第三十七話 無限世界の支配律(三)

 六の右腕が、刃先が内側に大きく曲がった剣に変形した。


「俺を侮辱してんのか……それとも希海を? お前らは俺達の事を全部知ってんだろ。俺が希海にそんな事をすると、万が一でも思ってんのか」

「警告します、我々へ向けたその殺意を収めなさい。この世界の住民はあなた方を超越する力を持つと言ったでしょう。我々は貴方自身に干渉するつもりはありません。断るのなら別の者を探します」

「俺は希海を守ると決めたんだ……希海が今の俺の、生きる理由だ」


 六が感情に任せこれほど無謀な行為に出るのは、生まれて初めてだった。彼らとの間にあるどうしようもない力量差は、対峙すれば馬鹿にでも分かる。しかし希海の為なら、命だって惜しくは無い。この体については殆ど知らないが、死に際の「希海を守りたい」という想いが無ければ帰冥は不可能だった気がした。希海は命の恩人だった。そして、生きる理由を与えてくれた。


「お前らは、敵って事で良いんだな」


 高く飛びあがり、テーブルを越えてヨダキウムの首元を狙う。


「……オブスキュラ」


 ヨダキウムが呟いた。

 終始無言だった監視者────古い西洋のカメラが背の高い人間の首から下に乗っている、黒いマントを羽織った異形が瞬きするようにレンズを動かした。


 閃光と共にパシャリ、と音が鳴る。

 音が鳴った瞬間、六の体は空中で制止し、展翅された昆虫のように動かなくなってしまった。


「見ろ、こいつの無様な姿を! これが、我々が戦争の果てに生かすと決めた世界の生き物らしい!」


 猩猩は六を指さして大笑いした。

 六は自らが置かれた状況に混乱し声を上げようとしたが、それすら叶わなかった。


「今、己の心臓はどう動いている? 貴様は激しく緊張し、焦り、恐怖している筈だ……だがどうだ? 心音は聞こえないだろう。オブスキュラは鼓動すら止める事ができるのだ」


 ヨダキウムは目の前の六が振りかざした切っ先に微動だにせず、変わらぬ口調で言った。


「これはあくまで契約だ。支配律の下に、我々は貴様に命令する事はできない。だが契約にはこちらも、それなりの褒美を用意してやらなければならぬ……祈祷の獣よ」


 名を呼ばれた監視者は、薄汚れ、長い毛が体中に巻きついた犬の姿をしていた。その獣は刺繍があしらわれた白い布で目を覆い隠しており、前足とは別に生えた人間の瘦せ細った両腕が祈りの合掌をしている。


 獣が遠吠えを上げると、部屋一面に白い霧が立ち込めた。晴れると、そこには一人の中年の女性が立っていた。薄い部屋着で、顔に刻み込まれた皺は多く、ほつれた髪の毛を後ろで留めている。


 六の母だった。


「母さん……?」


 体が自由になり落下した六は、すぐに身を起こし母に駆け寄った。暗い寝室で、六が殺した姿のままだ。


「誰……?」

「母さん、俺だよ……! 今はこんな体だけど、六だよ!」

「その声…………本当に……」

「ははは……そうだよ、俺はお母さんの息子だ! ほんとに……本当にごめんなさい……! 俺のせいで、母さんに取り返しのつかない事を……」

「いいのよ六。母さんは六の厄災が分かった時から、こうなることも覚悟してた。六が生きていて良かった……!」


 今さっきまで黙り込んでいた心臓が、急速に五月蠅くなっていくのを感じる。六は結晶の体に恐る恐る近づく母を抱きしめてみた。鱗が感触を阻んだが、彼女がここにことは確かだった。


「もし『代行者』の契約を結び、羽宮希海を殺せば──貴様の母親を人間界に生き返らせる事を誓おう」


 六は母親の顔を再び見た。見開き、涙に濡れた瞳には、結晶の怪物が映っているような気がした。いや、彼女が本当に見ているのは人間の姿の六に違いない。


「本当にそんなことが……?」

「祈祷の獣が持つのは死者を呼び戻す力。今貴様の母親をこの世界に戻したが、それは一時のこと。彼女はこのままでは人間界で形を保つ事はできない。羽宮希海を殺せば、彼女を完全な魂と肉体で人間界に戻すと約束する」

「断る、と言ったら?」

「ここで彼女を再び殺す。貴様が厄災でそうしたようにな」

「……待て、母さんを渡す保証は? まだ俺はお前らを信用できない」

「それも支配律の掟の一部だ。『代行者』の契約は必ず履行されなければならぬ。もし破れば、我々の世界は消滅する。支配律とはそのような、絶対の規則なのだ」


 六は沈思黙考して言説の矛盾を探そうとした。しかし、「母さんが戻って来る」という希望がそれを妨げた。


「俺は……俺は…………」


 声を震わせる六の手を、母が取って言った。


「良く聞いて、六。お母さんは今の六の事は分からない。でも六は他人を傷つけるような人じゃないでしょう? お母さんの為にその子を殺すなんて、考えないで。お母さんの事は良いから」

「俺は人を殺してきたんだ……沢山。母さんが思うような、まともな息子なんかじゃない。母さんを殺した感覚を忘れたくて、汚れを洗い流したくて、少しでも悪人だと思えばすぐに殺した。もう何も感じないよ」


 希海を殺すのは簡単だろう。自分は今最も彼女に近づく事が出来る人間なのだ。戦闘能力を持たない彼女を暗殺し、あとは母と二人でどこかへ逃げる。世界を敵に回しても、母さんと生きる事ができるのなら構わない。


「そんなの嘘。現に今六は泣いてるじゃない。希海さんは大切な人なんでしょう? そんな人を殺してしまったら、あなたは一生幸せにはなれない」


 その言葉が、思い悩んでいた六の答えとなった。


 ──そうだ。例え母さんが戻ってきても、希海を殺してしまえば俺は一生後悔し続ける。俺の世界を広げてくれたあいつは、もう母さんと同じくらい大切な存在なんだ。


 六は再び母の瞳を見つめ直した。母も、息子の決断を無言の内に確かめ、ゆっくりと頷いた。


「契約は断る。俺は命に代えても、希海を守る」

「何故だ。母親が戻って来る。貴様が忌み嫌う厄災も消えて無くなるのだ……全て貴様の望みではなかったのか?」

「ああ、望みだ……のな。だが今は違う。他の代行者が現れるのなら、全員俺が殺してやる」


 ヨダキウムは深く溜息をついた。それが無念か、苛立ちかは六には分からない。


「良かろう──であれば貴様の母親はここで殺す。本当に、それで構わないのだな?」

「この子は私と言う呪いに縛られています。私がこの子の傍に戻っても、それは絶対に消えません。六は前に進まないと」


 ヨダキウムは徐に立ち上がって母に近づき、膝をつく彼女に大剣を振り翳した。


「ただ……待って下さい。私を殺すなら、六が見えない所でやって」

「……好きにさせてやる」

「おい、やけに甘いな、お前らしくない。情に流されたか? ヨダキウム」


 空洞の目で身動き一つせず親子を見つめていた猩猩が、掠れた声で笑った。


「どうでもよいのだ。所詮此奴らは下等な存在。彼女の願いを受け入れる理由が無ければ、断る信念も我々には無い。それを此奴らに理解させる為だ……祈祷の獣よ、訪問者を門まで案内してやれ」


 剣を下ろしたヨダキウムに命令された獣は席から立ち上がり、付いて来いと言わんばかりに六を一瞥し扉に歩き出した。


「じゃあね、六……あっちでも元気でね」

「うん」

「友達、いっぱい作るのよ。お母さんは六の友達、会ったこと無かったから」

「うん」

「六が沢山の人と触れ合って、喧嘩して──好きな人ができたって良い。それがお母さんの願いだから。六が一日中病院の窓から外の景色をずっと眺めてたの、お母さん覚えてる」

「……うん」

「あなたはもう外へ出て、その景色に混ざって良いのよ」

「うん……心配しないで、母さん。ありがとう────さよなら」

「さようなら」




 扉は静かに閉まった。獣は、立ち尽くし涙を拭う六に構わず歩き続ける。

 六はすぐに歩き始めた。

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