第三十四話 怪物
ヴェロニカは静かな興奮と歓喜の渦中に居た。
生まれてから今まで、自分以外の帰冥体を見るのはこの瞬間が初めてだった。人間が冥界で生命活動を保つことができる唯一の姿。あの狭くて不潔な研究所から脱出することを心に決めたあの日────自分達を虐げる世界と人類に復讐を誓ったあの日に所長室で読んだレポートに、その存在に関する情報は隠匿されていた。
世界中が追い求める冥子は、冥獣の出現と同時に「門」から採取される。開門は冥獣による大量破壊を地上に残すが、それと同時に魔法の物質をも落とし、人類に恩恵をもたらすのである。
だが問題はその量の少なさにあった。開門の度に冥獣の体内や上空の目が出現した地点を根こそぎ調査し尽くしたにも関わらず手に入った冥子は極僅かな量で、効率的に活用する研究の進歩の遅さも相まって世界の需要の全てを満たすには程遠い。
ではいつ起こるとも分からない開門を心待ちにして、その度に雀の涙をかき集めるべきか? 答えは否。歴史上開門したのは計六回、その内冥子が採取できたのは去年までの四回。エネルギー問題が解決するのは何百年後になるだろうか。
そこに現れたのが、冥界との接続口を出現させる事ができる「門」の厄災を持つ、羽宮希海という少女。
希海は言わば、世界で唯一の油田だった。彼女を手中に収めた者がどれだけの利益を得られるかは想像に容易い。もしその油田を猟犬が独占すれば、この世界は笑えるような勢いで顔色を変えるに違いない────そう信じてヴェロニカは二人と計画を進めて来た。
未到達ではないが、人類未開の地。どのような脅威が待ち構えているか全く想像の出来ない領域に一人で侵入するのは凄まじい恐怖が伴う。ふとそんな恐れを思い出す度、私にもまだ弱い感情が残っていたのかと自己嫌悪が襲った。
目の前に立ちはだかる同類を説得し、必要ならば洗脳や拷問を用いれば、共に冥界へ行く事ができる筈だ。三人の結束を重んじる猟犬の気風に反するとイゾルデには反対されたが、ヴェロニカは心のどこかでその弱さを捨てきれずにいた。
まずはこの化け物を行動不能にまで追い込む。青い炎を絶え間なく噴射し続けているように見える、翼の役割を果たす背中の機構──あれは炎ではなく、凄まじい勢いで生成される冥子だろう。帰冥によってあれの冥力が復活したどころか爆発的に上昇しているのは明白なのだ、以前の戦闘のような手加減は要らない。まずは羽根で牽制を────
ヴェロニカの思考を待たず、目の前に居た筈の六が刹那に体を揺らし、姿を消した。
六の居ない虚を見つめるヴェロニカの背に、激痛が走る。
「ッお前、いつ動き出した…………!」
背後にはヴェロニカの右翼を喰らい、咀嚼し、羽根を毟り取る六が居た。
────羽を引き千切られた! 全く目で追えなかった!
蜃気楼とすれ違った気分だった。夏の昼の向こうに幻視の如く視界に現れ、瞬きすれば姿を消す蜃気楼。
ヴェロニカは、帰冥すると身体能力や冥力がリミッターを解除したように急上昇する事を身をもって知っている。しかし中央公園の戦闘では鈍重だった動きがここまで素早くなる事は想定外だった。身のこなしは自らのそれを優に超えている。
六がヴェロニカの背後の希海に手を翳す。同時に、彼女を保護する結晶のドームが現れ、大切に鳥籠に入れるように体を閉じ込める。猛獣のような動きと咆哮から察するに、恐らく初めての帰冥を本人の精神が制御できず、理性が上手く機能していないのだろう────だとすればこの行動は理性と言うより「本能」に近い。
「羽宮希海、この化け物はお前を守るという意思だけで動いているらしい。良いねえ……それがお前の『時間に関わろうとする意志』か」
無言のまま必死に息を整えようとする希海は、涙を浮かべた目で六の姿を追う。そうだ、これがお前を守ろうとする男のなれの果てだ。彼女を見てヴェロニカは心の中で嘲笑した。自分と同じように、なんて醜く、なんて美しいのだろう、と。
六がぐちゃぐちゃにしたヴェロニカの翼をうち捨てる。それを合図に、ヴェロニカが六に向けた指先から空気を圧縮した数発の弾丸を打ち出す。六は当たり前かのようにそれらを躱し、自らの翼から噴出する炎の勢いを強め距離を詰める。
「もっと賢く動けよ、化け物!!」
ヴェロニカは背に残った左翼に隠していた剣を引き抜き、目の前に迫る六の首を狙い勢いよく水平に切り払った。
しかし結晶の鱗は肉に刃を通さなかった。乱気流を纏い、触れただけで鉄をも切り裂く透明な刀身をいとも容易く防ぐ。ヴェロニカは刃が首の鱗に拒まれる甲高い音で、生成する結晶の硬度すら帰冥前を凌駕している事に気づいた。
六が剣を左手で掴んでヴェロニカを地面に組み伏せ、右手の鋭い爪で腹部を何度も何度も切り裂く。
ヴェロニカが上げた絶叫が倉庫に響き渡った。ぐちゃり、と言う肉を掻き回す惨い音と共に執拗に繰り返される斬撃は、彼女の上半身に血の噴水を作った。
痛みに耐え、左翼を打ち付けて六を壁に吹き飛ばす。残った殆どの斥冥力を治癒に回しているにも関わらず、血が止まらない。頬の穴から火にかけた
────最早行動不能などという次元じゃない。こんな怪物、同類などと呼べる生き物ではなかった。こいつを全力で殺さなければ、間違いなくこちらが殺される……!
「そうだ…………もう終わりにしよう。期待したよりも……楽しかった…………ここまで感情的になったのは久しぶりだよ…………」
平静を装い、無用の長物となった剣を自らの手で砕いて足元へばら撒くように棄てる。
初めは、ゆったりとした
────台風は風速五十メートル程で自動車が横転し、六十メートル程に達すると家屋が倒壊し始める。
冥界へ足を踏み入れる資格を有する生命体。
それは人間は
ヴェロニカを包む風の勢いは
窓は紙吹雪のように割れ、散った鋭利なガラスの破片は雨粒のように強風の流れに従い、宙に旋回する。
世界に終末が訪れるその時に天から鳴り響く音があれば、こんな音色だろう。鼓膜すらガラスのように破いてしまいそうな轟音が鳴り、樹木は曲がり、折れ、周囲の建造物の天井や壁、果ては信号機や看板まで、全ての物は彼方へ吹き飛ばされる。
この日、新宿区の人々は「神罰」と「災禍」を同じ夜に目撃した。
「神罰」は、フランツェスカ・フリートハイトが行った
「災禍」は、新宿の一部を包んで突如発生したヴェロニカ・ロウエによる暴風。
倉庫は既に廃墟と化し、そこに残るのはズタボロに傷ついた騎士と結晶の怪物、そして一人の少女を嵐から護る結晶塊のみ。
「最高火力だ…………吹き飛べ!!」
高速で宙を舞っていた鉄塊やコンクリート、自動車、コンテナ、さらにはヴェロニカの剣の破片や無数の羽根までもが風に乗り、一斉に六に襲い掛かる。しかし六は掌で地面に触れ、足元には半径十メートルの複雑な形を成した円が描かれた。
瞬く間に円から六を囲う結晶の壁がせり上がり、飛来物を全て防ぐ。一つひとつが小さな隕石のような衝撃を以て壁にぶち当たり表面はひび割れたが、六は滾々と湧き上がる冥力を惜しみなく注ぎ込み、隔壁を何重にも生成し続け耐え凌いだ。
「きゃああああああっ!?」
希海の鳥籠も逃げられる事は出来ず、隕石の雨に晒された。しかし、人間としての理性を失った蒼い怪物は、それでも自分だけでなく希海を囲う結晶の生成をも繰り返す事を忘れなかった。
────嵐が止んだ。先に冥力を使い果たしたのはヴェロニカの方だった。
意識が朦朧とする。眼前の蒼い柱が弾け、怪物が姿を現す。其れはたった今地上に生を受けたのかと見紛うてしまう程に、青色の鱗に月光を透かしてそこに立っていた。
お前はこの化け物に勝てない。故障した機器のように逸る心音がヴェロニカにそう告げる。
「…………その姿になったからには……命を賭してこの娘の為に戦う事を決めたからには、もう運命の変遷から顔を背ける事は許されないぞ。お前はこの世界に使い果たされ、擦り潰され、それでも抗う事を選んだんだ」
──怪物の背後から体を囲うように八本の結晶の槍が現れ、全ての穂先は眼前の騎士に向いた。
これで、私は死ぬのだろうか。穂先の鋭さに魅せられ、意識を手放しそうになる。
いや、私は何が何でも────────
すぐさま防御の為に体を包んだ左翼に一本目が突き刺さる。残り少ない斥冥力では防ぎきる事はできず、槍は白い羽根を縫って貫通した。即座に二本目、三本目が両足首に突き刺さり、四本目は腰の腸骨を砕く。
「っがあああアアアアァァ…………っ!! イズ……! 俊樹ィ……っ!」
五本目、腎臓に直撃。六本目と七本目は両脇腹の肉を引き千切り、後ろの壁へ。ひと際巨大な最後の一本は腹のど真ん中に突き刺さり、片翼の騎士は磔刑にされた罪人の如く、壁に張り付いて無惨な姿で力尽きた。
噴き出した血が泡を立てて床一面を汚し、二体の帰冥者による凄惨な戦闘の終幕を物語る。吹き荒んだ風で消えた文明の光の代わりに世界を照らす満月を見上げ、六はもう一度低い咆哮を上げた。
六と日々を重ね、忘れていた。これが本当の六だ────希海はそう思った。出会った時、人を残酷に殺していた。悲しい目で。この野蛮で残忍な怪物の正体が帰冥した六だという事実を拒む理由も、その資格も自分には無い。
六が希海に一歩一歩確かな足取りで歩み寄り、顔を覗き込む。
「え…………?」
静かに希海と顔を合わせていた六が突然、自らが作り出した結晶のドームを何度も殴りつけた。
「やめて……普通に戻って! 六!!」
鳥籠は余程頑丈に作ったのか、数発連打して漸く砕けた。蒼の化け物と怯えた目の少女が、相対する。再び動き出した六に小さく短い悲鳴を上げる希海は、全く予想しなかった六の行動に体を震わせ、大粒の涙を流した。
理性を失ったと思っていた六が、希海を抱きしめたのだ。
「ノぞ…………ミ……ィ……ぃっ!」
途切れ途切れで拙くはあるが、六が希海の名前を呼ぶ。その声の向こうには確かに人間の六が居た。
「六……頑張ったね。私を守ってくれてありがとう。私達の家に帰ろう…………?」
硬い鱗が覆う背中に手を回し、優しく語りかける。
希海は分かっていた。今の六は冥対からの指令ではなく、自らの意思で自分を助けたという事を。六の手が血に染まっていたとしても、化け物だと突き放す訳にはいかなかった。
六の肌は冷たい筈なのに、希海は体の芯が温まって行く感覚がした。自然と呼吸は整い、心は安堵で満たされていく。陽光が注ぐ休日の窓際で、パズルの最後のピースを嵌めるような気持ち。
そんな充足感を遮ったのは、あの頭痛だった。
「い……っ! そんな、まさか…………」
見上げると夜空はやはり真紅に染まっており、ついさっきまで緩やかな光を放っていた月は赤い空に不気味に輝いている。
ゴォォン、ゴォォン…………とすぐそこに教会が在るかのように、鐘の音が響く。今までの開門では経験しなかった現象。鉄製の大きな機械で空を圧搾するかのようなその音は、希海に凄まじい恐怖と不吉な予感を届けた。
「何で……何で今…………『門』が開くのっ!?」
二人に与えられた平穏は僅か数分の内に何処かへ去ったのだ。鐘の音が心なしか、徐々に強まる。
そして二人のすぐ目の前に現れたのは────怪奇な眼ではなく、高さ十数メートルもの巨大な石造りの扉。
鈍い灰色のその扉は西洋宗教的ではあるが、ゴシック様式とギリシア様式が一つの建築に攪拌され精緻に均されたような印象を与え、大きさも相まって希海を圧倒する。
それはこれまでのどの門よりも、「門」と呼ぶのに相応しかった。
今これをくぐって冥獣が現れたら、六はこの力で私を守ってくれるだろう。そんな確信が希海にはあったが、知識として頭に在る「冥獣が築いた殺戮の歴史」が鼓動を逸らせた。
「六……もうひと踏ん張り、よろしくね……!」
しかし、冥獣は現れなかった。代わりに希海と抱擁を交わした帰冥体が彼女を離れ、門に吸い寄せられるように歩き始めた。
「え……?」
門を目指して前へ前へと歩みを進める帰冥体は、理性と野性が混じり合い互いに戦っているのか、意味の分からない言葉を口走る。
「すベテの…………っ……厄災は……ッ…………メイっがイにっ……帰スル…………ぅッ」
「やめて! そんな所行かなくていい! 君は人間の宵河六なの!!」
帰冥体は人が冥界に到達する姿────希海はこの瞬間、ヴェロニカの言葉を思い出した。
────向こうへ行ってしまったら、もう二度とここには戻らないような気がしたから。
必死に縋りつき、六を止めようとする。だが冥力の塊である帰冥体を非力な少女が抑えつけられる筈も無く、即座に振り払われた。
重い音を立てて扉が開く。鐘の音は五月蠅く鳴り続けている。
門の向こうは深い紫色の空間が広がり、突き刺さるような空の紅に目をやられて最奥は見えない。
帰冥体はゆっくりと門を跨ぎ、振り返らずに消えた。
「待って…………二人で唐揚げ作るって……約束…………」
希海は足から力が抜け、その場に崩れ落ちてしまう。
やがて、鐘の音が止んだ。
真っ赤な空には、金色の月が煌々と輝いていた。
第一部 猟犬編 完
「冥界より、美しきパンドラ達へ」をここまで読んで頂きありがとうございます。
第一部・猟犬編は完結し物語は第二部へと進みますが、執筆の準備中ですので更新は二月末~三月になると思います。
第二部は第一部よりもかなり長く、多くのキャラクターの掘り下げを行う予定です。
また、ご意見・ご感想もお待ちしておりますので、気軽にコメントして頂けると幸いです……!
これからも希海と六が紡ぐ物語をよろしくお願いいたします!
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