第七話 照応

 翌日は雨天で、前日とは違い梅雨に似つかわしい空になった。


 研究棟のガラスは空の鼠色を屈折させることなくそのまま棟内に運び、ビルの壁に付着した雨滴には天井のLED照明の無機質な光が飽和し、一粒一粒天が外景のビルにつけた印のように感じられる。


 希海はここで、昨日フランに指示された通り厄災抑制プログラムなるものを受けることになっていた。


 希海はロビーの長椅子に座りスマホをいじっていたが、予定の十五時になると銀色のスライドドアが開き、中から出てきた白衣の男性が施術室へ希海を招き入れた。




 施術室の中央には背もたれが鈍角をなした椅子が置かれており、椅子はモニターや機器に雑然と囲まれている。モニターに表示された数字はまだ希海が椅子に座ってすら無いのにも関わらず、絶えず上昇と下降を見せていた。天井にはLED照明に囲まれたプロジェクターのような機械がレンズを椅子に座った者に向けている。椅子の傍には机があり、机上には動物のぬいぐるみ、綺麗な宝石、漫画数巻などが置かれている。外を覗く窓は無かったが、代わりに隣の部屋との境界に大きな鏡が張ってある。鏡はマジックミラーになっており、向こうの隣室から施術室の様子が一方的に見えるらしかった。室内は薬品の冷たい匂いが満ちており、その中に微かにアルコール臭が漂っていた。


 希海は白衣の男性に指示されるまま椅子に座り、処置が始まった。


 厄災抑制プログラムは、人体の外からのスキャンや、薬品注射を用いて厄災の暴走を抑制することを目的とする。先天的に厄災を備える人間であるパンドラは一般人と比べ非常に大きな冥力を持つが、幼少期には厄災を制御できず暴走を起こすことが珍しくない。克服には個人差があり、生後数か月以降暴走が全く見られなくなる例もあるが、一方で成人後も暴走が繰り返される例も存在する。初めてパンドラが確認されて以後、厄災が暴走したパンドラが本人の意思とは関係なく市民を巻き込んで殺傷事件を起こすケースが後を絶たず、世間のパンドラに対する差別や偏見の主な理由となった。


「これで一回目の処置は終わり。暴走を完全に克服するには定期的に処置を受けないといけないから、こちらで克服と判断するまでここに通ってね。……しかしまあ、羽宮さんのようなとんでもない厄災が何の処置も受けないまま放置されているなんて、私は飛び上がりそうになったよ。近くの病院でプログラムを受けなかったのかい?」


 黒縁の眼鏡をかけ、波打つようなパーマをかけた四十代前半とみられる白衣の男性は、落ち着いた調子で希海に言った。


「今まで自分がパンドラだって全く知らなくて……ここの局長さんに言われて初めて分かったんです。こういうのって、よくあることなんですか?」

「殆ど症状が出なかったというのもあると思うんだけど、十八歳まで気づかないケースは稀だよ……なんにせよ、きちんと克服しなければいけないから、今後もよろしくね」

 こうして処置は三十分ほどで終わった。

 

 希海がロビーに出ると、長椅子に高校生くらいの年の女の子が座っており、本を読んでいた。高校生と言っても見た目は希海より少し幼く、見たところ一・二年生という感じがする。

 冥対にはこんな若い子もいるんだな……そう思いながら帰ろうとすると、希海は彼女に声をかけられた。


「あ、あの……羽宮希海さんですよね……?」


 長椅子から立ち上がる彼女のやけに大きい第一声は希海を少し驚かせたが、声はその後、尻すぼみするように小さくなっていった。

 こういう子は希海の周りにもよくいる。色んな人間に分け隔てなく接するため話し方から相手の性格を大まかに推察することに秀でた希海は、彼女がおどおどしながら小動物のような目で自分を見つめるのを見て、この子は会話が苦手なタイプだろうな、とすぐに理解した。


「そう! 君はここで働いてる子?」


 希海は明るい笑顔で、しかし相手をできるだけ怖がらせないような優しい声色で答えた。

 こういう時の希海の態度には決して他人を見下すような下心は無く、本心から相手と居心地の良い会話をしたい気持ちが常にあった。


「私、白川 天音あまねって言います! 特異課で働いてます! 今後羽宮さんを警護させてもらうこともあるかもしれないので、そのときはよろしくお願いしますね……!」


 天音の緩やかなボブはその大きい輪郭が女性的な雰囲気を彼女に持たせ、艶やかな黒髪と華奢な体格が希海を警護する様は想像しがたい。

 そんな天音の、見た目通りの柔らかい口調と言葉遣いは、希海に好印象を与えた。


「私もこの後プログラムの予定が入ってるんです。それを待ってて、そしたら局長が言う通りのとっても可愛い人が来たから、思い切って挨拶してみたんですよね……!」


 希海はこんなに愛くるしい天音がパンドラであることに驚いた。一体どんな厄災だろうか……花とかを出して戦うのだろうか。


「天音ちゃんも可愛いよ~! 私、六なんかより天音ちゃんに守られたいなぁ!」


 天音は俄かに顔を紅潮させ、素早く下を向いた。


「まあ、ああ見えて六先輩も優しいとこあるんですよ。ちょっと怖いけど……」

「ほんとにぃ? 今あいつの家に住んでんだけど、部屋は人が住んでるとは思えないくらい殺風景だわ、全く愛想が無いわ! 悪いやつらをやっつける立場なのはわかるけどさ、なんてゆーか人間味が全然無くてイラつくんだよね……」

「実は先輩、大変な思いをしてきた人なんですよ。ただでさえパンドラってだけで世間から意地悪されたり変な目で見られるのに、小さいときの出来事のせいでお母さんを亡くして塞ぎこんじゃったから……」


 天音との会話の温かい空気が損なわれるような気がして、希海はその「出来事」が何かは訊かなかった。六にも人間らしい所があるのだろうか。その冷徹な目で己の脅威を見つめ、きっと結んだ唇に鬼気を込めるかと思えば、長い睫毛だけを天に向け物憂げに俯く六の、笑った顔を希海は想像してみたが、子供が図工の時間に厚紙を貼り付けたような不器用で不自然な作り笑いが思い浮かぶばかりで、すぐに考えるのをやめた。




 抑制プログラムの処置が終わった後、十七時から希海は冥事対策機構議会に出席することになっていた。


「議会のおっさん達が希海ちゃんの顔見せろってうっさくてさ~! 局長として希海ちゃんの事とか色々報告しないといけないワケ。ま私としては可愛い希海ちゃんとデートできて嬉しいから全然いいけどねっ!」


 護送車のセダンを運転しているフランが、後部座席の希海に言った。他の業務がある六の代わりに、今日はフランが警護役も兼ねて希海を本部から三キロほど離れた議事堂に連れて行くことになったのである。


 車内ではフランの上機嫌な鼻歌がセダンのモーター音の中に微かに聞こえる。希海は研究棟での天音の、六についての言葉を反芻した。


 六は母親を亡くしたらしい。しかしそういった経験があそこまで六を無機質に変貌させるだろうか? 希海も幼い頃母親を事故で亡くしている。母との思い出は少ないが、「他人に多少の迷惑はかけていい。自分が幸せになるためには、明るく強く生きなさい」というのが母の口癖で、実際その言葉を指針にして希海は父と二人で幸せに生きてきた。だからこそ、六の過去とどこか厭世的とも思える性格との繋がりに潜む微妙な齟齬が気にならずにはいられなかった。




 冥事対策機構議事堂は本部のガラス張りの近代的な風貌と異なり、ネオ・バロック様式の石造りの外装の所々にギリシャ神殿風の装飾が見られる。高さ十メートル程の数本の列柱が埋め込まれた玄関を軸として対称的な造りになっており、両翼の建築の鼠色の壁に影を残す苔は、建立以降の歴史をありありと示していた。議事堂は背後の曇天と色を同じくし、雲間から射す一縷の金細工のような日ざしは玄関の文様を荘厳に輝かせた。議事堂は、冥界出現からの人類の闘争の歴史を、法と議論の立場から静かに語っているのである。


 朝から続く雨は未だ止まず、勢いこそ衰えたもののぽつぽつとセダンの窓を濡らしている。 セダンは議事堂前で止まった。フランが紳士的な笑みで恭しく差した傘に入り、希海は入り口へ歩いて向かった。


 議事堂前では数十名の中年から初老の人々が集まり、けたたましくデモ活動を行っていた。各々が皺だらけのチェックのシャツやスーツを着け、「パンドラが起こす事故はもういらない! パンドラの保護反対!」「政府は事故の調査と補償を!」などと書いたプラカードを掲げ、訴えを怒鳴っている。厄災の暴走の犠牲になったのだろうか、家族の遺影を持って泣き崩れる女性もいた。


 パンドラの暴走事件は年々件数を増しており、被害者の会がそこかしこに設立され、暴走を取り締まる法律の整備や強化、パンドラの日常生活に関する制限まで要求した。世論はパンドラだけではなく、甘い対応の政府にも非難の目を向け、冥対も怒りの対象として例外ではなかった。特にパンドラでありながら武器の使用が許可されており、また高給・高待遇の特別異能課職員には凄まじい憎悪が集まり、差別に苦しむ者も多い。冥界から人類を守る者たちは、その崇高な使命に反し、決して人類から快く受け入れられているわけではなかった。

 

 彼らの前を通った希海は、怒声とプラカードを叩く音に思わず背を丸くした。希海に近い中年の女性が髪を振り乱し、怒鳴り声を発するに伴い口から飛んだ唾が見えた。フランは周囲の喧騒が全く耳に入らないかのように、車中の上機嫌を保ち鼻歌を歌っている。


 すると、希海のすぐ横に居た中年の男が急に希海を指さして叫んだ。


「おい! 機動局のフランツェスカだ……あの女、特異課なんて名前をつけて化け物を集めやがって!」


 叫びを聞いたデモ隊の何人かが二人を睨みつけ、そのうちの何人かが希海に近づくように群集を押した。希海とデモ隊の間にフランの体が入る形になる。


「……あの~! この子、私の警護対象ですからぁ! もし接触するようなことがあったら、わかるね!?」


 フランがデモ隊の方を向き忠告した。その声は最前列の者達の動きを一瞬止めたが、波のように押し寄せる群集に聞こえ渡る程ではなかった。

 

 ──その時、小太りで禿頭の男が希海の後ろから走って来た。

 振り向いた希海は、驚きのあまり声すら出ない。


「うちの娘はな、パンドラに殺されたんだ! お前くらいの年だったさ! 何もしてないのに……駅で電車を待ってたら、爆発が起こって……それで……」


「…………それで、貴様の目の前の子は何が悪い?」


 フランは男を見ずに、今度は低い声で言った。希海は一瞬背筋が凍った──男の汗と鬼気を纏った顔ではなく、フランの冷たく乾燥した声色に。


 希海は完全に立ち止まり、眼前の出来事をただただ見守ることしかできなかった。

 憎悪に狂う男にはフランのそんな声も届かない。


「おい、聞いてるのかお前!」


 男は突然、希海の細い右腕を掴もうと、手を伸ばしてきた。希海は咄嗟に身をかがめ、目をつむり、その場に塞ぎこむ。


 ──その時だったのだ、男の右ひじから下がのは。


 切断されたのではない。地面に手は存在せず、男が己の体の一部の不在に気づいたのは、それが起こってから数秒後だった。

 白い肉が輝く断面に血が一滴一滴膨らみ、滑り落ちた。


「あ……ああ……お、俺の腕…………何が……」


 男は右腕の残った部分を大事そうに抱えて屈み、落ちた筈の手を探して必死に地面を見回していた。

 希海はその時、そんな男を見下すフランの右手が光り輝いているのに気を取られていた。手が発光しているのではない。金の鱗粉のような粒が夥しく手の周りに浮遊している。


 美しい。それしか言いようが無かった。


 異変に気付いた周囲がざわつきだし、引き下がった。デモ隊と希海達を隔てる空間のこちら側には、希海とフラン、そして未だに間の抜けた声で何かを呟きながら手首を探し続けている

男が残された。


 男の血に染まった右手とフランの輝く右手との対比は、どんなに美しいことだろう。

 血が噴き出した右腕を庇い地に伏す男と、金色の腕を以てそれを見下すフラン。その完璧な構図が現れた時、希海は彼女が天使に見えた。

 

「さ、静かになったし行こっか! 偉いおっさん達が待ってるぞ~」


 フランはそう言って希海の背中をポン、と軽く叩き、歩き出した。

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