悼み酒
七森香歌
悼み酒
わたしは、ふと月が見たくなって外へ出た。家の数軒隣のコンビニで、黄緑色の交通系ICカードを使って甘い味の缶チューハイを買うと歩道橋へとわたしは上った。
もう十二月が近い。本格的な冬の気配を覗かせ始めた夜風は、風呂上がりの濡れ髪を冷たく撫でる。今年は暖冬らしいとはいえ、灰色のパーカーに黒のジャージ、素足につっかけたスポーツブランドのサンダルなどというラフな出で立ちではいくらなんでもこの時間の外は寒い。
あの子が旅立ってから、丁度一週間が経った。あの子がいなくなる前の晩は半分だった月が、いつの間にかあの子の目のようなまん丸になっている。
わたしはボトル缶のチューハイの蓋をぐぐぐっと回して開けると口をつける。あの子がうちに来た頃には酒も飲めない高校生の小娘だったわたしが、いつの間にか平気で毎夜のように酒を飲む三十路過ぎの女になっていた。
首からかけた遺灰の入った銀のネックレスが服の内側で生と死を隔てている。十余年前の父方の祖父のお骨上げの際に、生き物は死ぬとあんなに小さくなってしまうのだと理解はしていたはずだった。けれど疎遠な親戚と身近なペットとでは、事の重さが違った。わたしにとっては、十年疎遠になっていた祖父よりも、半月前に会ったばかりの実家の愛犬の死の方がよほど重かった。
わたしはボトル缶のホワイトサワーを煽ると空を見上げる。円やかな月が空の一番高い位置に上り、もうすぐ日付が変わることを地上へと知らせている。しかし、人々の営みできらきらと光る空は明るくて、見える星もまばらだった。死した魂は空で星になるというが、あの子は一体いま、どの辺りにいるのだろうか。
(お腹減ったなあ……)
そんなことを思いながら、わたしは眼下へと視線を戻す。テールランプとヘッドライトの赤白の灯りが近づいた冬を温めるクリスマスの装飾のように県境へと抜ける国道を照らしている。
あの子が逝ってから、あまり物を食べられていなかった。火葬後のあの子の小さな小さな骨を見てしまったせいか、特に肉が食べられなかった。祖父のお骨上げをしたときはそんなものかと早々に腹落ちしたからか、さほど長いこと忌避感は続かなかったが、今回はそうはいかなかった。生々しさがどうしても受け付けなくて、葬儀社の人に見せられた小さな白い骨が瞼の裏からどうしても消えてくれなくて、嘔吐、腹痛、下痢――一通りの消化器官の不調が続いていた。何をするにも気が晴れず、何がきっかけで涙が溢れ出すかもわからなかったから、感情が麻痺するまで精神安定剤を飲み、浴びるように酒を喰らい続けた。それにすら疲れると、胃のものを吐き出してから眠り続けた。そんなふうにしてわたしの一週間は回っていた。
(チョコは――あの子はもう何も食べられないのにな……)
あの子はチーズが大好物だった。わたしが前にあの子のお見舞いに買ってきた一袋千円の犬用高級チーズを火葬のときに持たせてあげたけれど、食いしん坊だったから、きっと空の上に着くまでに全部食べてしまったに違いない。
あとはいちごも好きだったし、パンケーキも好きだった。あとはチーズ味のスナック菓子とか、夏場の道端に落ちている半生のミミズの死体とか。食糞の悪癖もあったので、常に目を光らせていないといけなかった。
食いしん坊が過ぎて、何の小細工もなしに錠剤を食べたりだとか、犬には禁忌とされている葡萄を普通に食べてしまったりだとか(当時、わたしたち飼い主もそれがNGだとは知らなかった)。
あの子は父があげるものであれば、何の疑いもなくばくばくと食べた。食べ物関連の話だけでも思い出すと枚挙にいとまがない。
(そういえば、昔、トイレのいたずらがひどくて、いろいろ辛いもの塗ったなあ……)
口の中の酒を飲み下すとわたしは小さく笑う。白い呼気がすっと夜闇の中に消える。口の中に残る酒の味は甘いはずなのにどこか苦い。アルコールが回り始めたのか、とく、とく、と平時より心拍数が上昇しているのを感じる。いつもよりも周りが早いのは、月を見上げながら外で飲む酒だからだろうか。
子犬のころのあの子はとにかくトイレのいたずらがひどかった。ペット用のトイレの中のシーツをどうやってでも器用に引っ張り出してしまうのだ。あの子が触らないようにと、父は何をとち狂ったのか、わさびとからしと豆板醤を練り合わせたものをトイレの留め具の部分に塗ったりもしていたが無意味だった。犬はそういった刺激物がダメなはずなのに、あの子はそれを舐めてしまい、トイレシーツを引っ張り出していた。それに対して父は大人気なく、ペットトイレの留め具をネジ止めするという暴挙に出たという逸話があるがどっちもどっちである。
イタズラといえば、子犬のころはよくペット用のベッドの中綿を引っ張り出して遊んでいた。母がパートから帰ってくると、ケージの中が一面雪景色になっていたことも多かったらしい。たまに、直しきれなくなった母親がベッドと裁縫道具をわたしのところに持ってきて、度々修繕を押し付けてきたのを覚えている。あれはまだ、たぶんわたしが高校生のときだ。
(いたずらばっかりでもあったけれど、頼もしい子でもあったな……)
わたしは高校のとき、地方にありがちな自称進学校なマンモス校に通っていた。わたしが高校のときといえば、就職氷河期やらリーマンショックやらがようやくどうにかといった時期だったが、わたしは何が何でも大学に進学させようとする校風に拒絶反応を覚え、次第に学校に行かなくなっていった。
そんなとき、あの子は朝の散歩も兼ねて、オレについて来いと言わんばかりにわたしを駅までがしがしと引っ張っていってくれた。
どうしても行けなかった日の昼も、自傷行為を繰り返してずたぼろになった後の夜も、あの子をぎゅっと抱きしめれば、大きなまん丸の目でこちらを見上げて話を聞いてくれた。
学校に行けなくても、大人になって会社に行けなくなっても、それは変わらなかった。ODで死に損なった日も、どうしたらいいのかわからなくて縋りついた日も、あの子は話を聞いてくれて、一緒にいてくれた。あの子は家族であり、きっとある種の兄だったのかもしれない。
わたしが専門学校の二年生の秋、あの子の弟分が我が家にやってきた。台風の影響と試験前という二つの要因で、家にいたわたしは、買い物に出掛けていた家族にちょっと来いと呼び出され、急遽三キロ先の大型スーパーまで徒歩で赴くことになった。フードコートでたこ焼きを食べながら家族会議を開いた結果、生後半年のブラックタンのミニチュアダックスフントの男の子――レオがうちにやってきた。
思えば、あの子がやってきたのも秋のことだった。そのころ我が家に迎え入れるための犬を探していたところ、ほぼ取り寄せに近い形で我が家にやってきたチョコタンのミニチュアダックスフントがあの子だった。
三歳差のダックスフント二匹の生活は行き当たりばったりで始まった。ペットショップ暮らしが長かったレオは家の中に他の犬がいることを察して呼んで鳴くし、あの子の方も家のどこかにいる闖入者の存在に気づいていて怒っては鳴いていた。
二匹の引き合わせは本来もっと慎重にやるべきところのはずなのに、うちの両親は思い切ってレオをあの子と同じケージの中に入れてしまった。あの子はしばらく見知らぬ子犬の存在に困ったようにしていたが、いつの間にやら子育てじみたことをするようになっていた。秘められた父性が爆発したのか、身内に対する面倒見がいいのかはわからないが、気がつけばそんなことになっていた。
晩年まで、父やわたしの膝の上と食べ物に関してだけは譲らなかったけれど、弟分ができたことで、レオにおもちゃを譲るようにはなった。それまで大好きだったボールもあの子が遊ぶことは減り、あまり興味を示さなくなっていった。独占欲が強かったあの子のそんな姿は少し老成したようにも枯れたようにもわたしの目には映っていた。
(独占欲――っていうか、嫉妬深かったな。随分といい性格してた)
あの子はよくよく考えれば、七つの大罪の全てを兼ね備えたような性格の子だった。オレ様で、嫉妬深かくて、欲深くて、若くて綺麗な脚の細いお姉さんが好きで、食いしん坊で、散歩に行くと歩くのを拒否する、かなりわがままな子だった。そして、飛んだり跳ねたりぶっ飛んだり、愛嬌を振り撒くのが上手なレオとは対照的に自分からは媚を売りに来ない硬派な子でもあった。損得で言えば損な気性の子だった。
(――あの子の一生は幸せだったのだろうか)
わたしたち家族は幸せな十五年を過ごしたと言える。胸を張って言える。けれど、あの子自身が自分の生活に満足していたのかどうかは、今となっては知るすべもない。幸せだったかだなんて、あの子自身があの子の尺度で決めることだからだ。
あの子は病気がちな子だった。重いものから軽いものまで合わせて、生涯で五度の手術をした。
最初は二〇一五年の夏だった。少し前から腰のヘルニアの症状が出ていて、通院して家で経過観察をしていた。しかし、後ろ足が麻痺して動かなくなってしまい、市内の大きな動物病院での手術が決まった。
手術が決まった日、わたしは当時、それなりにいい雰囲気になっていた年上の相手と花火の約束をしていた。それもあって、わたしは「歩けるようになる確率は低くても手術するべきだ」と投げやりな結論を父に投げつけ、あの子の手術の件の一切合切を押し付けて出掛けてしまった。
あのときは奇跡的にあの子は復活を遂げた。歩くこともなければ尻尾を振ることもないと言われていたのに、あの子はある日唐突に尻尾を動かした。最初はそんなはずはないと父に突っぱねられてなぜか怒られたが、確かに動いた。それからあの子は多少、足を引きずりつつもだんだんと普通の生活に戻っていった(そもそも生まれつき、なぜかたまに右手と右足が同時に出てしまうような歩くのがど下手くそな子ではあったが)。
それから二〇一七年、初春。あの子は鼠蹊ヘルニアの手術をした。手術自体は成功したが、術後の経過があまり良くなかった。傷口が常にじゅくじゅくとしていて、ほぼ常にエリザベスカラーを着用する生活を強いられた。同じケージで起居していたレオはアクリル板の仕切りによってケージを分割され、別居を余儀なくされた。
そんな生活が年単位で続いた後の二〇一九年、初春。鼠蹊ヘルニアの傷口の再手術をすることとなった。前回の手術のときに入れたメッシュでアレルギーを起こしていたということだった。傷口の癒着が予想よりも酷く、退院までに月単位の日数が必要となった。あの子はきれいなお姉さんがちやほやしてくれるというどうしようもないおじさん的理由で、かかりつけの動物病院が基本的に好きだった。しかし、あのときばかりは退院後、自宅に帰ってこられたことをあの子もとても喜んでいた(ように見えた)らしい。わたしの仕事がばたついていた時期のことだったので、退院時のことをきちんと知らないのが悔やまれる。
それから二〇二二年の九月、母の卵巣摘出の手術を機に、あの子は妙な仕草をすることが異様に増えた。上を向いて何かを飲み込もうとするような、喘ぐような仕草をすることが増えた。後に母がいつもの動物病院に連れていったところ、おそらく虫歯だろうということになった。
翌年初春、あの子は歯垢除去と抜歯のために日帰り入院となった。奥の方に虫歯があったらしく、結局何本か抜くことになった。
歯の入院処置自体は滞りなく無事に終わり、あの子は家に帰ってきた。しかし、今思えばあれがあの子にとっての最初のターニングポイントだったのかもしれない。
当時のあの子は十四歳と、犬としては充分高齢に含まれる年齢だった。わたしはあのときの処置で麻酔をしたことがあの子の体にとって負担になってしまったのではないかと、引いては寿命を縮めてしまったのではないかと今でも思っている。
それからあの子は散歩に連れ出してもよぼよぼとしか歩かなくなってしまった。家の前で用事だけを済ませて戻ることも多かった。だけど、根気強く付き合ってやれば、家の近くの道の突き当たりや近所の公園まで行けることもあった。
夏の夕方に人のいない公園まで連れていってやれば、あの子は同じところばかりだけれどちょこちょこと歩き回った。土があるからか、あの子は昔から公園が好きだったし、お散歩デビューもあの公園だった。
そして、今年の八月の終わり。あの子は椎間板ヘルニアを発症し、腰の手術をしたのと同じ病院へと向かった。十五歳という高齢のため、麻酔を使っても大丈夫かどうかの検査から入院は始まった。その間、動けないのに暴れ回り、あの子は体に褥瘡を作り、信じられないと両親は病院の対応を詰った。
それから手術が行なわれて、無事終了した。あの子が退院して帰宅してきたのは入院から半年も後のことだった。
このとき、わたしは一回もあの子のお見舞いに行っていない。腰の手術のときにお見舞いに行った結果、却ってそれが残酷な仕打ちでしかないとわかったからだ。人間の自己満足を満たすためだけの見舞いはやめようというのが我が家の総意だった。
あの子の退院から数日後、実家を訪れるまで、わたしは事態を楽観視していた。腰のヘルニアのときのようにまた奇跡的に元通り動けるようになるものだと思っていたからだ。
けれど、現実は違った。あの子は寝たきりになり、首の角度がおかしかったり、喉が渇いたり、お腹が減ったり、オムツが濡れたりするたび――起きているほとんどの間、鳴き続けていた。褥瘡ができた体はかつての面影はなく痩せ細り、鳴き続けたせいで声がハスキーに枯れていたのがひどく痛々しかった。
それでもそのころのあの子はまだ生きることを諦めていなくて、家族の誰かが後ろ半身を支えておすわりをさせてやれば、時間はかかれど食事は摂れていた。けれど、それも長くは続かず、やがてはカゴの上に体を固定してスプーンで食事を与える方針へと変わっていった。
そんなふうに日々を過ごすうちにあの子はどんどん痩せていった。最盛期は七キロもあったとは思えないほど体が衰え、骨と皮へと近づいていった。きっとこの子は冬を越せない、母はそう言っていた。父は入院費を返し終わるまでは生きてくれと冗談混じりに言っていたが、それが叶わないことであるのは明白だった。だけど、その日がこんなにも早く来るとは思ってもみなかった。
二〇二三年十一月二十二日水曜日。その日の朝はとてもよく晴れたきれいな秋の朝だった。
その日のわたしは都道沿いの駅のファーストフードの開店時刻に合わせて往復四キロの散歩がてら散歩に出た。奇しくも今と同じ、灰色のパーカーに黒のジャージ、スポーツブランドのサンダルといった出で立ちだった。
駅前のコンビニで夕飯の不足分の食材を買い、ファーストフードでいつもの朝食と限定のパイを調達すると、わたしは河川敷へ向かうべく都道を折れ、頭上に電車の高架がある橋を渡った。橋を渡り終わると右手に折れ、しばらく進むと階段を登って降りる。旻天の下、金色の朝日を浴びながら川沿いのマンション群や釣り人たちを横目に来た方角へと歩いていく。
いつもは気づいていないところに階段を見つけ、わたしは土手を少し上がった。思えばこれがよくなかったのかもしれない。いつもと違うことをしたから、いつもでは起こり得ないことが起きたのかもしれないのだから。
七時三十五分。高架の下を潜り抜けようとしたとき、エコバッグの中のスマホがぶーんぶーんと唸り声を上げ始めた。嫌な予感がした。ロック画面を見ると母親の名前が表示されている。緑の受話器のアイコンをタップすると、母親は開口一番にこう言った。
「チョコが……亡くなりました」
それから何を話したのかは覚えていない。とりあえず午前中のうちには行くと伝えて一度電話を切り、それから必要なものがあれば教えて欲しいと電話をかけ直したくらいだ。ここでわたしの感情は一度凍った。そして、程なくして同じ用件で父親から電話が来た際にも同じように午前中のうちに行くと伝えた。
とりあえず買ってしまった朝食をどうにかするべく、土手のベンチを見つけるともそもそとマフィンとパイを食べ始めた。パイは新発売のイチゴとカスタードのもので、どんなものなのか楽しみにしていたのに、パイ生地がパサパサとするだけで味がした覚えがない。
止まってしまった感情の代わりに、思考だけがぐるぐると動き続けていた。ダークフォーマルは? 黒い靴は持っていかないと実家にはなかったような? ペット葬って何日かかるの? 今日の六曜は? 香典は? 額面や書き方は? 今日って泊まりになるの? そんなことばかりやけに冷静に考えていた。
家に帰るととりあえず数日は泊まれるように用意をして、八時五十五分に家を出た。駅に着くころには思考すらも空っぽになって、淡々とソシャゲのマルチバトルを回し続けていた。現実逃避にはちょうどよかった。上り列車はダメだけど下りならこの時間でも空いてるんだなあとぼんやりと思ったような記憶がある。
乗り換え駅のコンビニで血迷ったように香典袋を交通系ICカードで買うと、わたしは電車に乗り込んだ。始発駅から三駅目。電車を降りて階段を降り、駅を出るとわたしは実家への道のりを辿り始めた。
バス通りを越え、あの子が好きだった公園を越えると、辺りにやけに重苦しい静寂が降りているのを感じた。イアホン越しでも伝わってくる悲しい静けさが痛々しかった。わたしはイアホンをバッグにしまい、実家の門扉を開けるとインターホンを押した。
妹にドアを開けてもらうと、わたしはブーツを脱いで上り框に荷物と上着を置き、洗面所に手を洗いにいった。そして、リビングへ向かうと、動かなくなってしまったあの子と対面した。
ブランケットの上、あの子は手足を投げ出して事切れていた。目はわずかに開いていたけれど、どこも見てはいなかった。わたしはあの子の名前を呼びながら、頭に触れた。ぽた、ぽた、と止まっていた感情が動き出して、わたしの眼窩から涙が溢れ出した。
父が葬儀社に電話を掛けている声が聞こえた。名前や年齢、犬種や体重について父が話すのを聞きながら、わたしははっとして顔を上げた。死亡時の体重、二・七キロ。子犬のころよりもほんの少し重いかといったくらいのその軽さに愕然とした。この子は本当に文字通り、骨と皮になって死んでいったのだ。
前の週まではもう一キロほどあったのだと母が説明してくれた。最近は全然ご飯を食べなくなってきたのだけれど、今朝は全部食べてくれたのだということ。前の日に動物病院に行ったときには風邪をひいていたこと、そして体温が常より低かったということ。
あの子は朝、出勤する父を見送った後、母に朝食を食べさせてもらったらしい。食後に水を飲み、母があの子にげっぷをさせるために抱っこした後、死前喘鳴が起きたこと。そして、最後に息を吸い、そのままがくりと力が抜けて動かなくなったということ。
頭蓋骨がやけに冷たかった。焦げ茶色の肉球には死の冷たさが宿っていた。死後硬直が始まる前に一度弛緩したのか、同じ色の爪が手の間からのぞいていた。
筋と骨が浮き出た背中もまた、すごく冷たかった。あの子の命がもうここにいないことを認めざるを得なかった。
体を抱えてみるとすごく軽かった。これが二・七キロか、と思うと切なかった。
父はあの子を寿命だったのだと言った。腕の中で看取った母にそう思い込ませたかったのだろう。そうでないと、次に壊れてしまうのは母だから。
確かに十五歳という年齢を考えれば寿命だったのかもしれない。けれど、わたしにはそうは思えなかった。きっとあの子は予後不良で弱っているときに風邪をひき、衰弱死したのだろう。
わたしたち家族は手術後のあの子にがんばれと声をかけ続けた。けれど、今思えば、それはあの子の苦しみを引き延ばすだけの言葉でしかなかったのかもしれない。人間の自己満足を満たすだけの言葉でしかなかったのかもしれない。もしかしたら、もういいよ、って言ってあげるべきだったのかもしれない。
葬儀社が訪れるまでの間、和室にあの子の体を移して腐敗が進まないように保冷剤で応急処置をした後、わたしたち一家は努めて普通に過ごした。普通に昼食を摂り、普通に出かけ、普通に食卓で茶を飲んだ。父のヘッドフォンの修理の手続きやら、ブラックフライデーの買い物やら、あの子の旅立ちには相応しくないことばかりしていたような記憶がある。
誰もいないとき、わたしはなるべくあの子のそばで過ごそうとした。最期に一番一緒にいてやれなかったのはわたしだ。その自覚があったから、葬儀社が来るまで、少しでも長くあの子のそばにいたかった。
なるべく心を揺らさないように努めながら、わたしはあの子の頭を撫でた。死後硬直で硬くなった手足に、冷たい頭に改めてあの子は死んでしまったのだという現実を突きつけられて心が痛かった。
どうしようもなく、涙が溢れてくる。悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。
葬儀社から三十分早く着くという連絡が父の携帯にあった。それを合図に和室に家族が集まり始めた。レオにも最期のお別れをさせたけれど、レオにはあの子が死んでしまったということが理解できているのか、どうにも怪しかった。父は号泣していた。母も妹も泣いていた。
そうして最後の時間を過ごすうち、インターホンが葬儀社の訪いを告げた。十六時半より少し前のことだった。あの子を渡したくない。そんな思いが脳裏を過ぎったけれど、そんなこと叶うはずもなかった。
あの子の体が葬儀社へと引き渡され、一緒に燃やすためのおもちゃやお菓子を探して家の中がばたばたとした。あの子はレオが来てから、長らくおもちゃで遊ぶという習慣がなかったため、わたしが以前にお見舞いに買ってきた高級チーズを一緒に荼毘に付すこととなった。
あの子の亡骸が横たえられた葬儀社のバンの後部席は暖かかった。あの子の体を燃やすために、オーブンで余熱をするように道中で車内を暖めてきたのだと思うと恐ろしかった。
最後に全員で順番にあの子にお別れを告げた。父は最後まであの子の姿をスマホでカメラに収めていたけれど、もうどこも見ていないあの子の目が恐ろしくて、わたしにはどうしてもそうできなかった。
わたしはあの子の顔に自分の顔を擦り寄せると、頭に口付けを落とした。ばいばい、チョコ。ばいばい。その言葉が適切なのかどうかわからなかったけれど、あのときのわたしはそう言うことしかできなかった。
バンの後部扉が閉められ、火葬のために車が去っていった。わたしたちは深々と頭を下げ、それを見送った。体についていったのか、家の中から気配が一つ消えたような気がした。
家の中に戻ったわたしたちは、火葬の間にケージの改装やあの子が使っていた道具たちを片付けていった。おそらく全員が全員、何かをして動き続けることでしか、ぎりぎりな感情を保っていられなかったのだろう。
あの子と最期の別れを告げてから一時間半。あの子は葬儀社の人に連れられ、白い骨になって我が家に戻ってきた。骨はとても小さかった。
これが頭蓋骨で、これが下顎で、と葬儀社の人はあの子の骨を一つ一つ説明してくれた。けれど、その小ささと儚さしかわたしの頭には入ってこなかった。
遺灰の入ったネックレスと犬歯を二セット受け取ると、父はあの子の葬儀でかかった費用をカードで支払った。そして、わたしたちは低頭すると、葬儀社の車を見送った。
それから、どうやって夕飯を摂り、風呂に入ったのか覚えていない。ただ、夕飯のおでんと一緒に普段は飲まない梅酒をソーダで割って飲んだ記憶だけがうっすらと残っている。
あの日の夜、全員が寝静まった後、わたしはこっそりと台所の勝手口から家を抜け出した。胃が気持ち悪くて仕方がなかった。家の胃薬を使えば、具合が悪いことが家族に露呈する。それを防ぐためにわたしは秘密裏にコンビニで胃薬を買おうとしていた。夜は静寂がもうあの子がいないという事実を一層際立たせていた。
コンビニから帰ってくると、わたしは胃薬を飲んだ。ハーブの清涼感が胃の中ですっと広がって、少しだけ胃が楽になった。
睡眠薬を飲んだ後だったが、まだ眠れそうになかった。わたしは冷蔵庫から梅酒を取り出すと、バレないぎりぎりの量をマグカップに注ぐとポットのお湯で割った。
ダイニングテーブルに座ると、キャビネットの上のあの子の遺影を眺めながら、わたしはちびちびと梅酒のお湯割りを舐めた。
つくづく可愛い犬だな。そんなことを思っているとまた自然と泣けてきた。そうして改めてあの子がもうこの世にいないことが悲しかった。魂がどこにいるのか、そもそも存在するのかどうかさえわからないけれど、それでもそこかしこにあの子の気配が残っている分、その事実が堪えた。
わたしはふいにあの子についての記憶が既に曖昧になりつつあることに気がついて愕然とした。夏までのあの子は一体どんな声で鳴いていた? 夏までのあの子の頭の匂いはどんなだった? リビングとキッチンの境界で不器用に地団駄を踏んでいる様子はありありと思い出せるのに、そんなささやかだけど大切なことが思い出せない。こうしてあの子の仕草一つ一つ、表情の一つ一つすら次第に忘れていってしまうのだろう。そう思うと寂しくて悲しかった。忘却は自己を守るために必要な機能なのだと理解はしていても、あまりに残酷だと思った。
梅酒を飲み終え、睡眠薬を飲み足すと程よく眠くなってきて、わたしはマグカップをシンクで洗って階上の自分の部屋へと戻った。そして、幻覚や幻聴に襲われながら、一夜を過ごした。一つだけわかるのは、あの子の魂なんていうものが仮にあるのなら、あの晩、わたしのところにあの子は来なかったということだ。きっと父のところにでも行ったのだろう。
翌朝、十時ごろにどうにか目覚め、バイトに行くという父と半ば入れ違いになるようにわたしは朝食を摂った。そして、その後残薬感がひどく、部屋で十四時ごろまで二度寝をした。薬と酒をちゃんぽんしたのだから当たり前と言えば当たり前のことではある。
十五時前に家を出ようとしたとき、レオが何やら犬語でわたしに訴えかけてきていた。そういえば、出かけしなに父がレオが何やら勘づいてきているらしいことを告げていた覚えがある。
その日はわたしは精神安定剤二シートと引き換えに感情を鈍麻させた後、彼氏と乗り換え駅で待ち合わせをして、買い物と食事を済ませて帰宅した。しかし、わたしに日常は戻ってこなかった。
前述の通りの消化器官の不調にはじまり、幻覚・幻聴、別人格が介在したと思われる直近の記憶の断片化。一人で起きていると、いやでもあの子のことを思い出してしまい、ベッドでも、リビングでも、駅のホームでも、ところ構わず涙が出てきてしまう。そして、肉類が受け付けなくなってしまったので、なるべく中身の入ってない菓子パンを無理やり腹に詰め込んで、あとはふらふらになるまで酒を毎日流し込んだ。すると、ただでさえ痛かった腹が、生理一日目のような激しい痛みを訴えるようになった。
こんなんじゃいけないことくらいはわたしとて理解している。これじゃあ、死んだあの子にとてもじゃないけれど顔向けできない。
(――やりたいことをやりきって死ぬ、か)
あの日の夕方、あの子が葬儀社の人に連れられていってしまった後に、両親と話したことが脳裏を過ぎった。幸せなことだったから不幸せなことだったかはわからないけれど、あの子は最後まで足掻いて足掻いて生ききった。それに対してわたしはこのままで良いのだろうか。
わたしはこの冬からほぼ三年ぶりにITエンジニアとして就職することが決まっていた。やりたいことではない、できることと希望の就業環境から絞っていった結果そうなったというだけだ。
わたしは本当は小説家になりたかった。小説を書くようになったのは小学三年生のときだったけれど、この二年と少しの間は本格的に賞を視野に入れて執筆に励んでいた。その間に長編を十一作、短編を八作書いた。けれど、進めても二次や三次までばかりでまったく努力が実を結ぶことはなかった。一時期は一次落ちも続いていた。
あの子のように生き抜きたいなら、わたしも己の道を通すべきではないのか。そんな自問自答がわたしの中にあった。
犬と違って自分は自分の衣食住を獲得する術を自前で用意しないといけない。そのことは重々承知だ。副業可な会社だとはいえ、働きながら小説を書き続けるという無茶は、己が持病の特性を考えると非常に難しい。
それでも、書きたい。文章を書く人に、なりたい。多くの人に自分の書いた文章を届けられる人になりたい。その思いが胸を突き上げてくる。それを宥めるようにわたしは甘い酒を口に含み、飲み下す。現実は冴え冴えと空の上からわたしを見下ろしている。
入社までの残り一ヶ月と数日。これはたぶん、あの子がわたしに最後に残してくれたアディショナルタイムだ。せめて、三が日が終わる日まで、わたしも足掻き続けよう。
あの子が亡くなる直前に書いていた話は、どうにも今は続きを書けそうにない。書くのであればもっと違う別の何か――あの子についての話だ。そうやってあの子のことをどうにかして腹落ちさせられない限り、わたしはきっと前には進めないから。
ぐっとわたしは酒の残りを煽ると、パーカーのポケットからスマホを取り出した。通りすがりのカップルがギョッとした顔でわたしを振り返っていったが気にしない。
あの子の話をどんな言葉から書き出そうか。伝えたいことは、残したいことはたくさんある。だけど、最初は何気なくて、飾らない感じできっといい。
わたしはスマホのメモアプリを起動させると、悴む指で最初の一文をこう打ち込んだ。
『わたしは、ふと月が見たくなって外へ出た。』
悼み酒 七森香歌 @miyama_sayuki
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