第十六話 迅雷

 七月に入り、梅雨は明け、雨季の湿った気温は日光の殺人的な照射を伴い、本格的な暑さに豹変した。

 都庁周辺は交通量が多く、歩道には忙しそうに電話しながら歩くスーツの人々や、コーヒーカップを片手に喋るオフィスワーカーらしき女性達が往来する。そして彼ら彼女らのほとんどは、夏の日差しに目を細めていた。


 警備上の問題から窓を開けられないため、黒のアウディの車内は空調が効き始めるまで嫌な熱気が籠っていた。三人は運転席に小野寺、後部座席の右に希海、左に六の配置で座していたが、小野寺は暑さのあまり背広の上着を脱いでシートにかけている一方、六は上着は勿論、ワイシャツの第一ボタンまでしっかりと留めていた。要人と警護役という立場の違いはあれど、白のノースリーブに紺のミニスカートという希海の服装と彼らの暑苦しいスーツ姿の対比は、アウディの車内を違和感で満たしている。

 希海は六をちらと見た。瞬のような柔らかい、今時の男子という顔ではないが、直線的な鼻筋と、遠くを見通す澄んだ目が、精悍な顔立ちの中でもひと際目立っており、アップバングの前髪の毛先は窓のへりに頬杖をついた彼の目線と同じ方を向いている。

 まあ希海の好みではない。好みではないが、希海にとって六の外見の印象は、中身と同じく、出会った時から随分変わっていた。実際に容姿が変わったのではない。だが自分の中の他人の雰囲気は数日でここまで変わるのか、と希海は少し驚きをもって六を眺めていた。

「昨日話したお料理、今日やろうよ」

 希海が六に囁き、ウインクして見せた。

「メニュー、何が良いかな?」

「仕事中はよせ。後でだ」

 六が顔をしかめながら小声で返す。

「決めた、唐揚げ! 唐揚げにしよ。私揚げ物が良い!」

「何のために俺に訊いたんだよそれ……」

「全部聞こえてるよ、君ら」

 小野寺がそう言って笑った。六が逃げるように再び窓の外に顔を向けたが、希海には六の耳がほのかに赤らんでいるのが見えた。

「局長が言った通りだ。君たち名コンビって感じで、私は好きだよ? それに…………なんだ? あの子、車道に立って」


 小野寺が車道の先に立つ少年を見つけ、停車した。クラクションを数回鳴らしたが、車と向かい合ったまま微動だにせずにこちらを見つめている。それに気づいた六も、少年を鋭い目つきで見た。

 車列の後方でつっかえた車が何台も停車し、クラクションの合唱が起こる。

「二人とも、車から出ないでくれ。私が話をしてくる」

 そう言って小野寺が外に降り、少年に近づいて話しかけた。小野寺が後ろに回した右手には銃が握られている。窓を閉め切っているため、彼らの声は車内の二人には全くと言っていい程聞こえない。


 少年の体が動く。小野寺が何か叫んで銃を構えきる間もなく、少年は小野寺の顔を右手で掴んだ。

 直後、小野寺の頭頂をが襲った。雷鳴の轟音は車内を揺らし、二人の瞳孔を急速に開かせた。雷に打たれた小野寺の体は少年の手からだらりと崩れ落ち、ボンネットにぶつかって鈍い音を立てる。その嫌な音は、直前の雷鳴と同じくらい希海の頭にはっきりと残った。

 小野寺の背後の車にとどまる二人には終始彼の顔は見えなかったが、彼の顔面から夥しい量の煙が立ち昇っていることは明白だった。

「逃げるぞ!」

 六が叫び、後部座席から運転席に移り、ハンドルを握った。

「でも小野寺さんが! 小野寺さんが……!」

「諦めろ! あの丸眼鏡の厄災が雷か何かなら、車内が一番安全な筈だ! 応援と合流するまで車で逃げ続ける!」

 六は車のギアを入れ、アクセルを全力で踏んだ。アウディはタイヤを滑らせ、煙を上げながら発進した。

「良いか、シートベルトを絶対に外すな。それと小野寺さんは死んだ。二度と俺にそう言わせるな」

 希海は言葉につまり、シートのへりを力を込めて握った。

 

 猛スピードで走行する車内で六がちらと見たサイドミラーには、あり得ない光景が映っていた。

 走って車の後方にぴったりとついている少年。疾走する彼の足は電気を纏う。姿勢を低くし、短距離陸上選手のようなフォームで迫ってくる。

 六はスピードメーターを見た。


 ────嘘だろ!? こっちは改造した車両で260キロ出してんだぞ!


 サイドミラーから前へ視線を戻した六は、素早くクラッチを踏み、ギアを六速に入れた。

 車は唸り、スピードはさらに上がったが、振りきれる気配は全く無い。後方の少年に駆ける電気はさらに勢いが強まり、茶髪のパーマの毛先まで広がった。

 本部からの通信が来た。車内が安全という六の判断と周囲の通行人の安全を考慮し、ここから六キロ程先の新宿中央公園まで逃走を続けろ、との事だった。今こちらが中央公園を閉鎖し、周囲の市民を避難させて応援を向かわせている、と。少年は少しずつ、着実に車に迫って来る。都庁周辺の経路は一通り六の頭に入っているので、最短で着くだろう。しかし、目的地までの六キロを耐える余裕は二人に無かった。

「ねぇあいつ、ちょっとずつ近づいてきてる!」

「分かってるよ、これが最高速度だ! 応援が居る中央公園まで逃げ切るぞ!」


 アウディは通行する車の群れを縫うようにして爆走した。走っていた車がそのせいで何台も止まり、車道は混乱を極めたが、追跡する少年は車の上を飛び移りながら迫る。その様はまるでハードル選手のようだ。

 アウディが曲がり角でドリフトすると、七月の熱のこもったアスファルトにはその色よりもさらに黒いタイヤ跡が刻まれ、その曲線を遅れて少年がなぞる。

 ──確実に距離は縮まっていく。


 六はルームミラーに視線を移した。

「……少しくらいは時間稼いでくれよ、俺の結晶……!」

 六がそう言うとアウディのすぐ後方のアスファルトには結晶の塊が水たまりのように生成され、そこから結晶で形作られた十本ものが追いかける少年に向かって、一斉に射出された。

 槍はアウディと同じ速さで、車体とは逆の方向に進む。

 槍が体に近づいた瞬間、少年は槍に向かって伸ばした左手から放電した。バチッという音と共にそれらはバラバラに割れ、少年に触れる事さえなく地面に砕け散った。

 舌打ちする六に、希海が問いかける。

「フランさんが居なくても、他の人たちは助けに来ないの!?」

「生憎全員外出中だ、援護に来るとしても大分後だろうな。それまでに俺らが丸焦げになってないと良いんだが……!」

「そんな…………わあああああ! 六、まえまえまえまえ!!」

「分かってるよッ!」

 シートベルトを締めていると言えど、六がハンドルを切って車を避ける度に希海の体は左右に激しく揺られ、ドアにぶつかった。窓の外では車やバイクがドップラー効果で高くなった音を伴い、激烈な速さで通過していく。時折車道の小さな高低差で車体が軽く浮き、二人の体は宙に投げ出されたかと思えば、地面に叩きつけられた。他の車のクラクションや人々の怒号は、希海の耳に入っては来なかった。


 二人が乗ったアウディが角を曲がり、直線の速度を取り戻した直後、それを追う少年の視界が、突如として白く光り輝く靄のようなものに覆われた。炎天から降り注ぐ日光が靄の中を反射、屈折しながら進み、靄を鋭く満たした。それに少年がよく見ると、靄を作っているのは水ではなく、ガラスの破片のような物質だった。極めて細かい破片の一つひとつが、靄の中を走り抜ける自らの瞳に入り込もうとするので、目が開けにくい。少年はスピードを落とさずに、目を閉じたまま二人を追った。

 やっと靄が消え、目を開けたその時、少年は四方を囲む三メートルほどの結晶の壁に初めて気が付いた。


 ──しまった、今のは単なる妨害じゃない。次の攻撃を当てる為の煙幕……!


 立ち止まりそう考えたが遅く、壁は少年に迫り、一瞬で圧し潰した。

 六は車のマフラーの内側に細かく砕いた結晶を発生させていたのだ。加速時に排気の勢いで一気に砕いた結晶を後方に放つ。

 六の厄災「結晶」は、造りだす物体の構造やその運動が複雑なほど、生成の際に冥力を消費する。少年は後方にぴったりと張り付いていたため、自分で結晶の靄を作り出すより、靄のをマフラーの内部に用意するだけの方が消費冥力を大幅に抑えられた。

 

 六がルームミラーを確認すると、少年はすでに後方の景色から消えていた。

「これで中央公園まで何とか逃げられる……!」

 ハンドルを握り直し、安堵から深呼吸をする六をよそに、後部座席の希海は後ろを振り返り、六と少年が思う存分かき乱し混沌とした跡が遠ざかっていくのを眺めていた。

「パンドラって人間離れしてるんだね……つくづく思い知らされるわ」

「お前もだろうが」

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