第22話 吸血鬼、顕現す

 どこか別の家に迷い込んでしまったのではないか。


 一瞬、そんな錯覚を覚える程度に、リビングは息苦しく冷たい空気に包まれていた。

 ホラーゲームだったら、ドロドロとしたBGMが流れていそうな場面――しかし、現実にBGMなどなく、二十四時間換気の音だけが響いていた。


(な、なに?)


 トモリはとりあえず電気をつけようと手を彷徨わせるが、全身が妙に震えて上手く動けない。

 視線はずっと、警戒するようにリビングを見渡していて――そして、気付く。


 何か黒い、小さなものが、部屋に入ってきている。


(あれは……え?)


 部屋の中にいる、黒い何か。

 それはひとつだけではなく、何個も……いや、何匹もいる。

 ぱたぱたと、羽をはためかせ、固まって飛んでいる。


「こ、コウモリ……?」


 十……いや、何十匹ものそれは、コウモリのような姿をしていた。

 暗く、トモリにはよく見えないが……とにかく、羽の生えた獣っぽい何かだ。


 トモリは固まり、ただただ恐怖するしかなかった。

 電気はもうつけられない。もしもつけて、コウモリ達の機嫌を損ね襲われたら……そう思うと身動きひとつ、物音ひとつ立てるのさえ憚られた。


 これだけの数、いったいいつの間に、どこから入ったのか。 

 トモリだってバカではない。一人暮らしをする最中、無防備に窓を開けっぱなしにするような愚行は起こさない……のだけれど。


「……え?」


 コウモリが集まる、その軌跡の元を辿ると、答えはすぐに分かった。

 ……いや、答えと言っていいのだろうか。

 少なくともトモリには、大量のコウモリが部屋に入り込んでいるよりも遥かに、それを現実として受け入れることはできなかった。


 なぜならコウモリは、窓ガラスをまるで水面から浮き出るように抜けてきていたからだ。


 およそ現実に起こる現象では無い。

 トモリは腰を抜かしながら、自身の頬を抓る。


(痛い……)


 どうしたって痛いのに、目の前からコウモリが消えることはなく、どんどん窓をすり抜けて部屋に集まっていく。

 気が付けば向こう側が見えないくらい大量のコウモリが部屋を席巻していた。


「う、あ……」


 何が起きているかは分からない。

 しかし、これが縁起の良い幻想ではないだろうというのは分かった。


 トモリが呆然とする目の前で、コウモリ達はまるで竜巻に巻き上げられた木の葉のようにひとつに集まっていく。

 コウモリ達の黒い身体が合わさり、溶け合い……徐々にひとつの形を作り出していく。

 闇が質量を持ち、影が実体を得て浮かび上がるような、そんな感覚。

 

 それは、人の姿をしていた。

 幻想的な光景に、先ほどの不吉さも忘れてただ見入るトモリ。

 そして――


「…………!」


 思わず息を飲む。

 

 影が晴れ、闇の中から一人の少女が現れた。

 銀色の美しい長髪、見つめられればそれだけで精気を抜かれそうな、幻想的な真紅の瞳。

 華奢な身体だが、身に纏った紫のドレスが非常に似合い、映えている。


 まるで人の理想を詰め込んだ芸術品のような、目を逸らすという自由を奪うほどの気品を持った少女が、リビングの中央に悠然と浮かんでいた。


(吸血、鬼……?)


 熱に浮かされた頭に、一つの言葉が浮かぶ。

 それは奇しくも自分が演じるVTuberの設定に近しい、伝記上の存在。


 存在するわけがないと知りつつも、一度そう考えてしまえば、それが絶対の答えに思えてしまう。


 そんなトモリがぼうっと見つめる中、銀髪の少女もまたぼうっとした様子でリビングをゆっくり見渡し――トモリの前で顔を止める。

 真紅の瞳に射貫かれ、トモリが思わず声を上げそうになった、瞬間。


「う――ッ!?」

「……しぃ」


 ほんの瞬きの間に、少女が目の前まで距離を詰め、彼女の口を左手のひらで覆い、塞いだ。

 そして右手の人差し指を立て、自身の口元に当てる。


 静かにしろ、というジェスチャー。

 トモリはただ頷くしかない。


(た、食べられるの、私……!?)


 どうしてこの少女がここに現れたのか、分からない。

 もしかしたら吸血鬼を名乗り活動していたことで顰蹙を買ってしまったのだろうか。


(……でも)


 まるで線を引いたような、薄い唇に目を奪われる。

 トモリの吸血鬼知識が本物に通用するのであれば、あの小さな口で首筋を噛まれ、血を吸い上げられるのだろう。

 

 その未来を想像し、あの唇が自分の肌に触れる姿を思い浮かべ……なぜか胸を高鳴らせてしまう。

 今から死ぬかもしれない。その恐怖は間違いなくある。

 けれど、この美しい少女になら食べられてもいい。むしろ食べられたい。


 そんな倒錯した感情がトモリの脳内に渦巻く。


「…………」

(え?)


 銀髪の少女がトモリをじっと……いや、ジトーっと半目で見ながら、親指で窓の方を指していた。

 どこか呆れたような、捕食者らしからぬ人間味のある症状にぎょっとしつつ、トモリはそちらに目を向け――ぎょっと目を見開いた。


『配信切れてない。声を上げず、ソフトを落として』


 窓にはそう文字が刻まれていた。

 おそらく――いや、どう見ても、血で。

 トモリが悲鳴を上げずに済んだのは、銀髪の少女に口を押さえられているからに他ならなかった。


 しかし、言葉の意味を理解すれば、すぐに思考は別の方向へと回り、さあっと顔を青ざめさせる。


「……(こくこく)」


 そんなトモリを落ち着かせるように、少女は頷いた。まるで「大丈夫」と伝えようとしているかのように。


 頷き返すと、少女は彼女の口から手を離し、解放してくれる。


 そうして、トモリは銀髪の少女に見送られながら、音を極力立てないように仕事部屋兼寝室に。

 パソコンを確認すると確かに配信ソフトが動いたままだった。


(こういうとき、気付いたお芝居とかするべきなのかな……?)


 頭の中でシナリオを描いてみる。

 配信を終えて、お風呂に入って、戻ってきたら配信が続いているのに気が付いた……そんな自然な反応がベストだろう。

 しかし、そんな理性は頭の中のほんの数%しかなくて、殆どはリビングにいる銀髪の少女――本物の吸血鬼に向いていて。


 トモリにはとても演技を、『不死の吸血姫』の仮面を被る余裕なんてなく、結局何も言及しないまま、無言で配信を閉じ、パソコンをシャットダウンした。


(あ……切らずに誰かに助けを求めた方が良かったかも……)


 トモリは自分で、自分の退路を断ったことに気が付いた。

 まるで銀行強盗に指示されるまま電話線を切ってしまうような、そんな感覚を覚える。


 しかし、余計なことをすれば顰蹙を買う危険性もある。

 トモリは、銀髪の少女に見つめられた時の熱が冷めていくのと反対に、再び湧き上がってくる恐怖を感じながら、リビングへと戻った。


「あ、おつかれさま。大事にならなくて良かったよ」

「……へ?」


 そこには既に、息苦しくなる重たい空気は一切残っていなかった。

 けれど、先ほどの銀髪の少女はまだそこにいて……しかし、先ほどの神秘的な妖艶さをみじんも感じさせずに、フローリングに胡座をかきながら、酷く気の抜けた笑顔でトモリを出迎えた。

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