と言いかけ、吸血鬼は口噤む。

 ミアの受けた経験から、あまりデリカシーの無い表現だ。


 ただ、彼女と出会ったばかりの頃の吸血鬼なら、きっと気にせず口にしていたかもしれないが。


「きっと、とても綺麗なんでしょうね……」


 黙った吸血鬼の目元を、ミアは親指の腹でじっくりと撫でる。


 確かに、彼女の特徴として髪色と同じくよく挙げられる要素だ。

 魔性の瞳、と揶揄されることも多い。使った覚えの無い、魅了の魔法でも掛けられたのではないかと騒がれることもある。


 しかし、その瞳はミアの目に映ることはない。

 自分がどれだけ彼女を見つめても、彼女の世界は暗闇に包まれたままだ。


「……吸血鬼さん?」


 はっと、ミアが顔を上げる。

 彼女の親指に、温かな液体が触れた。


「泣いて、いるの?」


 彫刻のような無表情のまま、吸血鬼は一筋の涙を流していた。


「……みたいだ」


 吸血鬼の言葉には僅かに驚きが滲んでいた。

 涙を流したのがいつ以来か、彼女にも分からない。


 それでも、胸の奥で熱い感情が鼓動を高鳴らせているのは分かった。


「ミア。私はミアに謝らなくちゃいけない」


 殆ど力の入っていない彼女の手が滑り落ちないように、ぎゅっと握りながら、吸血鬼は言葉を絞り出した。


「私は、偶然ミアと出会ったんじゃない。本当は、私は……君に殺されにきたんだ」


 今まさに、いつ事切れてもおかしくない少女に向かって言う話ではない。

 しかし、言わずにはいられなかった。彼女がこのまま、死後の世界まで、『自分が良い吸血鬼だ』と誤解を持っていって欲しくなかった。


「あの村には、豊穣の御子と呼ばれる特別な家系が……それを継いだ君が住んでいると噂を聞いた。世界に祝福をもたらす神の力が本当に存在するのであれば、その理から外れた、不死という誤った存在である私を、殺せるかもしれない、と」


 もちろん、完全にその存在を信じていたわけではない。むしろ疑いの方が強かった。

 しかし、眉唾物のおとぎ話を確かめても損しない程度に、時間は溢れていた。


 駄目だったら次を探せばいい。

 不死という無限の時間に胡座をかきながら、しかし、この吸血鬼はそこからの解放を求めていた。


 気が付けば不死になっていた。そのきっかけも彼女は知らない。

 けれども、不死になれたのならば、逆に不死から解放される手段もどこかに存在している筈。

 それを探すことだけが、彼女の生きる意味だった。


「わたしに、そんな力はないわよ」

「ああ、知ってる」


 もしも本当にそんな異能が備わっていれば、彼女はこんなところにはいない。

 飢饉を撥ね除け、今も故郷の村で家族と共に幸せな日々を送っていただろう。


「ごめん。私がもっと早くあの村に着いていれば、ミアの家族は……ミアは……」

「嘘は駄目よ、吸血鬼さん」

「……え?」

「もしも、ああなる前に貴女が会いに来てくれても……きっとすれ違っていただけ。私達が、村の人達を欺いてしまっていた事実も、結末も、きっと変わらなかった」


 もちろん、ミア達に騙そうとする意志はなかった。

 ミア達の村は長い間、豊作に恵まれていたのだから、誰もが、ミア達自身も、豊穣の御子の力が実在すると信じていたのだ。


 しかし、飢饉は来てしまった。

 それを防げなかったのだから、彼女らの存在が嘘だったと責められても、受け入れるしかなかった。


「でもね……本当はこんなこと、考えちゃいけないって分かっているけれど……ああなったから、吸血鬼さんと一緒に過ごすこの時間ができたって思うと、案外悪い気分じゃないのよ」


 ミアは吸血鬼の手を握る。

 必死に、けれど弱々しく。


 吸血鬼はそれを少したりとも逃さないように、しっかり握り返す。


「ただ……一度だけ、一瞬だけで良いから、貴女をこの目で見てみたかった。貴女がどんな吸血鬼なのか、知りたかった。それは叶わなかったけれど、でも……」

「…………」

「貴女は、全てを無くしたわたしに優しくしてくれた。愛を注いでくれた。だから……」


 ミアは、にこりと、病の苦しみを感じさせない清々しい笑顔を浮かべた。

 吸血鬼も目尻に涙を浮かべながら、必死に笑う。


「私、生きるよ。ミアの分まで。それで……また、ミアに話しに来るから。私が見たもの、感じたこと……好きになったもの、全部」

「ふふっ……じゃあ、不死でもきっと足りないくらいね」

「うん」


 吸血鬼は思う。

 きっと自分は死を求めながら、生きる希望を探していた。

 渇いた大地のように、心を潤してくれる命の水を探していたのだ。

 そしてそれが、ミアだった。全てを失い、それでも慈愛を分け与えられる彼女と出会えたから、自分は生きる希望を、未来を再び手にできた。


 願わくば、それはミアと歩みたかったが……それがもう叶わないことは、二人ともよく分かっている。


「……『シンク』」

「え?」

「今日からはそう名乗る。ミアが褒めてくれたこの瞳……この名前とともに世界を見る。ミアと、一緒に」

「しん、く」


 それはミアにはあまり耳馴染みの無い、東洋の言葉。

 あえてこの国の言葉を使わなかったのは、吸血鬼――いや、シンクに自覚が生まれたから。


 自分が、外の世界とミアを繋ぐ存在。

 自分が、ミアにとっての世界だと。

  

 こうして直接語り合える時間はもう、殆ど無い。今にも尽きようとしている。

 だから、彼女は自身の名に乗せて差し出した。


 ミアに与える外の世界。

 その最初のプレゼントとして。


「シンク……わたし、楽しみだわ。貴女のしてくれる話……ずっと、楽しみにしている、から」

「うん」


 その言葉はもう殆ど、声になっていなかった。

 けれども、シンクは一言たりとも聞き逃さず、全て受け止め、飲み込む。


「ありがとう、ミア。私に生きる意味を……命をくれて」

「ありがとう、シンク……わた、し……も……」


 小屋に静寂が訪れる。

 そして……。


「…………ミア」


 彼女はその真紅の瞳から涙を溢れさせながら、安らかな笑顔を浮かべる少女を抱きしめ続けた。

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