第21話 僕の名前で呼んで

「これ見てください」

 言いながら、優は小説を差し出す。見覚えのある本だった。なんたって、それは諏訪詠のデビュー作『鈍色の結婚』だった。

「この小説の主人公、東伊豆町の唯一の喫茶店の隣に住んでいるという設定なんですけど、諏訪詠はこの場所にいるんじゃないでしょうか?」

 私は相も変わらずホットコーヒーを飲みながら、優の話を聞いていた。

「そんな上手い話ある?」

「勝手な推理なんで絶対とは言いきれません。でも、不可思議なことがあったんです。なぜ、見られたらバレてしまうかもしれない携帯を置いてトイレに行ったんでしょうか。パスワードだって適当に決めた数字でよかったはずです」

 優は真剣な顔をして続ける。優もこんな顔をするのか。

「多分、彼は気づいて欲しかったんだと思います。自分で嘘だと言うのは怖かったから、先輩に気づいて欲しかったんですよ」

「じゃあ、なんで私の前から逃げたの?」

「小説を読んで欲しかったんですよ。直接、先輩に伝えられなかった思いが書かれているはずです」

 優が言ってることは、それなりに理解出来る。

 ただ、まだどこまで合っているかは分からない。でも、どちらにしろ最後まで読まなければいけない。そんな気がしていた。だから……。

「分かった。じゃあ、今からそこに行く」

「今からですか?」

「うん。出来るだけ早く清算した方がいいでしょう? それに、もう一人は嫌だから」

 優は納得いかないような顔をしながら、私を見つめていた。そんな険しい顔をしてどうしたのだろう。

「……先輩」

「どうしたの?」

 真剣な顔をする優に、私は首を横に傾げる。

「久しぶりに先輩に呼び出された時、僕は嬉しかったんです。形はどうであれ、頼られることが嬉しくて堪りませんでした」

 黙ったままの私に、優は続ける。


「好きです。先輩。ずっと先輩のことだけが好きでした。だから、帰ってきた時には笑ってください」


 優の心臓の音が、吐き出した言葉と共に私の鼓膜にも届いた気がした。

 こんな時、私はなんて言葉をかけたらいいのだろうか。ありがとう? ごめんね?

 いや違う。こんな時、彼だったらこう言うはずだ。

「もちろん!」

 精一杯に笑って見せて。私は、元気よく言った。そのまま私は優の元を離れ、飛び乗るように新幹線に乗った。


 新幹線の中で、ひたすら小説を読んでいた。

 残りのフォルダには、私と過した数ヶ月間を鮮明に書かれていた。

 読んでいると、いつの間にか静岡県に入っていた。

 浜松駅で降りて、『MARIA』という名前の駅前にある喫茶店に入った。私の母の名前と同じだ。

 小説はまだ少しだけ読み終えていない。ちゃんと読み終わってから彼に会おう。そう思った。

 それに、私は少しだけ緊張しているようだった。だから、いつもと同じように心の準備が必要だったから、心を落ち着かせる為に喫茶店に入った。

 彼は、優が言っていた場所にいるのだろうか。読みながら、私は少しだけ不安になっていた。

 でも、一パーセントでもそこに彼がいるかもしれないのなら、会いに行く価値はある。益体のない時間も、そこに意味が出来る。飛び出すように静岡に向かった理由なんてそれだけだ。それ以外になにもいらない。


 小説を全て読み終え、時刻を確認すると午後四時を過ぎていた。

 冷め切った無糖のホットコーヒーを口に注ぐ。飲み終え、空になったカップを捨てて店を出る。

 駅に行き、電車に揺られながら東伊豆町に向かった。

 改札を出て、ただ一心に喫茶店ではなく、海を目指して歩いた。

 なんの根拠も確信もないけれど、そこに彼がいる気がした。そう思うだけで十分だった。

 風が出始め、頬は冷たくなっていった。

 歩くスピードが、徐々に早くなっている気がした。早く彼に会いたかったのだろう。

 防波堤の前に立つと、静かに流れる波の音で鼓膜が癒された。

 潮の匂いをこんなに近くで嗅いだのは初めてだ。彼の心が落ち着いたように、私も、この匂いを嗅いでいると不思議と心が安らぐことを知った。


「よくここが分かったね」


 しばらく眺めていると、後ろからそんな言葉が届いた。何度も聞いた彼の声だ。

 私はゆっくりと体ごと振り返って、口を開く。

「小説読んだから」

 不思議と私の心は落ち着いていた。心の準備をしたからじゃない。彼の顔を見て、傷だらけになった心が癒えたからだ。

「そっか……」

 彼の朧気な声が、なんだか寂しかった。

「窓の外を見ていたら、見覚えのある後ろ姿が目に入って追って来た。ごめんね。嘘をついて」

「ううん。いいの」

 私は大袈裟に首を振る。謝らなくていいのに。そもそも怒ってなんかいないのだから。

 私だって、最初に会社員だなんて嘘をついた。お互い様だ。彼に謝られる筋合いはない。

「そうだ。この近くに詩音の墓があるんだ。一緒に来てくれないか?」



 私たちは足を止め、羽沢詩音と刻まれた墓石の前に立つ。

「不思議な人だった」

 彼は言いながら、途中で買った花を慣れた手つきで添える。カーネーションとアイリスを何本も束ねた花束だった。風に乗って、その花の香りが鼻に付く。

「恋人だったの?」

「いや。僕たちは家族みたいな存在だったし、詩音は僕のことを男だなんて思わなかったんじゃないかな」

 彼は花を見つめながら言う。彼女のことも、こんな瞳で見つめていたのだろうか。

「彼女に会ってみたかった」

 切実な思いだった。

 幼い頃、誰しもがヒーローやお姫様に憧れるように、サッカーを始めた人間がプロのサッカー選手に焦がれるように、迷いも嘘もない本懐だった。

「詩音に会わせてやりたかった」

 言いながら、彼は私の瞳を見つめ、悲しさと寂しさを綯い交ぜにした笑顔を見せる。


「ねえ。千歳。僕の名前を……」

 彼は唇を噛む。どうして言葉を途中で止めたんだろう。私はそんな疑問を抱く。

 すると、


「千歳。僕の名前で呼んで」


 雲一つない青空のように、迷いない澄んだ瞳だった。この先の未来、全てを信じているようなそんな瞳だった。


「……詠さん……諏訪詠さん」

 私は、囁くように最愛の人の名前を口にした。

 その言葉を聞いて、彼の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。鏡花水月のような涙だった。

 彼の瞳から零れ落ちるその涙が、私たちの足元で咲くシンビジウムの花弁に触れる。

「……うん」

 彼は、私が告げた言葉を噛みしめるように、何度も頷きながら嬉しそうに笑う。

 私はなにも言わず、笑いながら彼を見つめていた。

 その凛とした瞳が私は好きだ。風に靡く髪も、少し甘い匂いも、透き通った声も、仕草も全てが好きだ。その涙さえも愛おしく思える。彼の痛みでさえ、私は愛してしまう。


 始まってしまえば、いつかは終わってしまう世界だから。

 壊してしまったら、もう元には戻らない世界だから。

 例えば、この先、彼とそんな世界を二人で歩めるのなら。

 何度でも彼の名前を呼ぶことを赦されるのなら。

 きっと、私たちは誰よりも幸せになれるのだ。


 私は、コスモスの刺繍が入った洗い立てのハンカチを彼に差し出す。それを受け取り、恥ずかしそうに涙を拭う彼を横目に、涙で濡れた花を見つめていた。

 それから、私たちは手を繋いで浜辺に向かて歩いた。沈丁花が香り始めたらまた会いに来るよ。別れ際、彼はそんな約束を彼女としていた。

 浜辺に向かう途中、私たちは意味もなく向き合って笑ったりしながら、羽沢詩音が愛した海に、私たちは真っ直ぐ歩いて行った。

 もう二度と離れないように、私は彼の手を彼は私の手を、強く握った。

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