第19話
若菜ちゃんには父親がいないようだ。
そしておじいちゃん、おばあちゃんまでいなくなってしまった。
あんなに小さいのに周囲の人々が次々といなくなってしまったのは、とてもつらい経験だっただろう。
そのことを、この日記を書いた若菜ちゃんの母親も気にしているみたいだ。
【若菜はまだ小さいから、しばらくは私が家にいて面倒を見ることになる。仕事には妹の純に行ってもらうことになるけれど、ちゃんと承諾してもらえた。ひとまず、これで生活は安心だ】
そうして若菜ちゃんと若菜ちゃんのお母さん、そして純さんの3人暮らしが始まったようだ。
最初の頃の日記はほとんど若菜ちゃんのことで埋め尽くされていた。
若菜ちゃん2歳の誕生日。
若菜ちゃんがはじめて1人で自転車に乗ったこと。
若菜ちゃんが釣りを経験したこと。
その成長をとても楽しんでいたことが伝わってくる内容だ。
純さんが休みの日には3人でよく出かけていたみたいだ。
【今日は純と若菜と私の3人で海に行った。若菜は海が初めてだったから波をすごく怖がってた。でも次第に慣れてきて、3人一緒に海に入ってビーチボールで遊んだりスイカ割りをした。
若菜は塩水を飲んでしまった「しょっぱい~!」って騒いでた。
この生活がいつまでも続きますように】
沢山の苦労を乗り越えてきた若菜ちゃんの母親の願いがそこに記されていた。
一見、なにも問題はないように思えた。
【若菜はお風呂で鼻歌を歌うことが大好きになった。お風呂の壁に自分の声が反響するのが面白いんだと思う。最近はお気に入りアニメの主題歌をハミングするのが上手になった】
「これ、お風呂場で鼻歌を歌ってはいけないってところに関係してるんじゃないかな」
亜希の言葉に和也は頷いた。
「若菜ちゃんはお風呂場で鼻歌を歌うことが好きだった。だから今も、お風呂場で鼻歌を歌えば楽しくなって出てくるんだろうな」
それは実際に和也も経験した。
お風呂場に出てきた若菜ちゃんは母親と一緒にいて、とても楽しそうな顔をしていた。
それも、ほんの一瞬のことだったけれど。
思い出すと苦い気持ちが湧き上がってくる。
この日記にあるように、若菜ちゃんはきっと幸せだったんだと思う。
それが、いつの日か悲劇を迎えることになるなんて、きっと誰も想像していなかっただろう。
【若菜が3歳になってから、妹の純が幼稚園や保育園を探してくるようになった。確かに、そろそろ集団生活を経験させてみてもいいかもしれない。でも、どこもここからじゃ少し遠い。なにせ、この家は山奥にあるから】
若菜ちゃんが成長しても、幼稚園や保育園に預けることを迷っている様子が伺える。
確かに、こんな山奥からじゃ通うのは大変だ。
【純が、若菜を保育園に入れて、送迎するついでに街へ行ってバイトでもしたらどうかと言ってきた。だけど子供はいつ熱を出したり、怪我をしたりするかわからない。結局、保育園から連絡がくれば仕事を放り出して駆けつける必要がある。バイトなんか初めてもきっと迷惑をかけるだけだ】
純さんと若菜ちゃんの考え方に食い違いが出始めている。
若菜ちゃんの母親からすれば夫も両親も病気で亡くしてるのだから、その分過保護になってしまうのも理解できた。
でも、純さんからすれば少し過保護すぎなのかもしれない。
今の所仕事をしているのは純さんだけのようだし、それを負担に感じているのかもしれない。
ふたりの気持ちが両方とも理解できて、亜希と和也は黙り込んだ。
どうにかいい解決策があればいいけれど、そんなことを今ここで考えたってどうしようもない。
もうすでに、この家ではなにかが起こってしまった後なのだから。
【最近、若菜を保育園にいれるかどうかで純と言い争ってばかりいる。若菜にはまだそういう経験は必要ないと思うのだけれど、純は納得していない。自分たちが幼い頃だって幼稚園や保育園に通っていたのだから同じようにするべきだと言う。どうして? 私にはわからない。
可愛い若菜。私の若菜。
若菜が行きたいと言うのならば真剣に考えるけれど、そうではない。全部、純はひとりで騒いでいることだ】
仲が良さそうだった姉妹なのに、明らかな嫌悪が見え隠れしてきている。
若菜ちゃんの母親は純さんを疎ましく感じるようになっていたようだ。
そしてきっと純さんの方も、若菜ちゃんの母親に敵意を持つようになっていた。
このとき若菜ちゃんはふたりの間になにを感じていただろう。
いくら小さくても、いや、小さいからこそ大人の変化には敏感になるんじゃないだろうか。
亜希の脳裏には小さな若菜ちゃんがふたりの間に板挟みになっている様子が想像できて、胸が痛かった。
それでもまだ、若菜ちゃん自身にはどうすることもできない年齢だ。
ただただ、ふたりの間で悲しい気持ちになっていたんじゃないだろうか。
【若菜4歳。
もう十分お姉さんだ。純は相変わらず1日家にいる若菜を見て顔をしかめているけれど、保育園も幼稚園もわざわざ行かせる必要はないと判断した。
勉強も、遊びも、この近くで十分にできる。公園で友だちも沢山できた。
でも、純の気持ちは別のところにあるみたいだ。最近、私へ向けられる視線が痛い気がする】
結局保育園や幼稚園には入れないと判断したみたいだ。
その分家庭内で勉強して、自分たちの力で友だちも作っている。
それはそれでいいと思うけれど、純さんは不服のようだ。
その不服の原因は若菜ちゃん自身ではなく若菜ちゃんの母親にあるようだ。
雪は降り止むことを知らず、日記の上にどんどん降り積もっていく。
和也は時折積もった雪を指先で落として先を読み進めた。
【若菜6歳!
初めての小学校にドキドキしてたみたい。
友だちが沢山できるといいねぇ】
そう書かれた文章の下には古い写真がのりで貼り付けられていた。
○○小学校と書かれた校門の前で、誇らしげに胸を張って立っている小さな女の子。
これが若菜ちゃんだ。
このときにはもちろん血は出ておらず、はにかんだ笑みを浮かべている。
これから6年間通うことになる学校の前で期待に満ち溢れていたはずだ。
体に対して大きすぎるランドセルは希望と期待と夢が膨らんでいる証だ。
【最低最悪だ】
若菜ちゃんの入学式という華々しい日の下に綴られている文字は、とても楽しいものではなかった。
相当に怒りが込められているのか、文字が太く、歪んでいる。
【若菜の入学祝いをしているときに純が帰ってきた。
純だって若菜の入学を喜んでくれると思っていたのに、手土産はなかった。それどころか、おめでとうの言葉すら。
新しいランドセルに新しい教科書と筆記用具を入れて嬉しそうにしている若菜を見て「あぁ、今日が入学式だったんだ」と、まるで気のない様子で言っただけだった。
今日が入学式で、お祝いする日だということは何日も前から純にも伝えていたのに。
それなのに純は「仕事が忙しい」の一点張りで、すぐに自室へこもってしまった。
純が祝ってくれなかったときの若菜の寂しそうな顔!
若菜が純になにをしたというんだろう。なにもしてない。それなのに最近はずっと若菜に対しての態度が冷たい】
若菜ちゃんの母親への不満が、ついに若菜ちゃんへ向けられ始めたのだろうか。
純さんは少しも若菜ちゃんの入学を喜んではいなかったようだ。
【純は二言目には「バイトでもすれば? パートはどう?」と口にするようになった。
ようやく若菜が小学生になって気楽になったと思ったらすぐこれだ。
私に休む時間は少しもないの? 純だって、家のことはなにもしてないじゃないの】
やっぱり、純さんの不満はお金の面にあったようだ。
若菜ちゃんが3歳のころから保育園や幼稚園に通わせて、その間働いて欲しいと匂わせてきていた。
今までずっと1人で二人分を養ってきたのだから、そう思っても仕方のないことだと思う。
若菜ちゃんのことは可愛いだろうけれど、純さんからすれば実の子でもないのだ。
だけど子育てだって当然大変なことだ。
休みなんてないから、子供が学校に行っている時間くらいは自由にしていたいと感じるだろう。
だからお互いに寄り添って理解し合って、おぎない合うことが必要なんだ。
このふたりにはそれができていなかった。
決定的に欠けていた。
そして、ある日、ついに事件が起きた……。
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