エピローグ

 凍えるように寒かった長い長い冬が終わり、鮮やかな桃色の桜が咲き、うだるように暑かった夏も過ぎ、また新しい秋が来た。

 相も変わらず、コスモスは凛々しく上を向きながら僕のことを見つめていた。僕は同じようにコスモスのことを見つめながら、優しくその花弁を撫でる。

 僕はしばらく花弁を撫で、ゆっくりと立ち上がってまた歩き出した。

 僕の居場所は、もうここではない。僕はもう、羽沢詩音ではないのだから。



「ねえ。一緒にお母さんのところに行かない?」

 騒がしい式場を忘我しながら眺めていると、隣に座る千歳が口を開いた。

「僕はあとで一人で行くよ。ほら。久しぶりの邂逅なんだろう? 二人きりで話すといい」

 僕は横を向いて、隣に座る千歳の顔を見ながら言う。

「それもそうだね。じゃあ、行ってくる」

 千歳は立ち上がり、少しだけ早歩きで歩いて行った。僕はその姿を後ろから眺めていた。

 眺めていると、ふと、懐かしい曲が式場に流れた。詩音がよく歌っていた曲だ。

 この曲を最後に聴いたのは、もう一年も前のことだから、酷く懐かしく感じる。

 最後に聴いたのは、千歳から逃げたあの夜の時だ。



 夜の帳、僕は宛もなくひたすら夜道を歩き続けていた。そうしていないと、自分が自分でいられなかったからだ。

 あの日は酷く冷え込んでいたから、寒さで凍え死んでしまいそうだった。いっそのこと、そのまま死んでもいい。そう思っていた。思いながら、僕は歩き続けた。

 途中、宵闇を照らす自動販売機の明かりの前に立ち、ホットの缶コーヒーを買った。強く缶を握り締め、悴む手を温めながらまた歩き出した。

 このまま、僕はどこに向かえばいいのだろう。この世界のどこに行っても、正解なんてないように思えた。だから、僕は歩き続けた。いつか歩けなくなって倒れ込んだ場所が、正解のような気がしたからだ。

 アルコール度数の高いワインを飲んで少し酔っていたし、情けないことに僕は体力が少ない。ずっと小説ばかり書いていたからだ。

 一時間ほど歩いた頃には、その場に倒れてしまいそうだった。でも、この場所はまだ正解じゃないような気がして、倒れないように強く地面を踏み付けながら歩いた。

 歩いていると、いつの間にか握り締めていた缶コーヒーは冷めていて、僕はそれを一気に飲み干し、空になった缶を自動販売機の隣のゴミ箱に捨てて、また新しい缶コーヒーを買った。

 一体、今は何時なのだろうか。もう、僕の誕生日は終わってしまったのだろうか。

 そんなことを考えていると、遠くからあの曲が聴こえた。

 僕はその曲に吸い寄せられるように、曲が聴こえる方に歩いて行く。まるで、その曲に僕の体が吸われているみたいだった。

 詩音、詩音、詩音、詩音……。頭の中でひたすらに詩音のことを考えながら、僕は必死に歩き続けた。

 歩き続けていると、視界の先に座りながらアコースティックギターを弾いている一人の男性が目に入った。そうか。彼が歌っていたのか。

 僕は彼の目の前に立ち、崩れ落ちるように地面に座り込む。座って初めて、僕の足が限界を迎えていたことに気づいた。もう、ここから動けそうにない。

「どうしたんだい? 兄ちゃん元気ないね。まるで、うちの猫みたいだよ」

 四十代後半くらいだろうか。強いパーマがかかった髪の毛には、数本の白髪が入り交じっていて、男性の横には缶ビールが何本も置いてあった。僕が言えたことじゃないけど、こんな時間にこんなところでなにをやっているんだろう。

「いやあ、珍しいね。俺の歌なんて誰も聴こうとなんてしないのに、目の前に座ってくれる人が来るなんてねえ」

 男性は嬉しそうに、酒を飲みながら言う。

「なにか歌って欲しい曲でもあるかい? 流行りの曲はやめてくれよ。あんな派手で明るい曲は俺に似合わねえんだ」

 言い終わると、男性はまた缶ビールを口にした。飲み干したのか、男性はその缶を握り潰して横に優しく置いた。

「さっき歌っていた曲がいいです」

「最近のはやめろって言ったけど、ありゃ古すぎないかい? 兄ちゃんの世代じゃないだろう?」

 男性は困った顔を僕に向ける。

「あれがいいんです。あの曲が聴きたいんです」

「そうかい。そうかい。こんな若い兄ちゃんにも好きだなんて言われて、フレディーは嬉しいだろうね」

 言いながら、男性は缶ビールを開けてそれを勢いよく口に流し込む。一体、どれだけ酒を飲むんだ。こんな量飲んだら、普通はぶっ倒れるはずだぞ。


 ラブ・オブ・マイ・ライフ───詩音がこの世界で一番愛していた曲だ。そして、この僕も。

 囁くように優しく歌うフレディーの哀愁な声を真似て、詩音はいつも歌っていた。

 英語が分からないからと、出会った頃は鼻歌で歌っていたが、僕は必死になってその曲を探し出し、それからは二人で何度も練習をした。それ以来、詩音は鼻歌で歌うのをやめた。

 詩音が歌う姿が大好きで、喫茶店などでこの曲が流れていると、いつも風に乗る詩音の歌声を思い出す。

 そんなことを考えていると、男性はギターを弾きながら歌い出した。

 滑らかな声で、男性は一番を歌い切る。なんて美しい声なんだろう。なんて素敵な歌詞なんだろう。気づけば僕の鼓膜は歌声に虜になっていて、男性の歌う姿に釘付けになっていた。

 詩音がなんでこの曲を好きなのか、僕はなにも知らない。聞いたこともなかったし、聞こうともしなかった。

 でも、今になって疑問に思う。なんでこんなにも悲しい曲を好きになったのだろう。なんで、ずっと好きでいたのだろう。もっと明るくて、勇気づけられる曲なら分かる。この曲はむしろ、悲しくなるじゃないか。

 僕は、その答えが知りたくて仕方がなくなった。だから、僕は詩音がいる防波堤に行こうと思ったのだ。

 いつか千歳が僕のところに辿り着くまでの間、僕はその答えを探そうと思った。

 結局、その答えを知ることは出来なかったけれど。

 でも、この曲があったからこそ、あの夜、この曲を聴いたからこそ、僕は僕でいられることになったのだ。



 気づけば曲は終わっていて、違う曲が流れ出していた。あの男性が嫌がるような、やけに明るい曲だった。最近の曲だろうか。

 僕はまた、忘我して式場を眺めていた。遠くに見える千歳は、楽しそうにお義母さんと話していた。僕はそれが嬉しくて、釣られて笑ってしまった。

 そんな時、遠くから僕の名前を呼ぶ声が微かに聞こえた。

 僕は式場を見渡すが、誰も僕のことを呼んだようには見えなかった。気のせいだったのだろうか。

 それでも、今度はハッキリと。何度も聞いたあの声で、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。


 好きな人のことを、人は五感の中で最初に声を忘れるらしい。だが、僕はこの声を忘れるはずがない。ずっと、求め続けた声だから。この先も、ずっと忘れるはずがないのだ。


 詩音───来てくれたんだね。

 来てくれてありがとう。僕と出会ってくれてありがとう。ずっと傍で笑っていてくれてありがとう。

 君がいたおかげで千歳と出会えたよ。君がいたから、僕は幸せになれたよ。

 今の僕はしっかり笑えているかな。ちゃんと前を向けているかな。まだ心配させているかな。

 君の声をもっと聞きたい。優しい声で、僕の名前を何度も呼んで欲しい。隣で歌い続けて欲しい。大きく笑った顔が見たい。君に会いたくて堪らないんだ。

 でも、今はまだ我慢するよ。いつか君に会える日まで、この思いに蓋をすることにするよ。

 もう、未来を捨てて会いに行こうだなんてしないから。

 だから、その日まで情けない僕を見て笑っていて欲しい。遠いところから、僕を叱って欲しい。そして、会えた時には笑いながら僕を慰めて欲しい。

 約束して欲しい。また、小説を書くから。今度はちゃんと約束を守るから……。


 ───そうだ。言い忘れていたけど、君がいなくなって今日でちょうど一年が経ったよ。

 ほら。また、君が好きだと言っていた季節だ。君が優しく撫でていたコスモスが香る、あの季節だ。

 君の代わりに、僕が撫でてあげたよ。



 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの波の声が聞こえるかい 春木ゆたか @harukiyutaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ