猫と嫉妬

鍋谷葵

猫と嫉妬

 ちらちらと雪が降るクリスマスの夜、ジーパンのポケットに手を突っ込んで性器の微かな温もりを感じながら大学より続く帰路を歩む。ひび割れたアスファルト、等間隔で並べられた電柱、量産された住居と漏れだす生活の灯り、往来する自転車と自動車の寂しい流れ、全てが普段と変わらない。季節が変わろうとも、この景色は一切変わらない。きっと、私がこの住宅街に住んでいる限り、この味気なさは続くのだろう。

 変わらない景色の愚痴を頭の中でぐるぐると回していると、いつの間にか帰路の中腹にある公園にたどり着いていた。普通自動車一台が通れるほどの狭い車道に面した公園。街灯の灯りに照らされる青い支柱のブランコ、象をかたどった滑り台、酷く冷たそうな雪冠る砂場、中央に植えられた一本の桜の木、そんな何の変哲もない公園は寂しさに満ちている。誰が居たとしても、いや、こんな時間に誰かが居たところでそれは怖くなるだけだ。だから、そう、つまり、これは普遍的で、変わらない寂しさなんだろう。人生に溢れている虚しさだ。

 ああ、なんだかやるせない。どうしてこの公園も、この住宅街も、何もかも変わらないんだろう。どうして全ては普遍的でつまらないんだ? いや、どうして私はこの景色を見てもただつまらないとしか感じ得ないんだろう?

 暗がりの公園を一人でぼうっと見つめていると、そんな進歩しない実存に対する悲しみの種が胸の中に落とされる。そして、この種は現実の冷気を知らずに私の土壌で自己嫌悪の若葉として芽生える。つまり、こうして風景をただ一色と決めつける自分が嫌になんだ。詩的に生きることができたのならば、あるいは何かしらの用事で頭の中を埋めることができたのなら、もしくは虚無主義的な姿勢を取らずに現実を楽しむことができたのならば、生きている環境を単に『つまらない』とこき下ろすことなく、多様な感情を抱くことができたんだろう。だのに、どうして私はこうもひねくれているんだろう。


「ニャー」


 耳にいきなり入ってきた甲高い鳴き声は、私の体を震わせる。昼であればこんなにびくつくこともないのだろう。けれど、夜であると途端に驚いてしまう。それが良く知る獣の鳴き声であったとしても。

 鳴き声が雪と暗闇に溶け込むと、声の主は暗がりの公園の奥から目を黄色く光らせてトボトボと私の前に現れた。小さくも無ければ大きくもない、かといってやせ細っている訳でもないトラ猫は大儀そうにあくびをしている。人が自身に危害を与えないことを知っているからか、この猫は警戒心を一切見せない。


「お前、寒くないのか?」


「……」


「まあ、人語は分からないか……」


 白い息と共に取れるはずのないコミュニケーションを取ろうとした。ただ、そんな馬鹿々々しい行為は自嘲気味な微笑を私にもたらすだけだった。

 さて、下らないことをしていないで家に帰ろう。家に帰って、寝て、また大学へ、いつもと変わらない生活に戻ろう。大体、いつもと違うことが起こればよいと少しばかり期待しているからこんなやるせない気分になって、柄にもなく猫と会話を試みようとしたんだ。こんなことばかりしていたら、何時かはサナトリウム行きだ。

 戒めと別れの意味を込め、ペッと唾を地面に吐く。


「ニャー」


「汚いってか? 別に良いだろ、誰も見ちゃいない。いや、お前さんが見てるか」


「ニャー」


 人語を解さない癖にこの畜生は、私を見上げて説教がましく鳴いてくる。

 腹立たしい。公園に住み着いて、通りがかった人から時々餌を貰ったりして、寝たいときに眠る野良猫の癖に、どうして人間に説教してくるんだ。お前は下で、人間は上のはずだろう。神は土に自ら息を吹き込んでアダムを作った。けれど、お前らは違うだろう。

 いや、どうして私はこの畜生一匹にこんな感情的になっているんだ。私が本当に上の存在であるのならば、野良猫を歯牙にかけるわけがない。

 ああ、つまり私はこいつよりも下、あるいはこいつと同等の生き物なのか。認めたくないけれど、ほんの一瞬間前、私は感情的になった。だからこれは認めなければならない感情に基づく事実だ。


「帰れよ」


 惨めったらしい孤独な二十代の男性は、野良猫にそう吐き捨てる。俯瞰的にこの情景を見たら喜劇でしかないんだろう。もっとも、こちら側からすれば悲劇でしかない。


「ニャー」


 私の命令に従ったのか、それとも私とのやり取りが酷く退屈だったのか、それとも私の解さない何らかの欲求のためなのか、奴は一度鳴き声を上げると、ぴょんっと私の両足の間を跳びぬけた。

 しかし、間が悪かった。

 自動車のヘッドライトが跳びぬけた野良猫を照らす。

 畜生一匹、この世から居なくなったところで私はどうとも思わない。それは自然の摂理だからであるし、永劫回帰に従えばこの猫と同じ猫は世界に存在する。だから私が助ける義理など無い。むしろ、見捨てることこそある種の勇気の証明となるだろう。ただ理性によって培われた空論と直情的な感情に依存する行動は異なる。愚行だとわかっていたとしても、自分がそうではないと定義しているものを求めてしまう。それが有機であり、勇気だろう。

 刹那の間に下らない定義を見つけ、私は猫を追う。そして、猫を庇うように車道で仁王立ちをする。恐ろしく馬鹿々々しい。どうしてこの畜生一匹のために私は命を投げ出したのだろうか、全く意味が分からない。

 黄色目の眩しい光とけたたましいクラクションが同時に私を襲う。目が焼かれそうだ。鼓膜が破れそうだ。もっとも、外傷? はそれだけで体に痛みはない。スピードが出せない車道のおかげだ。


「危ないだろ!」


 白いプリウスは停まった。そして、車窓を開けて中年のおっさんが大声で怒鳴る。ハイビームのおかげさまで顔が良く見えないのは不幸中の幸いだろう。


「ごめんなさい。ただ、猫が轢かれそうだったもので……」


「猫? どうせ野良猫だ、一匹二匹くらい良いだろ!」


「まあ、そう言われればそうなんですけどね……」


 確かにその通り。ごもっともだ。

 ただ、理性ではそう言いたくとも、ある哲学に基づかない本能は違った見解を示している。つまり、足元で私を見上げてニャーニャー鳴き続けるお気楽な畜生に、ほんの一瞬間前とは違う感情を抱いている。刹那の間に何があったんだろうか、自分でも良く分からない。けれど、なぜかこの畜生をただの畜生とは思えないのが現状だ。


「とりあえず退いてくれ! 先を急いでいるんだ!」


「はい、申し訳ありません」


 きっと禿げ散らかした中年のおっさんは、私と私の歩みに並んで歩む畜生が公園へと戻ったことを確認すると、車窓を閉めて発進した。家族が待っているんだろう。もっとも、幸せな家庭とは限らない。

 正当化できるはずがないことを何とか正当化しようと悪態をついてみたけれど、どう頑張ってもこれは私たちが悪い。私たち? 私が悪いんだ。この畜生が悪いわけじゃない。そう思って足元に目を向けると、奴は大儀そうにあくびをしている。


「お前のせいで死ぬところだったんだぞ」


「ニャー」


 間延びした眠たそうな鳴き声で猫は返答する。

 本当に、どうして私はこんな奴を助けたんだろうか。いつ、どこで野垂れ死ぬかもわらない野生の猫を助ける意味なんて無かったはずだ。やっぱり、本能に従うのは反知性的だ。モダニズムに欠ける。

 馬鹿々々しい本能が提示する欲求にしたがってはまた後悔する。そのような連続であれば、この畜生とはここでお別れした方が良い。


「じゃあ、さようなら」


「ニャー」


「本当は人語を解しているんじゃないのか?」


 妙に寂しそうに鳴く猫の声に、溜息をもらす。そうして何とも言えない感情を伴って、見送ろうと奴が現れた公園の奥へと歩みを進める。そして、侘びに満ちた冬の桜の木の前に私たちは立つ。

 ただ、そんな誰にも知られないような私たちを見つける人も居るらしい。


「ぽん太!」


 随分と可愛らしい名前を叫ぶ眼鏡をかけたサラリーマン風の青年は、桜の木をバックに立つ私たちに駆け寄ってくる。接近してくる彼に向けて畜生は、実に眠たそうな鳴き声を漏らす。


「もしかして、貴方が見つけてくれたんですか!?」


「ええ、まあ、行きがかりに、ちょっと」


「ありがとうございます! 宅配便の受け取りに戸惑ってる間、勝手に抜け出しちゃったんですよ」


 感謝感激といった具合に青年(いや、私よりも年上なのだから青年というよりはサラリーマンと言った方が良いだろう)は、私の手を力強く握る。非常にドラマチックな光を宿すその双眸は、忙しない社会に従事している人間とは思えない。

 生気というものはこういうものなのだろうか。そして、愛情というものがこの生気を生み出しているのだろうか。皆目見当もつかない。いや、見ようとしていないだけか。


「本当にありがとうございます。ほら、ぽん太も」


「ニャー」


 眠たそうに、大儀そうに返事をする畜生に私は苦笑いを浮かべる。それはついさっきまで覚えていた親近感とは違う疎外感から来る苦笑いだ。また、これと同時にどういう訳かサラリーマンに対して酷く恥ずかしい衝動を抱く。


「本当に、全く……」


「ええ、自由な猫さんですね。それじゃ、私はこれで……」


 あさましくて仕方がない衝動を前に、私は彼の手を振り払って、早いこと立ち去ろうと桜の木から、畜生から一歩遠のく。


「いえ、待ってください。せめてものお礼でも……」


「いや、本当にたまたま通りがかっただけなんですよ。だから、そう、そんなお礼なんて恩着せがましいです」


「恩着せがましいなんて! 違いますよ。これは本当に、真心からの感謝です。ですから、どうか、叶えられる範囲であればなんだってしますから! だって、家族を助けてもらったんですよ!」


 ただ、手を振り払われた彼は再び私の手を力強く握ると強い意志の籠った眼で、私の曇り切った双眸を見つめる。その情熱は私の浅ましい衝動をより情けないものへと変えてしまう。ただ、同時に彼の言った『なんでも叶える』ということが衝動を抑制した。もっとも、本質はなにも変わっていない。本当に惨めったらしい。

 直視することのできないみすぼらしい衝動と、その衝動のために善良な人を利用することの罪悪感を抱きながらも、厚顔無恥な本能は言葉を発する。


「それじゃ、一緒に夕飯を食べてくれませんか? 出来れば貴方の家で。クリスマスですし」


「そんなので良いんですか!?」


「そんなのって、毎日孤独の中でご飯を食べてる人間からすれば十分な報酬ですよ」


「ええ、分かりました。それなら是非そうしましょう。あいにく私も独り身でしてね。いや、ぽん太が居るから独り身っていうのは違うかもしれないですけどね」


 後頭部をぽりぽりと掻く彼を他所に畜生は毛繕いをしている。本当に、なんて自由な奴なんだろう。


「まあ、そんなことはともかく一緒にご飯を食べましょ! ピザなんてどうです?」


「ピザ、良いですね。丁度、食べたかったところです」


 違う。

 ピザを食べたいわけではない。

 私はただ過ごしたいんだ。


「それじゃ、早速頼んじゃいます」


 外套からスマホを取り出して、急いでピザのデリバリーをする彼を横目に私は畜生を見つめる。畜生、畜生と言っておきながら私はこいつのことを畜生だとは思っていない。私はこいつのことを仲間だと、あるいは友達だと思っている。そう、だから、私の衝動というのは……。


「あと、十五分くらいで来るみたいです! ああ、でも家まで十五分くらいですから」


「ええ、急がないとですね」


 少々慌てる彼をなだめるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。そして、紡ぎながら畜生を抱き上げる。軽くも無く、重くも無く、けれど柔らかくてしなやかなトラ猫をゆっくりと私は胸の位置まで持ち上げる。


「はい!」


「じゃあ、ぽん太君は私が抱えますんで、道案内お願いします」


「了解です!」


 元気のいいサラリーマンは早足で歩き始める。その後ろを私たちは追う。

 ああ、あれだけ退屈だった世界はこんなにも感情的だったのか。

 なるほど、退屈という概念を覆すためには外的な感情の発露が必要だったんだ。世界は変わらない。だから、自分を変える、いや、自分と外との関係性を変えなければならなかったんだ。

 ああ、世界は色づく。くだらなかった生活の灯りは特別なものだ。おおよそ、アスファルトのひびさえも特別になるんだろう。

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