第8話 吸血鬼、少女の体臭を嗅ぐ

 少なくとも、チサトの知るスポーツの中には、「互いの臭いを嗅ぎ、いい香りがした方が勝ち」というルールの勝負は存在しない。

 

 先攻後攻をどう分けるか、反則はあるのか、そもそも勝敗をどう分けるべきなのか。

 何もはっきりしないまま、とりあえずその勝負は始まった。


 とはいえ、いきなり人の臭いを嗅ぐなんて少々抵抗がある……と、僅かに躊躇を見せたチサトの首筋に、シンクが遠慮無く鼻を近づける。


「すぅ……」

「ん、ぅ……!?」


 首筋を撫でられるような感覚に、ぞくぞくと身を震わせるチサト。

 まずい、と彼女の頭の中で警鐘が鳴った。


 この勝負、制限時間を定めて点数を取り合うものではなく、お互いの臭いを比べようというもの。

 両者が相手の臭いを嗅ぐのが必須であり、つまりは先手も後手もあまり関係無い……と、チサトは思っていたが、すぐに勘違いに気付かされる。


(これ、嗅がれるの、すごく恥ずかしい!!)


 学校ではボーイッシュな雰囲気から、(主に女子から)熱い視線を浴びることが多いチサト。

 しかし、中身は普通に思春期真っ只中な、花も恥じらう女子高生だ。


 たとえにんにくの臭いが落ちたか確認するという建前だからといって……いや、そもそも体からにんにくの臭いが染み出ているというの自体、とんでもない屈辱だ。

 しかし今は、運動後に掻いた汗だって残っているのだ!


(ま、まずい! このままじゃシンクさんの臭いを嗅ぐ前に……恥ずかしすぎて、先にボクの脳がショートするっ!)


 シンクは今も、チサトを逃がさないように彼女の両肩を掴み、鼻を擦りつけ舐め回すように臭いを嗅いできている。

 それによる羞恥心で、嗅覚どころか視覚までもがぱちぱち明滅して感じられた。


「くっ……こ、今度はボクの番だ!」


 しかし、チサトは必死に理性で、いや負けん気で跳ね返す。

 力強く叫んでシンクを引き剥がし、自分の鼻を彼女の首筋に押しつけた!


「わっ、チサト?」

「お互い、嗅がないと、意味無いですから……!」


 どちらかというとチサトの思考は、シンクの体臭を確認するよりも、彼女をいかに(自分のように)羞恥させるかにシフトしていた。

 シンクの白く細い首筋に鼻先を当て、呼気を当てながら……チサトはまた衝撃を受ける。


(は、肌綺麗……!)


 まるで新雪のように輝いて見えるきめ細かな肌。

 ムダ毛、毛穴も見当たらず、触れた鼻先がその感触の良さに喜んでいる。


(まさかこっちも罠……!? く、この人は……!!)


 もしや、臭いを嗅ぎ合うと言い出したときからこうなると確信していたのではないか、と疑うチサト。

 動揺し、冷や汗さえ垂らし始める。


 ……しかし、それは彼女の視点から見た際の印象。

 真実は、まるで違う。


(ふむ……)


 シンクはチサトの目に映らないのを良いことに、真剣な眼差しを彼女に向けていた。

 チサトが無理やり攻守交代し、彼女の首筋から離されながら、しかし鼻腔にはまだ彼女の臭いが残っている。


(チサト、最初はにんにく臭いのが気になったと思っていたけれど……この子の血の匂い。やっぱり少し


 そう、シンクは吸血鬼。その主食は本来、血だ。

 特に人間の血は大好物の部類。


 とはいえ彼女は不死という特性上、給血を必要としておらず、事実もう長いこと人間の血を嗜んでいない。

 今はビールこそが彼女の活力源なのだ。


 だが、しかし。

 人間の血に惹かれ、その味を見極めるための感覚が研ぎ澄まされているという生物的な能力が備わっていることもまた事実としてある。


 そもそも、吸血鬼達にとっても、人間の血ならなんでもいいというわけではない。

 人間が、冷凍を経た国外牛よりも、店舗直送の脂が乗ったブランド牛に高値を払うように、吸血鬼にも血に対する好みが存在する。

 より美味しく感じる、吸血欲を掻き立てる血というのが存在するのだ!


 かつて、現代より吸血鬼が栄えていた時代。

 シンクの同胞の中には、人間を飼い、食事制限を施すことで最高の血を養殖しようという者もいた。それこそ、高級な牧草を使って食用牛を育てる畜産業者の如く。


 年齢、血液型、体調、摂取してきた食べ物……更には、血統。

 好みは吸血鬼それぞれであるものの、確かに自分に最高に合う血というものは、どこかに存在するわけで。


 シンクにとって、チサトの血は特別美味しそうに感じる……というわけではない。

 むしろその真逆。


 血に染みついた、おそらく彼女の先祖から継がれてきた何かが、シンクの中の吸血鬼に危険を感じさせている。

 だが、その危険は必ずしも、シンクにとって忌諱すべきものではない。


 むしろ逆。


(なるほど、だからわたしは彼女に変に対抗心を抱いてしまうんだろうか。中々面白い)


 この現代日本にいながらそういう血を持った少女が目の前に現れたことに、シンクは警戒どころか、興味を抱いていた。


(それに……どこか懐かしい。この子には初対面だと思うけど)


 シンクは舌で転がすように、チサトの匂いを鼻腔で味わう。どこかで同じような血に会ったことがあるような……と、思い巡らしつつ。

 とはいえ――。


「くん、くん、くん……」

(にしても、これはちょっとくすぐったいな)


 チサトは最早、正面から抱きつくように密着し、鼻――というか顔を擦りつけてきている。

 本人は夢中で気が付いていないが……傍から見れば中々の絵面だ。


「チサト、そろそろ大丈夫じゃない?」

「……いえ、まだ確認には足りません」


 シンクのタップを、チサトは拒否。くんくんタイム継続!


 チサトとしては、シンクの匂いなど最早どうでもいい。先ほど感じたにんにくの臭気など幻だったと思うくらいに、ものすごく良い香りしか感じていない。

 しかし、これは勝負だ。

 チサトから見て、シンクはこの状況にもあまり動じていないように見える。


 それが気に食わないのだ。

 少しくらい恥じらい、動揺してもらわねば気が済まない!


「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……!」

「ち、チサト」


 実際、シンクはそこそこ動揺している。恥じらいも覚えている。

 ただ、チサトもただ一方的に攻めているわけではなく、攻めながら自身も相応の恥じらいを感じてしまっている。自傷ダメージとも言うべきか。

 そちらに意識が行くせいで、肝心のシンクの反応に気付けていない。


(それなら……ここで『本気』を出すわけにはいかないけれど)


 シンクも動ける範囲で顔を動かしつつ、鼻をチサトに近づける。

 そして、再びチサトの匂いに集中する。


 無意識に気を引かれるような危険な香り。

 その奥へと、突き進む。


「すぅ……」

「ん……」


 お互いに、体臭を嗅ぎ合う。まるでノーガードの殴り合いだ。

 チサトは崩れ落ちてしまわないように、シンクの背に両手を回し、ジャージをぎゅっと掴んでいる。

 シンクもそんなチサトを支えながら、匂いと共に過去へと思いを馳せる。


(そうだ、この匂い……そんなに遠い昔じゃない。わたしはこの血を知っている。あれは、多分……)


 もう少しで、その正体に手が届く。

 シンクがそう、手を伸ばしたその時――!


「……何やってんの、シンク」


 絶対零度の、一瞬でシンクとチサトの思考を氷点下まで下げきるほどの、冷めに冷め切った声が、二人を揺さぶった。

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