第30話 昔話

 現代から遡ること、数百年より昔。


 アルプスの山嶺に囲まれた自然の中、ぽつんとひっそり建てられた山小屋に、彼女はいた。


 貴族が愛でる調度品よりも煌びやかな銀色の長い髪。

 深みのある鮮やかな赤い瞳。


 スラッと伸びた長身と、凹凸のくっきりした艶めかしいボディラインを紫色のドレスで包んだ、魔性とも呼べる危険な魅力を放つ美女。


 その名は――既に、世界から忘れ去られていた。


「…………」


 彼女は窓際に置いたイスに座り、外の景色をじっと眺めていた。

 まるで彫像の如く、身動き一つ、瞬き一つしない。


 一秒、一分、一時間――過ぎる時間を惜しむことなく、むしろ一片の価値さえ抱いていない。

 時に尊び、時に憎み、絶望し……最後に虚しさだけが残った。

 彼女は抗う術をことごとく失い、今はその永き虚しさを甘受するほかなかった。


「ん……」


 小屋の中に、小さな吐息が漏れる。

 彼女とは違う、幼い声。


「……おはよう、吸血鬼さん」


 その少女はベッドに横たわっていた。

 おはようと言うには、既に夕日は傾き、山嶺も影に隠れ始めている。


 しかし、彼女――いや、彼女達にとって、日暮れこそが一日の始まりだった。


「おはよう、ミア」


 吸血鬼と呼ばれた銀髪の女性は、淡々と、感情のこもらない挨拶を返し、立ち上がる。


 そして少女――ミアの横たわるベッドの側にイスを移すと、再びそれに座りつつ、彼女の髪を優しく撫でた。



 吸血鬼という種は、その数を著しく失い、絶滅の危機に瀕していた。


 今、この世界を支配しているのは人間。

 彼らが世界のルールであり、彼らの都合がいいように認知は歪み、理は崩れる。

 森は拓かれ、岩は削られ、動植物は食い散らかされる。


 そんな流れの中に、吸血鬼も飲み込まれようとしていた。


 かつて人間とはただの食料でしかなかった――と、吸血鬼達は認知している。

 豚や牛など、他の哺乳類に比べ、人間は非常に芳醇な血を有しており、しかも、自分達より遥かに弱い。


 時に狩り、時に囲って養殖する。

 中には快楽のために、雑に人間の命を奪う者もいたが、誰も非難はしない。

 自分達は捕食者であり、支配者。人間など、糧でしかない。


 しかし、そうして吸血鬼達が種族差に胡座を掻いている間に、人間達は知恵を練り、牙を研ぎ、団結を固めていた。

 突如、世界各地に吸血鬼狩り、ヴァンパイアハンターという存在が現れ、吸血鬼達に反抗し始めたのだ。


 それは不意打ちだったが、それでもなお吸血鬼達は人間を侮っていた。

 吸血鬼達の弱点を研究し、戦略を立て、確実に屠っていく。

 吸血鬼は元々個体数が多いわけではなく、人間よりも遥かに増えづらい。

 彼らが自分達が絶滅の危機に瀕していると気が付いた時にはもう、手遅れだった。


「…………」


 そんな、同胞達の死を、この銀髪の吸血鬼は遠くから眺めるだけだった。

 いや、同胞と言うのも彼女には憚られる。


 彼女に突如として発現した権能――個性と言ってもいい。

 それによって吸血鬼でありながら、その枠から弾き出されてしまった。


 彼女は早々に身を隠し、人の世に紛れ生きながら、かつての同胞達が蹂躙されていく様を、ただぼうっと眺めていた。

 仮に自身がそこに残っていたとしても、死に身を委ねることは敵わなかっただろうけれど。


 不死。

 人間、吸血鬼、この世に生きとし生けるもの全てに与えられた最期。

 それを取り上げられたことで、彼女はこの生者の世界に縛り付けられたまま、居場所を失った。


 そうして、長い旅路の果てに出会ったのが、この人間の少女だった。


「加減はどう」

「今日は……こほっ、調子がいい方ね」


 早速咳を溢しながら、それでもミアは微笑んだ。


 彼女の身体は病に冒されている。

 目は見えず、足も動かない。酷いときには一日中咳が止まらず、血を吐き出すこともある。

 十九歳という若さにして、もう長くはないことは誰の目にも明らかだった。


 吸血鬼が出会った頃には、彼女は既にこの状態だった。

 ミアはあらゆる治療を拒み、静かに死ぬことを求めて――だから、吸血鬼はこの誰も訪れることのない山小屋まで、彼女を連れてきたのだ。


「今日はスープを作った。口に合うと良いけれど」

「吸血鬼さんの作ってくれるご飯なら、どれも美味しいわ」

「嘘ばかり。私には君たちみたいに豊かな味覚は備わっていない。そもそも料理を楽しむなんて習慣も無いし、理解もできない」


 病に冒されたミアは、それでも表情豊かに微笑む。

 対し、死に縁のない吸血鬼は、感情を一切表に出さず、無表情を保っていた。


「うん……やっぱり美味しいわ」

「すごい渋い顔しているけれど」

「……良いお薬は苦い味がするというでしょう。それと同じよ、うん」


 つまり、不味かったらしい。

 確かにこのスープは適当な野菜と薬草を水で煮込んだだけ……敷いて言うなら、畑の土味といったところだろうか。


 岩塩や香辛料といったものが、手には入らないわけではない。

 しかし、吸血鬼にはそもそもとして、味付けという概念が理解できなかったのだ。


 ただ、それでもミアは文句一つ言わず、表情を一切歪めることもなく、スープを飲み干した。


「ごちそうさま、吸血鬼さん。身体、拭いてくれない?」

「ああ」


 吸血鬼は言われるがまま、布を手に持ち、ミアの華奢な身体に這わせた。

 肌色はあまり良くない。昨日は凄まじい高熱を放っていたのに、今日は随分冷たい。


 長く生きるだけの彼女には、この病が適切な治療を行えば治るものなのか、どうか……苦しいのかどうかさえ、分からなかった。


「ねえ、吸血鬼さん。どうして貴女はわたしの側にいてくれるの?」


 身体を拭いてもらいながら、ミアは問いかける。

 病に蝕まれながら、それでも笑顔を崩すことなく。

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