第三話 発端

「うん、髪の色も話した通りだな。始めるぞ」

 男は呟くように言った。




 その言葉を訝しむ須臾も希海に与えず男は右のポケットから黒い塊を取り出し、希海の頭に向ける。

 それが拳銃であることは希海にも瞬時に理解できた。


 あ、やばい……!


 次の瞬間、銃声と共にふらついて倒れたのは男の方だった。脳天から血が出口を求めて流れ出す。百八十センチの体躯は空気の抜けた風船人形のようにその場に崩れた。

 一体何が起きたのか。たった今起きた起きた奇妙な出来事に気づいた周囲の人々が悲鳴をあげ、次に床に横たわる死体をみとめた人々が悲鳴を上げる。希海はというと、恐怖と混乱に言葉も発せず立ち尽くしていた。


 阿鼻叫喚の中で、すぐそばに青年が拳銃を構えながら立っているのに気づく。その銃口は希海ではなく、希海の真正面に向いていた。

「都立志島高校三年、羽宮希海か?」

 青年は希海の方を見ずに言葉を発した。

「あ……はい」

 無理に唇を動かして答えなければ、殺されると思った。


 ───悲しい目をしていた。曇った、何も訴えかける事の無い目。逃げ惑う人々の中の、こちらに銃を構えた目出し帽の数人に放つであろう銃弾に怒りも使命も込めることができない目。

 希海は青年が持っている拳銃を見つめた。その銃先より、彼の目を見る方が怖い気がしたから。

「後ろのソファ、あれに隠れていろ。跳弾が来るから顔は出すな」

 青年が落ち着いた、しかし強かな声色で言う。

「あの……」

「早く! 死にたいのか」

 怒鳴り声と青年が目出し帽のうち三人に放った銃声に希海は体をビクッと跳ねさせるやいなや、言われた通りソファの裏にかがんで身を隠した。

 

 は私の敵なのか、それとも……

 希海が逡巡している間に白いシャツに黒のスーツと紺のネクタイを纏った青年はスーツの内側から見慣れない形の刃物を取り出し、左手にハンドガン、右手に刃物といった姿になった。

 

 ──銃発以上の銃声。そして悲鳴。


 両耳を塞ぎ、頭を垂れてソファに身を隠していた希海は何が起こったかそれ以上知ることはできない。次の瞬間、希海と青年の背後、3階フロアに立っている目出し帽の仲間と思しき五人のうち、ライフルを持った男が叫んだ。

「邪魔が入った! メイタイの奴らがどっかから嗅ぎつけて来やがった! 男の方は実弾で殺せ! 女はそのまま睡眠弾で────」

 そう叫び終わる前に、男の視界は青年の刃物の刃先で覆われる。

 今、仲間に指示を出しながら敵に向かってライフルを構えたばかりでは? 俺は誰に銃口を向けてたんだ? そもそも、あいつが居るのは二階で、俺達が立っているのは三階じゃないのか?


 そのような思考が男に巡った時、すでに男の頸動脈は繋がっていなかった。首の右側面から吹き出る血潮に思わず手をあてる。仲間の四人の真っ只中に青年が飛び込んだかと思うと、彼らの首を目にも止まらぬ速さで掻き切った光景が、男の見た最後の景色となった。

 希海は青年の振るう刃物が描く変則的で優美とも言うべき軌道を、ただ呆然として目で追っていた。


 カランビット。輪から三日月形の持ち手と刃が続いており、通常その輪に親指を通して逆手で持つナイフである。

 インドネシアにおいて農具から武器に転用されたもので、刃の動きが予測されにくい点や親指の輪が武装解除を難しくしている点などに優位性がある。虎の爪を象った歪な刃先は、護身の印象を微塵も与えず、確実に獲物を死に追いやる毒のような意思を纏っている。刃を見つめている間、希海もその毒に魅せられた小動物のうちの一匹だった。

 

 青年は三階フロアから希海の隠れているソファに飛び降りると、怯える小動物に一瞥した。スーツの右肩にはついさっきまで人間だったものの返り血が付着しており、赤の雫がスーツの繊維に沈んで黒く同化していくのが希海の目に入った。

「この先にエレベーターがあるだろ。四階から立体駐車場に出て車で拾われることになってる。全力で走れよ」

 青年は周りを注意深く見回しながら言った。そしてあちこちから上がる怒号に追われ、二人は数十メートル先のエレベーターに向かい走った……。

 



 モール内にいた大勢の人混みは、巣に煙を炊かれた蜂の如く殆どが外に逃げ去り、エレベーターの乗客は二人以外に誰も居なかった。


 扉が閉まった時、希海は今さっき目の前に現れた地獄から退避する、狭い洞窟に自分が入り込んだ心地がした。


 <次にドアが開く階は 四階です>


 エレベーターが告げる。先刻のフロアに満ちた、動顛した人々の悲鳴とは何ら関連を持たない平坦な調子のアナウンスが、希海に安寧らしきものを持たせた。

 希海が膝に手をついてかがみ疾走で上がった息を整える間に、青年はスーツの内側から銃の新しいマガジンを取り出し機敏な動作でリロードする。


 密室の静寂によって正気を取り戻した希海の脳裏には、目の前で青年によって死体に変えられた人間の肉が浮かんだ。モールの無機質な床に、ライトの反射を妨げながら横たわった肉。それは希海を平穏な世界から絶望の世界に引きずり込む。希海は自分が中学生の頃、クラスで飼っていた兎が息を引き取った日を思い出した。


 冬の朝の光は、飼育小屋に敷き詰められた藁の上で命を失った兎の肉に降り注いでいた。自然に囲まれた死。そんな気がした。果たしてモールの男達の死は、あの兎の死ほど祝福されていたであっただろうか?


 そんなことを考えていると、希海の怒りの矛先は青年に向いた。

 なぜ彼はこの状況に少しも眉を顰めずに居られるのだろう。顔を見たところ大学生、いや希海と同じ高校生のようだ。全く躊躇なく敵を殺していた。しかし殺意の籠った一挙手一投足とは裏腹に、やはり青年は悲しい目をしている。


「人を何人も簡単に殺してたけど、あんたは誰なの……?」

「詳しい説明は本部に戻ってからだ。お前の保護は議会で決定した」

 青年が冷たく答える。

「保護? 私を? まず、なんで私があんな奴らに殺されそうになってるのさ?」

 青年は何も答えない。

「つか、メチャクチャ高く跳んで上の階の何人かをやっつけたよね? あのさ、人間……?」

「黙れ!」

 それまで冷静だった青年が、希海を見る目を見開き怒鳴る。委縮した希海はそれ以上何も訊かなかった。




 エレベーターが四階に着いた。ここから立体駐車場へは、ガラス張りの空中庭園を通って行く必要がある。

 このショッピングモール最大の見せ物である空中庭園では、避難した人々が落とした紙屑や中身がぶちまけられた紙コップが散乱している。熱帯の草木は踏み荒らされ、それらの背が高い事もあり、崩壊した文明の廃墟を想像させた。ガラスの天井越しに南中した太陽だけが、混乱前と変わらずに燦然と輝いていた。


 二人が庭園に足を踏み入れた時、青年が急に立ち止まり希海に言う。

「止まれ」

 急な制止を訝しむ希海は、やがてその理由を理解した。

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