第11話

そして限界まで手を伸ばして雨樋に置かれているフルートを手に取ろうとした。

が、次の瞬間。

フルートに指先が届く寸前で少年は体のバランスを崩してしまった。


あっと悲鳴を上げる暇もなく、落下する。

大切なフルートが視界に入って、だけどそれもすぐに消えた。


あとは灰色の学校とガラス窓が見えて、そして、すべてが暗転するだけだった。

すべての映像が一瞬にして亜希と和也に流れ込む。


そして少年の憎しみが死んでもなお続いていることに気がついた。

映像の中で少年が来ていた制服は、亜希たちが今着ているものとは違った。


けれど胸に刺繍されている紋章は同じだったから、随分と昔の出来事に違いない。

それほど長い間、少年は幽霊になってもここにしばりつけられてきたんだろう。


長い期間彷徨えばさまようほど、霊魂は凶悪になっていくことがある。

とくにそこに憎しみがあれば、余計だった。

少年の場合もそうだった。



『フルートを返せ! 僕のフルートを返せ!』



さっきまでおとなしかった少年が机をなぎ倒し、椅子を壁にぶつけて怒りを顕にする。

ふたりは身をかがめて少年の攻撃を交わした。



『フルートは今手に持ってるでしょう!?』



亜希が叫んでも少年は聞く耳を持たなかった。



激怒し、荒れ狂っている。

亜希と和也は目を見交わせて頷きあった。

こうなるともう手をつけることはできない。


ふたりは同時に立ち上がると、指で印を組んでお経を唱え始めた。

霊感体質のふたりにとって身を守るためのお経だ。


すると少年の霊は途端に苦しみ始めて、空中を舞っていた机や椅子が次々と落下していく。

お経を読むことによって少年の行動さ制限されているのだ。


亜希がお経を唱える中、和也が御札を持って少年へ近づいた。

その額に御札を貼り付ける。

それでも少年の目は赤く血走って怒りに満ちている。



『頼むからこっちを見て』



和也の声は優しく、子供を諭すような声色だった。

少年の視線が和也とぶつかる。



『君はもうフルートを取り返したんだよ』



少年が自分の右手へ視線を向ける。

そこには大切な宝物があった。


きっと、少年が死んでしまってから、誰かが取り返してくれたんだろう。



『あ……僕のフルート』


『大会に、出たかったんだよね?』



和也の言葉に少年は頷いた。

その目はもう、普通の色に戻っている。



『それなら、聞かせてくれないかな? 僕と亜希に』



亜希はお経を読むのを辞めて印を解いた。

それでも少年は変わらずフルートを見つめている。



『……いいの? 僕、演奏してもいいの?』



和也は頷く。

すると少年は嬉しそうに微笑んだ。

フルートを口に近づけると、すぐにのびやかな音が響き渡る。


それは自由で力強くて、繊細で、でも大胆で。

きっと、少年にしか出すことのできない音色だ。

やがてその音色は途絶えて、少年の姿も消えた。


あれだけビクともしなかったドアが開いて、ふたりはようやく外へ出ることができたのだった。



「今回もあれくらいすごいと思う?」



亜希に聞かれて和也は首を傾げた。



「どうかな。まだそこまで嫌な感じはしないけど」



音楽室へ入ったときのような、あからさまな威圧感はない。

でも、どこからか漂ってくる嫌な気配は確かにしていた。


まるで気がつけば足元まで忍び寄ってきているかのようだ。

確実に人間を追い詰めるために正体を隠しているのかもしれない。



そうだとすれば、音楽室の少年よりもたちが悪いことになる。

と、そのときだった。


また、誰も触れていないのに鏡の布がずるりと落ちた。

今度は誰かが下から引っ張ったような落ち方だ。



「もう、なんなんだよ」



御札を貼り付けておいたのに、それもいつの間にか床に落ちていた。

貼り方が悪かったのか、それともここにいる霊の力のせいなのか。


亜希がそっと鏡に近づいて布を手に取った。

とにかく鏡を隠しておかないと気味が悪い。


そう思ったのだけれど……鏡の中に少女の顔が映った。

その顔が血に濡れていて、苦痛に顔が歪んでいる。



「キャア!」



その瞬間悲鳴を上げて飛び退いていた。

鏡の布が足に絡みついてこけてしまう。



「亜希!」



和也がすぐに駆け寄ってきて、布を奪うようにして鏡にかぶせた。

心臓がバクバクと脈打って今にも破裂してしまいそうだ。



「亜希、大丈夫?」


「うん……平気」



和也に手を貸してもらいながらよろよろと立ち上がり、ソファに座る。

この部屋で見るのは小さな女の子の姿ばかりだ。



「さっきの女の子、見た?」


「うん。夜には声も聞いた。唸ってるような泣いてるような声だった」


「それも、女の子の声だった?」



和也は頷く。

この部屋にはまちがいなくさっきの少女がいるみたいだ。

だけど完全には姿を見せない。


和也は床に落ちた御札をきちんと布の上に貼り付けた。

今度は落ちてしまわないように気をつける。

それでも霊の存在が強ければ、意味がないのだけれど。



「雪、止まないな」



窓の外の雪は降り続けていて、もうふたりの膝くらいの高さまで積もっている。

窓の近くにいると寒さで震えてしまいそうだ。


これじゃ売店や管理人室へ行くのも大変だ。

音楽室のときみたいに閉じ込められたわけじゃないけれど、物理的に難しくなってきている。


ぼんやりと外の景色を眺めていたときだった。

キッチンの方からゴトゴトと物音がして二人同時に視線を向けた。



シンクの上には置きっぱなしにしていた包丁がある。

その包丁がまるで生き物のようにシンクの上で跳ねているのだ。


ゴトッゴトッ。

包丁が飛び跳ねる度に、包丁についた血のような汚れが飛び散る。



「ひぃっ!」



和也は思わず飛び上がって部屋の隅へと逃げていた。



「な、なにあれ」



亜希も青ざめて和也に近づき、手を握り合う。

今までも何度となくポルターガイストに遭遇してきたけれど、動く包丁と出会ったのはこれが初めてだった。


包丁はその場で何度か飛び跳ねると、静かになった。

テレビの音だけがやけに軽快に聞こえてくる中、ふたりはそっと包丁へ近づく。


あの包丁もなにかいわくつきのものなのだろう。

それなら早く封印してしまう必要がある。


そう、思ったのだけれど……。

ふたりの存在に気がついたように包丁がまた飛び跳ね始めたのだ。


さっきよりも激しく、自身の体をシンクに打ち付け続ける。



「ダメだ、近づけない」

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