最終話 初恋
詩音と初めて出会ったのは、僕がまだ齢十二の時だった。あの頃の僕は、どこにでもいるただの早熟な子供だった。
あの日、橙色に染まった夕空の下を意味もなく散歩をしていた僕は、この小さな町に引っ越して来たばかりの詩音を見つけた。
家に挨拶に来ていた時に一度だけ見たきりだったが、僕はその姿をよく覚えていた。あまりにも容姿が整っていたからだ。
詩音の近くまで歩くと、滑るように透き通った鼻歌が鼓膜に届いた。
詩音は、防波堤に座りながら鼻歌を歌っていた。
しばらく詩音の鼻歌を聴いていたが、詩音は僕の気配に気づくことはなかった。いや、気づいていたけど、僕になんて目もくれずに歌っていただけなのかもしれない。
「それってなんの歌?」
歌う詩音に、僕は無意識に問いかけていた。
「……なんだっけ。忘れちゃった」
詩音は振り返りもせず、背を向けたまま答える。答え終わると、また鼻歌を歌い出した。
あまりにも詩音の歌声が心地よく、気づけば、僕は我を忘れて聴き入っていた。
このまま、時間が止まってしまえばいい。時が止まった世界線で、詩音の鼻歌だけをひたすらに聴いていたい。この時の僕は、純粋にそう思った。
「君、名前は?」
歌うのをやめたと思ったら、詩音は海を見つめたまま言った。
「諏訪詠」
挨拶に来た時、自己紹介をした気がするが、忘れてしまったのだろうか。なんだか少しだけ残念に思えた。
「変わった名前だね」
「よく言われるよ」
「いくつなの?」
「十二歳」
答え終わると、詩音はまた思い出したように歌い出した。僕は黙って耳を澄ましていた。本当は一緒に歌いたかったが、生憎、僕はこの曲を知らなかった。一体、誰の曲なんだろう。最近の曲ではなさそうだ。
そんなことを考えていると、歌い終わったのか、詩音は鼻歌をやめた。それから数秒の沈黙のあと、詩音は体ごと振り返った。
「羽沢詩音。私も変わった名前でしょう?」
うだるように暑い灼熱の太陽に照らされて、宝石のように白く光る八重歯を見せて、満足気に微笑みながら、詩音は言った。
詩音の姿を見て、僕の心臓は早鐘を打つ。生まれて初めて心臓の音を聞いた気がする。
「歳は?」
「この間十七歳になったよ」
「いいなあ。高校生って」
「どうして?」
「大人だから」
幼い子供がなにかに憧れるように、この時の僕は大人というものに酷く恋焦がれていた。
「でも、残念ながら私は高校生でも大人でもないよ」
笑っているよりは泣いているような笑顔を見せて、詩音はそんな言葉を零す。
───初恋だった。
この時はまだ、詩音が発した言葉の意味をほとんど理解出来ていなかったけれど。
その笑顔を見て、僕は恋に落ちたのだ。それが恋だと知るのは、随分先の話なのだけれど。
叶うことなく無様に散ってしまった、狭量で儚い想いだけれど。
早熟な子供だった僕の幼心に、詩音は恋を教えてくれたのだ。
それから、僕たちは毎日のように防波堤に並んで座って時を過ごした。
僕は波を眺めながら詩音の鼻歌に耳を澄ませていて、詩音は時々僕の方を見ては、ひたすら歌い続けた。
時には浜辺に行ったり、町中を探検したり。今となっては恥ずかしくなるくらい些末なことで喧嘩したり。僕たちは、気づけば姉弟のような関係になっていた。
出会った頃は、詩音のことを詩音お姉ちゃんと呼んでいたが、出会って二年が立つ頃には、詩音と呼び捨てで呼ぶようになった。
そして、出会って四年。詩音と出会ってから四回目の冬の寒さが頂点を極めた頃、僕は詩音が病気だと知った。
その頃には、詩音の体があまりよくないということには薄々気づいていたが、これほどまでに重い病気だということは知らなかった。
その頃から、詩音は入退院を繰り返す生活になり、僕は毎日のように、学校終わりに詩音がいる病室に行くようになった。
病室に入ると詩音はいつも本を読んでいて、その日に読んだ本の内容を饒舌に語ってくれた。僕が千歳にそうしたように。
町には小さな図書館があって、詩音は親に頼んで、いつもその図書館にある本を借りてきてもらっていた。
ただ、そんな生活を続けていたある日、詩音はこんなことを言った。
「図書館の本もほとんど読んじゃった。読む本がなくなった時、私はどうやって毎日を過ごせばいいんだろう」
詩音は少しだけ悲しそうに、それでも強がりに笑ってそう言った。
「物語の数があるだけ、私は生きられるような気がする。なくなったら、私もいなくなっちゃうのかもしれない。怖いの。なくなってしまう未来が」
淡々と言う詩音を、僕は見ていられなかった。それくらいに悲哀だったのだ。
でも、
「じゃあ、僕が小説を書くよ。詩音が退屈にならないように、詩音がいなくならないように。僕が物語を作るよ」
僕は真っ直ぐに詩音を見つめ、胸を張って言った。詩音は目を逸らし、窓の外を見る。
「約束する。君を一人にさせないって」
詩音は窓の外を見つめたまま、三回ほど吃逆をした。
「本当に?」
「嘘なんてつかないよ」
この時の僕はまだ、自分が小説を書けなくなってしまう未来なんて想像出来なかった。出来るはずがなかった。それくらいに僕は子供だったのかもしれない。疑うことを知らなくて、なにもかも全てを信じてしまうほど、僕は子供だったのだ。
「ねえ。詠。海が綺麗だよ」
詩音は掠れた声で言う。
「そこからじゃ海は見えないよ」
「じゃあ、なんで私の瞳に水が映ってるの?」
詩音は背を向けたまま、何度も鼻を強く啜る。
「詩音。僕を見て」
言うと、詩音は振り返り、じっと僕のことを見つめる。詩音の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
「僕が海の中に沈んでいるだろう?」
詩音は小さく頷く。
「じゃあ、僕の瞳を見て。君も海に沈んでいるだろう?」
僕は詩音の肩を両手で優しく掴みながら続ける。
「ほら。言っただろう? 僕は君を一人にさせないって。君にとって僕はただの子供だけど、君を一人にさせないことくらいは出来る。だから、僕を見て」
それから何分間、僕たちは見つめ合っていたのだろうか。時の流れは愚か、瞬きをすることも忘れ、僕たちはお互いを見つめ合った。そうすることしか出来なかったのだ。僕が子供であるように、詩音もまた、大人ではなかったからだ。
その日から、僕はひたすら小説を書き続けた。小説を書いている時だけが、詩音と一緒になれた気がしたからだ。
書き終わったら、早急に病室にいる詩音に見せて、読み終わる頃までに、僕はまた小説を書いた。
それを繰り返していたある日、詩音の提案で、僕が書いた小説を新人賞に応募することになる。初めての応募は情けないことに一次選考落ちだったが、翌年、僕は見事プロの小説家になったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます