第10話 吸血鬼、約束する
「わざわざ迎えに来させちゃってごめんね、ツムギ」
チサトと別れた後、ツムギと一緒に家への帰路につきつつ、シンクはそう頭を下げた。
「んーん、ここに走りに来るって言ってたの聞いてたし。まぁ、もしもいないでどこかに逃げられちゃってたらお手上げだったけどさ」
「む、信用されてないな」
「信用してるから探しに来たんでしょ」
「ん? それもそっか」
信用していなかったら、既にいないかもしれない自然公園にさえ、わざわざ足は運ばない。
五時間も待って、わざわざ迎えに来たというのは、今もシンクが走っていると信じていた証明なのかもしれない。
「ていうか、またビール飲んでたでしょ」
「走ったら喉渇いちゃって」
「それで斑鳩さんにもちょっかい出すしさ。吸血鬼ってそういう手も早いの?」
「そういうって……他に手が早いのってあったかなぁ」
シンクは苦笑しつつ、首を傾げる。
「あ」
「ん、なに、シンク。いきなりじっと見てきて……何かついてる?」
「そういえばさ……」
「えっ! ちょ、な……んっ!?」
シンクは一歩、ツムギとの距離を詰めると、先ほど公園でチサトにしていたように……突然、ツムギの首筋に鼻を近づけた。
「くんくん……」
「ちょっと、シンク!? 何やってんの!?」
「……やっぱり、ツムギっていい匂いするよね」
「は!?」
突然すぎる発言に、ツムギは顔を真っ赤にして固まってしまう。
彼女はシンクとチサトがイチャついているのは目撃したが、まさか二人が互いの体臭を嗅ぎ合っていたなんて、全く気が付いていなかったからだ。
「そりゃあ、多少香水とかつけてるし……ていうか、いきなりなにいってんの!?」
「いやぁ、前からわりと思ってたよ。それに、香水の匂いが」
「ちょっと……シンクぅ……!」
深く探り、味わい尽くすようにシンクはツムギの匂いを嗅ぎ続ける。
すぐに夢中になってしまったのか、ツムギの身を捩りながらの抵抗に気が付かない。あと、それが形だけなことにも。
(ツムギの血……すごく美味しそうな匂いだ)
チサトの血がぴりっと危険を感じさせるものならば、ツムギの血は甘く濃厚な奥深さを思わせる。
おそらく一度口にすればもう忘れられず、定期的に口にしなければおかしくなってしまいそうな、そんな吸血鬼を間違いなく虜にしてしまうであろう血。
当然シンクはまだ口にしたわけではないし、その予定もないが……匂いだけで判断するならば、間違いなく百点満点だ。
「んぅ……」
そんな風に嗅がれ続けていると、次第にツムギの形だけの抵抗も薄れてくる。
それどころか、これだけ近づけばシンクの、髪とか汗とかの匂いを感じてしまう。
(し、シンク……)
ツムギは自分でも信じられないくらい、心臓が高鳴っているのを感じていた。
おしゃれに気を遣い、ギャルと呼ばれるような自分らしさを常に貫いているツムギは、学校でも男女問わずたくさんの生徒に囲まれることが多い。
特に女子の特に仲の良い友人達からは、そこそこ強めのスキンシップを受けることも少なくない。それこそ買ったばかりの香水自慢に肌の臭いを嗅がされることだってあった。
しかしそのどれよりも、ツムギは今、興奮を覚えていた。
姿形は似ていても全く異なる生物――吸血鬼の彼女に。
(もしかして……あたしの血、吸いたいの?)
いや、吸血鬼だと知るからこそ、よけいにそう感じるのかもしれない。
ツムギはシンクに血を吸われたことなどないし、彼女が誰かの血を求めている姿を見たこともない。
しかし、こうして皮膚の下に隠れた血管を探すように鼻先を当てられれば、これから自分が捕食されてしまう予感を覚えずにはいられない。
そして……食べられてしまうかもしれないのに、なぜかそれでもいいと思ってしまう。
(マンガとかで、吸血鬼に自分から血を吸われに行く人がいたけど……こんな気分だったのかな。この人になら食べられてもいいっていうか、むしろ――)
高熱に浮かされたみたいにぼーっとしつつ、このまま身も心も委ねてしまおう……と、ツムギが思考を手放しかけた、その時。
「あらあら」
「っ!?」
通りすがりの見知らぬおばあさんから、「最近の子は進んでるわね~」と言いたげな生温かな視線を向けられていることに気が付いてしまった!
「し、シンク! 離れてっ!!」
「わっ」
蕩けかかっていた思考を咄嗟に揺り起こし、すぐさまシンクを押しのける。
シンクも全く抵抗せずに離れる――おかげで、さっきまでツムギがこれっぽっちも抵抗していなかったことが証明されてしまったわけだが。
「う……! い、行くよ、シンク!」
「う、うん」
おばあさんの視線から逃げようと、ツムギはシンクの手を握り早足で歩き出した。
耳、首筋まで真っ赤にしながら。
「ツムギ? もしかして……怒ってる?」
半歩後ろから歩くシンクには、赤らんだ肌がよく見えた。
人間が肌を火照らせるのは怒ったときや恥ずかしさを覚えたときだ。
それを知識として知るシンクは、自分の行動がツムギの機嫌を損ねてしまったのだと申し訳無い気分になった。
「ごめんね、ツムギ。ちょっと我を忘れたというか……」
「……シンク」
「ん」
「シンクはさ……あたしの血、飲みたいの?」
シンクの手を引き、彼女に背を向け歩きながら、ツムギは耳を真っ赤にして聞いた。
対するシンクは、まったく予想していなかった問いかけに、すぐに答えられず目をぱちくりと瞬かせた。
「えっと」
確かに、ツムギの血は美味しそうだと感じたのは事実だ。
しかし、だからといって、実際に飲みたいかといえば、話は別。
今、言葉に詰まってしまったのは単純に、ツムギが自分からそれを聞いてきた意図が読めなかったからだ。
まるで、シンクが頷いたら自ら首筋を差し出してきそうな、そんな雰囲気で……。
「……怖くないの?」
「え?」
シンクは、ツムギの質問に答えるより先に、質問し返していた。
「血を吸うなんて、普通じゃないし……普通怖いとか、気持ち悪いって思わない?」
「怖くないよ。だって、シンクだもん」
一度聞き返しはしたものの、ツムギははっきりと即答した。
シンクからそんな疑いを持たれること自体心外だと示すみたいに、ぎゅっと手に力を込めた。
「じゃあ、もしもわたしがツムギの血が吸いたいって言ったら、受け入れてくれる?」
「う……も、もちろん! 当然心の準備は必要だし、あと、倒れないくらいならだけど!」
これまた、少し詰まりつつも即答するツムギに、シンクは驚きつつ……苦笑した。
「大丈夫。吸わないよ」
「別に怖がってなんかないよ!?」
「ふふっ、分かってるよ。でも、吸血鬼相手に『血を吸っていい』なんて思わせぶりなこと、簡単に言っちゃ駄目だよ」
「むぅ……思わせぶりじゃないし、シンク以外の吸血鬼なんて、会ったこともないもん」
「そりゃまあ、そうか」
シンクは頷きつつ、すっとツムギの横に並ぶ。
「でも、大丈夫。わたしは吸血しないって決めてるから」
「どうして? そういえば、聞いたことなかったけど……」
「人の世界で生きるって決めたときからそうしているからね。だって、血を吸って生きるなんて人間からしたら変でしょ。わたし、不死だから血を飲まなくたって死なないし」
「そうかもだけど……」
「それに、血なんて飲んじゃったら、ビールの味も分からなくなるでしょ」
得意げに胸を張るシンク。
そんなシンクにツムギは呆れた視線を向ける。
「またビール……」
「それが今のテーマだからね」
いかに美味しいビールを飲めるか。
それが今のシンクの楽しみであり、彼女を突き動かす動力になっている。
(まったく……シンクはシンクだなぁ)
まだ未成年のツムギには共感できない嗜好だけれど、内心ホッとしていた。
確かに一緒にお酒を飲むことはできないけれど、全く手の届かない領域というわけじゃない。
「ね、シンク」
「んー?」
「もう少し、にんにく強めでもいいって言ったでしょ。だからあたし、いっぱいレシピ調べたんだ」
「え、ほんとっ」
ツムギの武器は料理だ。
ギャルになる前から、シンクと出会う前から、母親の手伝いで料理には触れていた。
その頃は仕方なくという気持ちも強かったけれど……今では動機もすっかり変わって、積極的にレシピを漁り、日々練習に励んでいる。
「だからさ……今度、また作ってあげる」
「わーっ! ありがとう、ツムギ!」
シンクは無邪気に瞳を輝かせる。
不死の吸血鬼であろうと、こういうところは子どものように、純真だ。
「ビールに合うかな……?」
抱える期待は、まるで中年のようだが。
「きっと合うよ。だっておつまみに最適って書いてあったもん」
「ほうほう!」
「その料理はね……アヒージョっていうの!」
「アヒージョ……」
シンクは顎に手を当て、神妙にその名を繰り返す。
「……なんか、エッチな響きだね!」
「えー……そうかな」
「ペペロンチーノに続き、エッチな料理ってことだね。なるほど、なるほど」
「何がなるほどか知らないけど……って、あたしがエッチな名前の料理ばかり作りたがってるって思ってる!?」
「あはは、そんなこと言ってないよ」
顔を赤くして叫ぶツムギを見て、カラカラ笑うシンク。
「それに、名前がエッチでもエッチでなくても、ツムギの作る料理は全部美味しいから大好きだよ」
「う……」
積み重ねてきた年月を感じさせない、無邪気な笑顔。
ツムギはこの笑顔に弱い自覚がある。
(全部美味しいって、それが一番プレッシャーなんだけど……。それに、アヒージョなんて初めて作るから、絶対美味しく作れるなんて保証もないし……)
そう頭の中では文句を浮かべるが、決して口には出さない。
シンクが期待してくれるのならば、応えないという選択肢はツムギにはないのだから。
「そう言うんだったらさ……勝手にどっか行っちゃわないで、ちゃんと帰ってきてね?」
「うん。約束するよ」
なんの抵抗もなく、引っかかった様子も無く、素直に頷くシンクに、ツムギはモヤッとしてしまう。
(少しくらいドキッとしてくれてもいいのに)
今日の自分は変だ。いつもよりも子どもっぽい感情が溢れ出している。
自分以外の誰かと、自分以上に仲良くしているような場面を見てしまったからだろうか。
ツムギはそう自覚しつつも止められない。握る手の力を強くしたって、どうせ彼女には伝わらないと思いつつ、何かしらぶつけずにはいられない。
「いやぁ、楽しみだなぁ、アヒージョ。あっ、そういえば結構臭い取れたでしょ」
「え?」
「え、じゃないよ。にんにくの臭い。だから今日だって走ってたんじゃない」
シンクはそう言って、繋いでいた手を離すと、そのままツムギの顔の前に伸ばした。
「ツムギも嗅いで確かめてみる?」
「はぁっ!? べ、別にいいよ!」
シンクの提案を、ツムギは反射的に撥ね除けた。
そっか……と、シンクは少し残念そうに呟きつつ腕を引っ込める。
(だって、さっきシンクに嗅がれてるときに、あたしもいっぱい嗅いじゃったもん……)
シャンプーやボディソープの銘柄も把握しているのに、シンクから漂う匂いはツムギにとっては特別で、いつも想像を超えるくらいいい匂いで。
これ以上嗅いでしまえば、きっと通りすがりの生温かな声くらいでは止まれなくなってしまう。
(シンクのばか。少しは乙女心察してよね)
ツムギは頭の中でそんな文句を浮かべつつ、再びシンクの手を握り直すのだった。
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