第二話 予兆

 六月のある昼。すでに梅雨に入っているにも関わらず空が晴れ渡った日で、都立志島高校の生徒達は髪の毛や学生服を肌に張り付ける汗で夏の始まりを知った。


 学校の都合で授業は午前中で終わった。リュックに筆箱だけを詰め帰りの支度をする希海のぞみのもとに、仲のいい女生徒が走って嬉々とした表情で声をかけに来た。


「どうした? そんな急いでさ」


 そう聞いた希海は一方で、なんとなく理由の予想はついていた。その女生徒が息急いてこちらに迫る光景を見るのは初めてではないからだ。


「三組の川端くんからこれ、希海に渡してほしいって!」


 予想が当たった…………またこれか。希海は大きなため息をついた。折角学校が早く終わって嬉しい気持ちで帰宅できると思ったのに。受け取った手紙も読まず、希海は重い足取りで三組の教室に向かい歩き出した。


「え、希海どこ行くの? 手紙は?」


 女生徒はまだ息の調子が整っていないまま、目を丸くして希海に呼びかけた。


「ソッコーで終わらせてくるからそこで待ってて!」

 



 二人は会話の無いまま誰もいない踊り場に着いた。目が泳ぎ、嫌なほどはっきりとした緊張が顔に張り付いている川端は、下を向いたまま何も喋らない。希海も腕を組んだまま、川端が第一声を発するのを無言で待ち続けた。

 グラウンドを走る野球部の掛け声がこだまする。希海は俯き黙りこくる川端の旋毛を見ていた。


 三年生になった希海は、今学期に入ってすでに四回目の告白を受けていた。入学したての頃は純粋に嬉しかったが、あまり関係が深くない生徒からの告白が続くとさすがにうんざりする。この男子生徒も英語か何かの発表課題で、一度ペアになったくらいだった。


 川端は地蔵のように固まっている。

 希海はふと、顔を上げた川端の胸ポケットから覗くスマートフォンを見た。違和感を覚えたのはこちらから見える、拡大と収縮を繰り返すカメラレンズ。


「ちょっとまって、これ……」

 希海は川端からそれを取り上げた。川端が慌てて制止したのも遅く、希海の目には川端と他の生徒の会話の履歴が飛び込んできた。彼はその生徒に指示されて希海に告白の手紙を書いたのだった。 


 クラスの中心にいる希海は目立たない生徒とも明るく接するし、そのおかげで人望が厚いが男人気に嫉妬する者も確かに存在する。会話を見るに、どうやら成功しそうにも無い川端に告白させ、振る希海の態度を録画して校内に流布させる予定らしい。


 希海はすぐに、嫌がる川端を連れて生徒指導室に駆けこんだ。

 生徒指導室から出てきたスキンヘッドの教師は「またお前か、羽宮」と面倒そうに言ったが、例の会話の履歴を見せるとすぐPCにそのスクリーンショットをコピーし、然るべき対応を取ると約束してくれた。


 生徒指導室から出た後、川端はまた下を向いたまま、しかし目で希海を捉えて吃る。


「牧瀬さんが怒られたら僕、先生に告げ口したってバレて、またいじめられちゃうじゃないか」

「その時は私があいつにハッキリと言ってやるから。あんたやってることダサいって。行動を起こさないと君へのいじめは何も変わらないんだよ? それで傷ついたら、その時は私が相談に乗ってあげる」


 そう言って希海はぽかんと口を開ける川端を背に、リュックを取りに自分の教室に向かった。


 一部の人間が羽宮希海を嫌う理由は、純粋すぎる正義感だった。可哀想な人間を見ては、その人が可哀想な思いをしないでいいように問題を片づける。その結果起こる周りとの多少の不和を気にする程気弱ではない。そんな彼女の忖度しない態度と行動力に、しかし周囲の大多数の人間はより一層の魅力を感じるのだった。

 



 学校を後にした希海は一緒に帰る約束をした友達を大分待たせてしまったお詫びに、寄り道してケーキをおごることになった。


 カフェの入るショッピングモールは三年前に開業したばかりの六階建てで、大規模な立体駐車場が広がり、大小四十を超える数の店が所狭しとモール内に並んでいた。映画館などは何故か二つもある。極めつけは四階から短い通路を渡って入る空中庭園。吹き抜けのスペースに浮かぶそのガラス張りの庭園は、晴れた日には休憩スペースを囲んで生き生きと繁茂する熱帯植物にガラス越しの日光が降り注ぐように設計されている。

 

「それで結局、安井先生はその牧瀬って子、叱ったの?」


 ケーキが運ばれてきたとき、希海の友達の女生徒はケーキを口に運びながら言った。


「わかんない。明日にでも親に言うんじゃない? あの子の両親、二人とも医者でちゃんとしてるから厳しく怒られるんじゃないかな」


 希海は興味なさげに、運ばれてきたばかりのコーヒーに二人分のスティックシュガーを入れる。


「こう言うと希海は怒るかもしれないけどさ、あたしも同性の子に嫌われる程モテてみたいね! アメリカ生まれの金髪ハーフ、明るい振る舞いに学校一の美貌! あんた前世で一体何したのさ?」

「最近は碌でもない男しか近づいてこないけどねえ。この間連絡先交換した他校の野球部の先輩なんかさ、ホテルに誘われた挙句、入り口で嫌がる私になんて言ったと思う? 『俺が素振りするの裸で見てるだけでいいから!』って。何? どっちのバット振るつもりなんだよっての!」


 女生徒が笑いに耐えきれなくなりコーヒーを吹き出しかけ、危うく静かで洒落た雰囲気の店内に噴水が添えられるところになった。

 

 そのようなどうしようもない会話が続いた後、二人は店先で別れ、希海はモール内を少しぶらっと歩いたあと、帰宅することにした。


 希海はよく友達と複数人でよくこのショッピングモールで遊ぶ。この日は平日にも関わらず特に混んでいるようだった。恐らく六月には珍しい快晴に近い晴れで、雨の日の間外出を渋っていた人々が一斉に羽目を外しに来たのだろう。特に家族連れやカップルが多い。

 

 人混みは希海にとって嫌ではないし、むしろ新宿の人々が嬉々としてひとつの場所に集う様子を見るのが好きだった。運動部の汗と壁のポスターに大きく書かれている「凡事徹底」の標語、進路関係のプリント、大して仲の良くない友達の、無理やり顔に張り付けた笑顔……。そんな抑圧的な檻の外に風が吹き抜けるように自由で健全な世界があって、そこの住人になる資格が希海にもあることを思い出させてくれる場所が、このショッピングモールだった。


 アパレルショップが並ぶ区画を抜け、吹き抜けとなっている広場に出る。広場には観葉植物とひとつに五名程が座れるソファが複数設置されており、休憩や待ち合わせに利用できるようになっている。未来の海中都市を彷彿とさせるガラス張りの半球状の天井を見上げると、三階から六階のフロアが頭上を取り囲んでおり、それらのフロアにはエスカレーターで繋がっていた。


 ふと希海は、自分の真正面の五メートルほど先に、目出し帽を被った男がこちらを見ていることに気づいた。


 大柄のその男は六月の暑い日だというのに黒のダウンジャケットのファスナーを首まで閉めており、黒のテックフリースのズボンを履いた姿で直立不動のままこちらを見つめている。

 希海は心臓が跳ねる心地がし、思わず立ち止まった。周囲には行き交う人が大勢いるのに、目出し帽から覗く男の目は希海を二人だけの空間に引きずり込み逃がさなかった。


「あの…………何か?」


 空間から脱出しようと試み、男に訊く。


「うん、髪の色も話した通りだな。始めるぞ」


 男は呟くように言った。

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