第九話 共感

 灯の無い、夜の寝室。外には救急車のサイレンが鳴り響いており、窓には淡い赤と青の光が交差している。

 壁に貼られたくしゃくしゃの世界地図、飲みかけのペットボトル、部屋の隅に乱雑に投げ捨てられた数台のミニカー。


「あ……した……から…………学校が始まるね……」


 目の前に横たわった女性が苦痛に喘ぎながら、静かに呟く。口角からは一筋の血が流れ、白みかける瞳は明かりのつかない天井のライトを見つめる。


 ──やめて、もう喋らないでよ。また血を吐いちゃう。


「ちゃんと……教科……書……全部…………リュックに……入れた……?」


 ──呼ばなきゃ。救急車。


「べ……んとう、作れそうになくて…………ごめんね……

 

 玄関の外からは、ドアをしきりに叩く大きな音と、男の怒鳴り声が耳に入ってくる。


「お前だ! お前が生まれたせいで家族はおかしくなったんだ! うちは幸せだった!」

「お前さえ生まれなければ……お前さえこの世に居なければ……!」


 ──お前さえこの世に居なければ…………。


 ──お前さえ…………。


 ──この世に居なければ…………。


 ──お前さえ…………。




「生きて」




 午前三時。

 六は自室のベッドで飛び起きた。体中には夥しい汗が纏わりつき、呼吸は浅く、喉が渇く。


 黒の半袖の肌着の襟は、その汗で服の色より一層、黒が深くなっている。六月と言えど外の暗闇が白に溶け去る気配は無く、夜の帳が包んだ生き物を苦しめるような暑さにむせ返る。


 ──暑い。


「っ……ゔっ……」


 襲い来る吐き気に六は自室のドアを勢いよく開け、急いでキッチンに走った。


「ゔっ…………おぇ……っ」


 六は体外に出たがっていた物を、全てシンクに出してやった。


 吐瀉物に胃の中の物は一切無く、指先から第二関節くらいまでの大きさのが十個以上、透明な涎や胃液と絡み合っている。その結晶と涎が、シンクの銀色を忠実に透かしていた。


 六の厄災は他のパンドラと比べて抑制が難しく、結晶の嘔吐という形で体を侵蝕しているのであった。冥対の抑制プログラムを長い間受けているが、完全な克服の目途はつかず、度々結晶を吐き出す。特に、さっきのような悪夢を見た時には。


 ふと六が振り返ると、希海が心配そうに立っていた。足音とドアの音で起こしてしまったらしい。


「大丈夫……? 体調悪いの?」

「なんでもない」


 六がゆすいだ口を手の甲で拭って答える。

 希海は、六が結晶を吐き出す一部始終を見ていた。


「それ、厄災の暴走ってやつだよね……?」

「ああ。よくある事だよ」


 六は希海の方を見ずに言った。


「……あのさ」

「何だ」

「昨日、君がどれだけ周りから酷い扱いされてるか、なんとなく分かった気がしたんだ。お前達のせいで娘が死んだって、怒った人に腕を掴まれかけて……。フランさんが守ってくれたんだけど、君は今までこんな扱いをずっと受けてきたんだろうなって共感できて……」

「共感? その程度で分かったつもりかよ?」


 六はシンクのへりを強く握った。


「ごめん……」

「俺はそもそもお前の共感なんてどうでもいい。でもお前がその程度でパンドラの苦しみが分かったと思ったら大きな間違いだ。俺はお前みたいな、自分が可哀想と思った人間の心にずかずかと入り込む奴が嫌いなんだよ」

「お前、その感じだと小さい頃から周りの弱い奴に中途半端に干渉しては同情した気になってたろ。んで周りは文句言わずにおだてる」

「そんな、ちが……」

「その『弱い奴』がお前に反論しない理由を考えたことがあるか?」

「お前が強者の側にいるからだよ。自分は何か大事な物を持ってなくて、羽宮希海はそれを持ってる。それが理由だ」

「良いか、共感は想像が無いと成り立たない。人間は弱い奴に共感するとき、自分はそいつの苦しみをその通りに想像することができると確信してるんだ。そんなの大きな驕りだと思わないか?」

「……っ!」

 希海は黙って俯くしか無かった。


「持たざる者って奴は、それを口に出してもお前は理解できないと分かってるし、自分が惨めに思えるだけだからわざわざ言わないんだよ。俺だってそうだ! 怒鳴られて腕を掴まれそうになったくらいでパンドラの扱いが分かっただと? ふざけたこと言うのもいい加減に────」


 六が目を向けると、希海は涙を浮かべていた。




 夜はまだ明けそうにない。


「……悪い。部屋に戻って寝る。お前も早く寝ろ」

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