第十話 猟犬

 ──夜の京都・東山。古代日本における貴族達の素朴ながらも優雅な風格と、中世における武士の華美ながらも剛健な意匠が未だに残る路地の石畳を、景色に溶け込む黒の街灯が淡い光で照らしている。闇に向かい天井が屹立する五重塔を背に、紺青の瓦と漆喰、木格子で建てられた家屋が並ぶ。家屋の窓や障子からの灯は、伝統が街に施す夜の化粧のように感じられる。


 その路地が入り組んだ先の、ある料亭。敷地は少し狭いながらも、風情ある庭園の池の周りには石灯籠が配置されている。


 その庭園に接した部屋には、二人の中年の男が向かい合って座っていた。どちらも中肉中背で、片方はしきりに顔の汗をハンカチで拭っている。


「いやぁ三好先生……空調が効いていると言っても、外は暑かったでしょう。背広の上、脱いだらいかがですか」


 ハンカチの男が言った。


「竹井君だってこんなに汗をかいているじゃないか」

「いやこれは…………何というか……」


 竹井は何か焦燥に似たものを隠しきれないでいた。


「それは良いとして先生……例の件、どうなりましたでしょうか?」

「お子さんの学校には、ちゃんと君が望んだ対応をしてもらったよ」


 竹井の汗ばんだ顔に、俄かに歓喜の色が広がった。


「そうでしたか! それは誠にありがとうございます……! 私を含め管理派の人間は、先生には頭が上がりませんよ」


 二人のもとに、給仕が手慣れた挙措で料理を運んで来る。


「いやぁ、この度は愚息が申し訳ございませんでした。私の躾不足で……」 

「なに……君は人の上に立つべき人間だ。これからという時に、こんなことで立場を下ろされては大変だからね。困ったことがあればいつでも頼ると良い。未来ある政治家を守るのは私の使命でもある」

「はぁ、ありがとうございます…………! このご恩はいずれ必ず、お返しさせていただきます」


 竹井が三好に、大袈裟に見える程深々と頭を下げる。


「それに君達管理派にも、最近世論の追い風が強くなってきているじゃないか。この調子なら近いうちにパンドラ保護法案、通せそうじゃないかね? 私は管理派というほどではないが、竹井君の目指すヴィジョンだ、応援しているよ」

「この頃はパンドラの暴走事件が増えておりますからねぇ。何人も罪のない市民が無くなっているのにパンドラを制限する法律が無いなぞ、全く話になりませんよ……! これではパンドラ共の権利を論じている場合ではございません。あれらの人権を声高に叫ぶ連中もございますが、そもそも人権とは人間のみに保障される権利なのですよ」


 ここ数日ずっと背後に張り付いていた心配事から解放された竹井の声が、徐々に大きくなる。


「ここ最近毎週のように耳に入る暴走のニュースを聞くと、パンドラが人間ではない事が誰だってすぐに分かる筈です。家に入った害虫を叩き殺したところで、権利を理由に怒る者がおりますか!?」

「落ち着きなさい竹井君……! 貸し切りと言っても、廊下で誰かが聞いていたらどうする!」


 三好が発言をたしなめる。


「とは言っても、これも大声では言えないんだけどね…………パンドラがこう……色々してくれているおかげで我々は飯を食えていると言っても過言では無いじゃないか。パンドラの制限を唱えておれば一定数が賛同してくれるのだからね」

「それもその通りでございますね。全く、三好先生の……何と言いますか、時流を読む能力には敬服せざるを得ません。我々がここまで来られたのも先生のご助力あってのことでございます」

「まあまあ……この件はここまでにして、食事にしようじゃないか。ここの蒸し海老は美味しくてね。これだけのために私はわざわざ京都に足を伸ばすときもあるんだ」


 二人は背広の上着を脱いで椅子に掛け、卓の料理に手を付け始める。


 その時竹井は、三人の若者が、庭園の奥からこちらへ歩いて来るのに気づいた。

 二人が二十代の外国人女性で、もう一人は十六・七歳程の、パーマがかかった髪をした眼鏡の少年。

 「例の件」に関する談合を万が一でも周りに聞かれないよう、竹井はここの周りの部屋を五室ほど貸し切っている筈だった。この三人はなぜここに居る? しかも、なぜ廊下ではなく庭園に?

 竹井がそう考えていると、三人は縁側をまたぎ、彼らの部屋に入って来た。


「な……なんだ君達は? ここに誰の許可で入っているんだ?」

「そうだぞ! 私達が誰だと思っている……金髪の君、日本語は分かるか!?」


 三好も加勢する。

 突然の侵入者に驚きを隠せないのは竹井だけでは無い。三好は豊かな頬肉に埋もれた小さく丸い目を精一杯開いており、ワイシャツの脇と背中の部分には、冷ややかな汗が灰色の楕円を作っていた。


 三人の真ん中に居る、熱帯夜だというのにフードにファーのついた黒のダウンジャケットを着た金髪の女が口を開き、流暢な日本語で言った。

「黙れようっせェなあ……お前らを探してはるばるロシアからお尋ねして来たんだぜ? フツー『よくいらっしゃいました』って言う所だろうがよ? 三好修蔵と竹井善治だな?」

「……そうだが、君達は?」


 三好が答える。


「三日後に京都で冥対機動局のフランツェスカ・フリートハイトって女とお前らとの会議がある筈だ。あいつの予定、知ってンだろ?」


 金髪が喋る横で、少年の方はこちらを一切気にすることなく、携帯ゲームに没頭している。もう一人の長い銀髪の女は、何も言わず二人を圧し潰さんとする目つきでこちらを睨んでいる。彼女の百七十センチ近い背と男並に広い肩幅が、眼光にさらなる圧を与えた。


「そんな細かいこと知るわけない! そ、そもそも知っていたとして誰が君達に教えるというんだ!?」

「あ? こーゆーのってそっちの秘書とかがスケジュール知ってンじゃねーの? なぁ俊樹としき?」


 少年がゲーム機から目を離さずに答える。


「…………知らないよ。イズ、ここに来る前に全く下調べとかしなかったの?」

「ん~~ちょっとだけ調べた……まァいいや。この不細工なおっさん共が嘘ついて隠してるかも知ンねェ」


 金髪がそう言っている間、竹井は僅かに震える手で、警察に通報しようと携帯電話に手をかけた。

 そうとは言っても、竹井の震えの理由は、目の前の三人への怯えではなかった。そういった恐怖も無いわけではなかったが、問題は三好との談合である。もしこれで警察が入り、事情聴取か何かで経緯を聞かれたらどう答える? たった二人の会食のために不自然に貸切られた複数の部屋。警察が怪しまない訳がない。そういった逡巡は、竹井の通報を引き止めた。


 金髪がそれまでポケットに入れていた両手を肩の横まで上げ、手のひらを天井に見せた。


「竹井 あきら。お前の息子の名前だ」


 金髪がそう言うと彼女の背後の空気がぼやけ、歪み、やがて両手先から、鹿と思われる動物の頭蓋骨が一つずつ現れた。頭蓋と言っても、人間の上半身程の大きさである。


 骨の表面には赤黒い汚れが纏わりついており、それが乾いて時間が経った血だという事を竹井は本能で理解した。死を皮切りにした悠久の時間の経過が部分部分を砕いて捨て、全体の半分ほどを蝕まれながらも天に向けて内側に反り返り、翼のように広がった角にはタンポポやケシ、シロツメクサ、キキョウ、カミツレなどの白、黄、薄紫の花々で編まれた花冠がいくつも下がっている。頭蓋の眼窩には漆黒の闇が横溢しており、眼球は無くとも絶望の洞穴が二人を凝視し、骨董品商の眼差しで彼らの命の価値を査定する。


「…………それがどうした」


 竹井の背筋に悪寒が走る。


「去年六月から今年五月頃にかけて同学校のパンドラの生徒への集団いじめ、最終的に暴行での殺害……だっけ?」


 竹井は卒倒しそうになった。

 なぜこの事が漏れた? 息子の学校と警察には三好に金を積んでもらい、無事に収まった筈だ。いや、それにしてもなぜ目の前の女が? こいつは何者だ?


「君は刑事か?」

「あ? 刑事?」


 金髪はだらしなく舌を口外に滑り出し、下品な笑みをたたえて言った。


「ぎゃはははははははは!!!!! 刑事だって!? おい、アタシらパンドラがそんなご立派な職業、なれるわけねェじゃん! 政治家さん達が一番わかってンだろ!? お前らが決めた法律だもんなァ…………おい、二人共手ェ出せ」


 竹井と三好が料理が並んだ卓に静かに両手を伏せ、相対する二人の横に頭蓋骨を背にした女が立った。


「やめてくれ……た、他人のスケジュールなぞ、本当に知らないんだ」


 やっと言葉を発した三好は、遠くの障子を見つめ微かに震えている。

 金髪は卓上の料理から三好の好物である海老をつまみ、喉に流し込んだ。


「見た目はお上品だが、よくわかんねェ匂いだけで肝心の味が薄いな。政治家の味だ」


 …………しばしの沈黙。


 やがて、浮遊している一対の頭蓋骨が突如口を大きく開けた。口内は眼窩の黒よりさらに深い、光を受け入れない、というより、光を内に捕食し決して外に逃がさない闇。

 二人が見入る刹那、その闇が三好の卓に迫り、三好の手首に光線のように降り注いだ。同時に、灯籠に照らされた庭園に三好の絶叫が響き渡った。


 三好の両手は切断され宙を舞い、料理を食べ終わった後の空の皿が受け止めた。


「知らねーなら部下でも使って調べさせろ」


 弱った獣のような唸り声を出し悶絶する三好に、金髪が低い声で言う。卓に上半身を投げ出した三好のワイシャツには、卓上の料理の汚れが至る所に付着した。竹井は何もできず、そのままの姿勢で三好を見ている。


「竹井君…………携帯……」


 三好が喘ぎ声ともつかない声を竹井に投げかける。


「携帯……私の代わりに秘書に連絡してくれ…………背広の右ポケットにある……私は……手が無いから…………」


 竹井は迅速に三好の携帯を出し、秘書の丸山に電話をかけ、三好の耳に携帯をあてがった。


 秘書に話す三好の声は苦痛と恐怖に度々妨げられ、また混乱で話の要旨を伝えるのに苦労したため、連絡には酷く時間がかかった。その間、金髪はゲームを続ける少年の肩を組み、その様子に一人で爆笑していた。


 そうして三好からフランの出張日程を聞き出すと、金髪が今度は竹井に告げた。


「それとお前、悪い事したから死刑」


 頭蓋骨の片方が竹井の目の前まで近づき、竹井は拳一つの距離で目が合った。

 竹井は視界が眼前の死の象徴に覆われたことで、長い刑期の末ようやく死刑の実行が言い渡され、絞首台に相対する死刑囚の気分を理解した。


 それは命の絶頂へ向かう果てしない緊張だった。絶頂はすぐ近くであることは確実なのに、今の自分とそれを隔てる時間があまりにも長すぎて、永遠のように思われる。

 竹井は指先一つ動かせなかった。

 

 頭蓋の口が大きく開き、竹井の頭に吞み込むように齧り付いた。

 ──パキ、パキパキ……メリメリメリ…………バキバキバキ。

 頭蓋が体中の骨を砕きながら丸呑みする間、竹井は一言も発さなかった。竹井は捕食される直前に、立ったまま気絶していたのだ。頭蓋の口からは、どす黒い血がシャワーのような勢いで噴き出していた。


 その時、三好の悲鳴が響き渡る部屋の障子を開け、一人の警官が入って来た。


「近隣の方から通報があって参りました。何があったのですか!?」


 警官が料理と血に彩られた卓を見た瞬間、銀髪の女が警官に向けて手で銃の形を作った。人指し指の先には針の直径程のごく小さな穴が開いている。


「こ……これは君達がや」


 ──警官には最期の言葉を言い終わる猶予すら与えられなかった。

 銀髪の女の指が向けられた警官の脳天に、同じ大きさの穴が開いた。


「よし、目的は達成したし、帰るぞぉ~」


 金髪が伸びをしながら言う。


「……あ、そういや折角日本に来たんだし、帰りがけどっか行くか! ヴェロ、お前どこ行きたい?」

「いや、どこも……そのままホテルで良いんじゃないか」


 銀髪の女が答える。その声は金髪と同じくらいハスキーだが、彼女と違うのはその落ち着き具合だった。目にかかるほど長い前髪の奥から物憂げな視線を外の庭園に向けている。


「……チッ。お前はいつもノリがわりーなァ…………俊樹、お前は?」

「秋葉原ってとこ、行ってみたい」

「お~良いぞ! ねェちゃんがそこ、連れてってやる」

「俊樹が行くなら私も行く。東京の人混みだと俊樹が迷子になるかも知れない。イズだけじゃ心配だ」

「良いよそんなの……僕はもうそんな歳じゃない」


 少年が不服そうな顔で銀髪に抗議した。


「じゃ決まりだな。冥対にご挨拶の前に遊んどくぞ。三日後、羽宮希海を攫いに行く」

 三人は人間の背丈ほどある庭園の囲いを軽々と跳び超え、料亭を後にした。




 畳や壁、水墨画の描かれた掛け軸、障子、食べかけの料理。部屋中の物に血が飛び散り、の屍が転がる部屋に、両手首の無い三好だけが取り残された。

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