第二部 イザヤ・聖戦編

第三十五話 無限世界の支配律(一)

 この川辺を、どれだけ歩いただろう。


 ダイアモンドのように硬く、しかしガラスのように繊細で蒼い六の足は、歩みを止めることなく大きな川をなぞって進んでいく。 

 どうやら夜らしい。周りを涼しい木々に囲まれており、濃い霧に包まれ視線の先は不明瞭だが、星明りが足下を不安げに照らしているのは分かる。 


 初めは理性が上手く働かず、「希海を守れ」という指令を脳に出すのがやっとだったこの体に六は段々慣れてきていた。思考の靄は晴れ、この途方もない冥界の旅路の間に己と希海について思いを巡らせる程度にはなったのだ。


 ──希海は今何をしているのだろうか。局員にちゃんと保護されたのだろうか。あいつがヴェロニカに二度蹴られ、声も上げられず苦しんでいた姿ははっきりと覚えている。あの女と戦った血まみれの倉庫から一刻も早く立ち去ってほしい。あんな汚れた所に希海は居るべきではない。


 しかしまだ意識の一部は自らの元へ帰って来た訳ではない。体は思考とは無関係に歩き続けている。まるで子供が疲れ果てた六の手を引き、この世界の「どこか」へ連れて行こうとしているようだった。

 周りの木は松やトウヒだろうか、と六はふと考えてみた。冥界と言っても、人間界と景色は大して変わらない。霧も重なり、ここは図鑑で見た北欧の森林を彷彿とさせる。


「先の見えない道を歩くなんて、俺の人生みたいだ」


 六はぽつりと呟いた。喋れるようにもなったらしい。

 心を殺し同じ事を繰り返すだけの六の人生は希望も絶望も無く、喜びも悲しみも見えなかった。まるで星の無い夜の海で、あてもなく泳ぎ続けているかのように。夜の海では水をかく指先すら一切見えず、進路から大幅に逸れてしまう事もある。自分が今どこへ泳いでいて、どのぐらい進んだか全く知らない、完全な暗闇。ゴールがどこなのか、ひょっとすると終わりが無い気さえするのだ。体は重い疲労に支配され、それでも水をかいて進まなければならない。それが六の人生だった。


 希海は向こう岸の暖かな街灯りだった。光の無い夜に突然現れた街灯りは、そこを目指せば人々の賑やかな営み、そして幸せに辿り着けることを六に告げた。


 もう進むことを止め水底に沈もうとしていた青年は、少女のために生きることを決めたのだった。




 永い時が経ち、霧は晴れ、目の前には巨大な石造りの建物が現れた。神殿のようにも見えるが、建物全体を照らす夥しい数の松明や、こちら側へせり出す入り口の滑らかな壁面が不気味である。 


 百段以上続く広い階段を上り、六の体は建物の中へ入った。天井は無く、中の明かりは壁に等しい間隔で立てかけられた松明だけである。閑散とした無人の廊下を進むと、やがて扉を見つけた。自分の体はこの先に行きたがっているらしい。既に抵抗を諦めていた六は、大人しく扉を開けた。


 扉の先は、四方を滑らかな石壁に囲まれた広い部屋だった。天井どころか床すら無く、代わりに部屋中の物が湖に浮かんでおり、透明な水底から暖かな光を放っている。部屋の中央には細長く巨大なテーブルが置かれている。


 あまりに幻想的だった。霧が晴れ切った夜空に浮かぶ星が、清澄な水面に反射している。圧倒される六に唯一不安を与えたのは、テーブルに座るだった。


 冥獣や帰冥体の類ではない事は直感ですぐに分かった。神話や物語で目にしたような出で立ちの化け物も居れば、名状し難い怪異も居た。皆およそ人間とかけ離れた姿をしており、六の二倍以上の体躯でテーブルを囲む椅子に鎮座している。

 初め、六は敵かと身構えた。しかし皆の視線と共に注がれる得も言われぬ恐怖に、その場に硬直する。やっと思い通り体を動かせるようになったが、今度は恐怖にその支配権が渡ったのだった。


「貴様が一つ隣の世界からの訪問者か。入って来るが良い」


 最奥に座る、銀と黒の鎧を纏った騎士が地の底から響くような低い声で六に言った。


 その異形は、最も人間の想像力に寄り添った姿をしていた。頭には漆黒の王冠を戴き、くすんだ灰茶色のベールで覆われた顔は、床の光を以てしても確認することができない。


「二度も言わせるな。水に沈みはしない。入れ」


 立ち尽くす六に、騎士が今度は強かな声を放つ。我に返った六は、言われた通り部屋に足を踏み入れた。水面は少し雫を飛ばしたが磨かれた大理石のように硬く、その上を問題なく歩けた。

 テーブルは縦に細長く、騎士の左右にはそれぞれ二体の異形が座っていた。


「お前らは……一体何なんだ」

「我々はお前さん達を超越した力を持つ存在だよ」


 騎士の左手に座る異形が気味悪く笑った。

 は全身が黒い毛に覆われた髑髏のような顔をした猿で、他の者と比べて背がひと際低い。低いと言っても六や百八十センチを超える至出上より大きく、毛の下から隆々とした筋肉を覗かせていた。


「人間か?」

「人間? ああ、そうか。それがお前さん達の世界の、お前さんの種族の呼び名だったな。違うね。今言っただろう。我々はお前さん達を超越していると。我々の世界──人間が『冥界』と呼ぶ世界は人間界と成り立ち方が全く違う。同じ物質は一つだって無いし、『生命』というメカニズムさえこの世界には存在しないのさ」

「じゃあ何で俺の言葉が分かる? ここへ来る道中に生えてた木だって亜寒帯で見られるものだ。それに、俺達を超越していると言えるなら、人間の事を知ってるんだろ?」

「私が説明します。猩猩しょうじょう、貴方には言葉が足りない節がある。見なさい。ここに迷い込んだこの哀れな人間は何も理解できていないではないですか」


 猿と向かい合った異形が、女の声で言った。ただその見てくれは女とは程遠い。足と思わしき部位は無く、脊椎らしき骨が垂れた胴体は宙に浮かび、禿頭の蒼白な女性の顔が二つ生えている。四つの目からは青い涙が流れ、異様に長い腕を机上に置いていた。


 猩猩と呼ばれた異形は何も言わず、再び気味の悪い笑い声を上げた。


「貴方が見ているこの世界は全てが貴方の認識を介して存在しています。つまり、貴方が見ている景色や私達の姿、五感から伝わる情報は我々の世界のそれらとは全く違うのです。私達は本来、言葉という情報伝達の手段も持ちません」

「急にそんな事言われても意味わかんねえよ。まあ、クソデカい化け物に囲まれるのが俺の頭の中だけで良かったぜ」

「彼女、アヤク=テネ=ヘムは知を司り、人間界の悉くを識る。貴様や羽宮希海の事もな」


 騎士が言った。


「冥界とは何だ? なぜ冥獣を寄越す? 希海の厄災は一体どんな力なんだ?」


 希海の名前を聞き、六はまくし立てるように問うた。


「人間界に脅威たる冥獣を送るのは────我々が無限世界の支配律に組み込まれているからだ」


 騎士が続ける。自らをヨダキウムと名乗った彼は、自分の身長程もある大剣を杖をついて座る老人のように目の前に突き刺している。


「無限世界の支配律?」

「そうだ……神は我々の世界や人間界のように、他にも複数の世界を作った。その数は無限。貴様らで言う『並行宇宙』の概念に近いだろう。そして全ての世界に共通する絶対の規則ルール──それが無限世界の支配律なのだ」

「悪い、話のスケールが大きすぎて頭に入ってこないんだが。適当言ってるんじゃないだろうな?」


 六が蟀谷こめかみを親指で叩く。鋭い爪が結晶の鱗にぶつかりカンカン、という音が鳴った。


「おい、この坊主本当に賢いのか? こんなのを『代行者』にするのは賛同できねえな」 

「彼の知能指数は百四十三です。平均が百辺りですから、人間の知性としては十分過ぎると言ってよろしい」


 悪態をつく猩猩にアヤク=テネ=ヘムが答えた。


「そんな事も知ってるのかよ、気持ちわりい。で、その支配律ってのは?」

「無限に存在する世界には力の序列が存在します。上位の世界である程その住人は強大な力を有しており、住人はその序列の『隣り合った世界』にのみ干渉できるのです。我々の場合であれば、我々の一つ上の世界、そして一つ下の世界である────」

「人間界か」

「ええ。支配律はそれだけではありません。無限世界では、『下位世界の住人が文明の発達などで力をつけ、上位世界を超越する』という事が稀に起こります。そうなれば、支配律は崩れ、神は脅かされた上位世界ごと、その世界を消滅させてしまうのです」


 あまりに突拍子もない話に、六は深く息を吸って空を見上げた。澄み切った夜空には幾つもの星が瞬きながら通常の数百倍、いや数千倍の速度で東から西へと過ぎ去っている。しかし夜明けの予兆は一向に現れず、まるで夜が昼を追い出して天に居座っているようだった。


「我々五人は監視者。神に選ばれ、人間界がこの世界を超越しないよう監視、支配する使命を負っています。人間を超越した我々自身が直接手を下したいのですが、支配律によりそれは不可能。監視者自身が隣の世界に干渉することは許されません。そこで我々はこの世界の刺客を使い、人類が力を持ちすぎないよう管理しているのです」

「刺客ってのが冥獣、間接的に人間界に干渉するゲートが『門』って訳か。だが待て、お前らの話には矛盾がある。無限に世界があるなら、人間界の下位世界は? 支配律なんて話、聞いたことも無いぞ」

「そう、ここからが本題です、訪問者。不思議なことに、人間界は下位世界が存在しないのです。なぜそのような世界が存在するのか、さらに先の下位世界がどうなっているのか、神しか知り得ないでしょう。人間界は言わば支配律のなのです」

「知りたいのはそれだけじゃない。希海の厄災がゲートとして使われてるなら、希海が生まれる以前のものを含めて『門』は二つある筈だ……最初に『門』が現れたのは一九六〇年だからな。なぜ希海がそんな重要な役割を────」


 その時、王冠の騎士ヨダキウムが大剣を勢いよく振り下ろし、金属のぶつかる重苦しい音が鳴った。六は霹靂のように襲い来る威圧感に体を震わせ、思わず視線を彼に移した。


「ここからは貴様ら人間が犯したの話をしよう」

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