第3話『スラム街の悪ガキ、初めて魔法を使う』①


 空から落ちて来たソレは2階建ての家屋と同じくらいの大きさで、スラム街の街を破壊しながら降り立った。


『――ブモオオオオオオオオオ!!』


 顔を上げて雄たけびを上げる使徒の名はーー。


『何だあれは』

「あれは、ミノタウロス!」


 家に陰に隠れたイヴはその名を叫び、そして強く睨みつけた。

 手には魔力で作られた棍棒を持ち、人間と同じ肉体を持ちながらも異形の頭部を持つ化け物。

 その数5体。数は少ないが――魔法を使えない人間にとっては災害そのものだ。

 ミノタウロスが棍棒を振るい、建物を壊し、逃げ惑う人々を襲う。

 イヴはその暴れる様を見ている事しか……人々が悲鳴を上げているのを聞いていることしかできない。


「っ……!」


 イブは歯ぎしりをし、拳を強く握り締めて、ミノタウロスが暴れている場所からは正反対に向けて駆け出そうとする。


『どこに行くつもりだ小僧』


 それを止めたのは魔王だった。イヴは足を止めて、彼の問いに答えた。


「……お前は知らないかもしれないが、魔法の使えない人間は使徒が現れたらとにかく逃げるってのが常識だ」

『襲われている者を見捨ててか?』

「……仕方ないだろっ。力のない奴がそんな事をすれば死ぬのはテメェだ!」

『ほう。貴様にしては賢い選択だな。性格に合わず』

「さっきから何が言いたい」

『ふん。大方トラウマからくる勇み足だろうが――陳腐な言い方になるが……それで良いのか?』

「……っ」

『この短時間で貴様の性格はある程度把握している。貴様の様な人間を多く見て来た。そして貴様と同じ選択をし後悔した人間も』


 同時に、無謀な選択をして犬死にした人間も見て来た。


「……逃げるなって言いたいのか? お前さっき逃げろって……」

『準備はしておけと言ったのだ。適わない敵から逃げる事を臆病とは言わん。それもまた勇気だ――だが、選択から逃げるな』

「――」

『先刻言ったぞ。我に二度同じことを言わせるな――小僧、貴様はどうしたい?』


 ――イヴは酷くイラついた。

 何も知らない癖に分かった様な口を利く魔王に。

 おそらく魔王はあの鍵に封印される前は力を持っていたのだろう。ハッタリや法螺にしては言葉の節々に貫禄があり、そして重みがある。

 彼の言葉に従えば良いと。正しい道に行けると思える力があった。


 それが気に食わない。イラつく。ぶん殴ってやりたい。


 しかし、それ以上に気に食わない事がある。


「……俺は魔法を使えない」

『……ふむ?』

「だから、俺はあの化け物を倒せない。……誰も救えない。何もできない」


 だから今イヴにできるのは無様に逃げるだけだ。


『だから仕方ない、と?』

「……」

『この際貴様が魔法を使えるか使えないかは知らん。我の問いかけはたった一つだ――答えよ』

「――そんなの……!」


 答えなど決まっている。そして、その答えからずっと逃げている自分が――イヴは世界で一番気に食わない存在だった。


「あのクソ化け物をぶち殺してやりたい! 俺達から全て奪ったアイツらに、これから全てを奪うアイツらをこの世界から追い出したい!」


 長年腐り続けていたイヴの本心は、黒く、深く憎しみの色に染めあがっていた。

 しかしそれを魔王は待っていた。笑みを浮かべて、心底愉しそうに、嬉しそうに――彼の思いを受け入れる。


『――やれやれ。ようやく選択したな。待ちくたびれたぞ』

「うるさい。俺にここまで言わせたんだ。……どうにかできるんだろ?」

『我を誰だと思っている? 全てを超越したぶっちぎりの存在、魔王イーヴァルディ様だ。――我に任せろ』


 イヴはこの魔王と名乗る不審な声が嫌いだ。

 だが、この魔王の言葉はーー何故かスッと信頼する事ができた。

 任せろ、と言われてイヴは素直に頷いて――踵を返して怪物に向かって走り出す。


 この日彼は初めて前に向かって駆け出した。魔王と共に。




「それで! 俺はどうすれば良いんだ!?」


 棍棒を振り回し、スラム街を破壊するミノタウロスに向かって駆けながらイヴは魔王に問いかけた。


『簡単だ。ただぶん殴れば良い』

「確かに簡単だな。それで倒せるならな!」


 倒せないからこそ、イヴは……魔法を使えない人間たちは使徒から逃げる事しか出来なかったのだが。


『まぁ、貴様一人では無理だ。だから今回は我の力を貸してやる』

「……どうやって?」

『その辺りの調整は我の方でやる。故に貴様は何も考えず、思うように動け』


 あの憎たらしい頭を思いっきりぶん殴る。それだけを考えて駆け抜けろと魔王は言った。

 普通ならふざけるなと叫びたくなるだろう。策もなしに近づけば簡単に捕まってすぐにあの怪物の腹の中に入れられてしまう。

 しかしイヴは魔王の言葉を疑わなかった。

 どうにかしてやる、と偉そうに、不遜に、しかしこちらを騙す気配無く真摯に言ってくれたのだ。


 だったら――イヴは拳を握り締めて走るだけだ。


『ブモ?』


 イヴの存在に気付いたのか、歩みを止めて振り返るミノタウロス。そしてこちらをゆっくりと見下ろすその姿を見て、イヴの体に居る魔王が言った。


『畜生風情が。誰の許しを得て我を見下ろしている――頭が高いわ』


 魔王が告げる。


『跳べ小僧』

「――応!」


 大地を踏み締め、膝を曲げて、そして一気に力を解放すると同時に――イヴは空を舞った。


「――っ!?」


 胸中に飛来するのは驚愕。しかし、それもすぐに消え去る。


『まずは一発だ――躾けてやれ』

「――ああ!」


 こちらを間抜け面で見上げるミノタウロスに向けて落下しながら思いっきり拳を振り下ろした。

 ガゴンッと鈍い音が響き、拳に衝撃が走り――ミノタウロスの巨体が地に沈む。

 悲鳴を上げる暇もなく、人類が使徒と呼んでいた怪物はたった一人の人間に殴り落とされた。

 あり得ない光景。あり得ない経験。あり得ない感触。

 だが、確かにこの時――イヴは長年の怨敵に一矢報いた。

 逃げ惑うだけだったスラム街の人間たちもポカンと口を開いていた。


「これって……」

『ああ。魔法だ』


 高所から無事に着地したイヴは、ミノタウロスを沈めた己の手を茫然と見る。そこには薄っすらと透明な光が己の身を包み込んでおり、その正体を魔王は当然の様に答えた。


『小僧、一つ訂正しておく。貴様は魔法が使えるぞ』

「……え?」

『だがそれを自覚していなかったのだろうな。貴様のゲートから魔力を捻りだすのはちと苦労した』

「俺が……魔法を」

『厳密には我の助力あってこそだがな。ただ、まぁ――爽快であっただろう?』

「――ああ」


 イヴは確かに魔法が使えなかった。先ほどまでは。

 彼は3年前からどうにか魔法が使えないか色々と試して、その才能が皆無だと突きつけられて挫折してしまった。

 だから今魔法が使えるのはおかしいし、魔王が何かしたのだと理解できる。自分の力じゃない事も理解できる。

 それでも――嬉しかった。自分の拳で殴る事ができた事が。

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