第20話 泣いてもいいと
「ねえ。死後の世界ってあると思う?」
ベッドの上で、天井を眺めながら詩音は言う。
「さあね」
僕も詩音と同じように、天井を見上げた。最後まで詩音と同じ景色を見ていたかったからだ。
「でも、あるんじゃないのか?」
「そっか……そうだといいな」
「なんで?」
言うと、詩音は深く深呼吸をした。
「特に理由はないんだけどね」
苦しそうに言葉を紡ぐ詩音に目を向ける。やっぱり、同じ景色を見るより、詩音の顔を目に焼き付けたかった。
「ねえ。私って、なんで病気になっちゃったんだろう。前世でなにか悪いことでもしたのかな」
「いくら前世でも、詩音がそんなことするとは思えないよ」
「じゃあ、なんでなんだろう。病気にかからなかったらさ、私はもっと幸せになれたのかな」
普段だったら、こんな話なんて聞きたくなくて、すぐに話を逸らすはずなのに。なにかを覚悟したような詩音の瞳を見たせいだろうか。僕は話を逸らすことなんてしようと思わなかった。
「ねえ。顔を見せて」
詩音は僕の頬に手を当てる。温もりはなかった。
「泣いてもいいんだよ」
そう言って、崩れ落ちるように詩音は目を閉じた。
「詩音……」
無意識に詩音のことを呼んでいたが、僕がその言葉を口にする時、詩音はもうこの世界にはいなかった。
「詩音……! 詩音……!」
詩音のいない世界で、僕はひたすらその名前を叫び続けた。
詩音が亡くなったのは、東京に訪れた日から数日後のことだった。
あまりにも呆気なく、詩音は旅立った。
詩音は、最後まで雪が舞うように美しい笑顔を見せながら、僕の掌から零れ落ちていった。
人が死ぬ時、体重が二十一グラムばかり軽くなるというけれど、詩音の体も僕の心も何十倍もずっと重かった。鉛にでもなったかのようだった。重すぎて立っていられなかった。
そんなどんよりとした空気の中、僕は詩音を見つめながら佇んでいた。
この世界に流れる秒針は、相も変わらずあまりにも穏やかで、僕を狂わせる。
どんなに偉くても、どんなに賢くてもみんな同じスピードで進んでいるはずなのに、僕だけがこの場所に取り残されたみたいだった。
人はこんなにも簡単に死んでいく。こんなにも静かに消えていく。降り積もった雪も静かに溶けていく。雨に濡れた地面も、いつの間にか乾いている。
不思議と涙は出なかった。いや、違う。僕は堪えていた。
ここで泣いてしまえば、詩音はまた笑う。それだけはどうしても嫌だった。詩音が赦してくれても、それだけは嫌だったのだ。
僕は乱暴にドアを開けて、取り残された病室から逃げるように飛び出して、海に向かって息を切らして走った。
海に行けば、また詩音に会える気がして。
詩音はいつまでもこの場所にいる気がして。
毎晩のように、荒れ狂う波の音を聞きながら、防波堤の前で詩音を思っていた。
そうすることで、僕は僕でいられたのだ。
この夜もそうだった。
久しぶりに電源を入れた携帯から、うるさいくらいの着信音が聞こえた。
その音が、僕を現実に無理やり引き戻す。
出ようか迷ったが、コール音を聞いているうちに、無意識に僕は電話に出ていた。
「どちら様ですか?」
自分でも驚くくらい低く、恐ろしいくらいに太い声だった。
「あ、あの。羽沢詩音さんですか? 私、この間助けてもらった真田千歳です」
携帯の奥から、透き通った懐かしい声が聞こえる。
一瞬、間違い電話かと思ったが、その声と名前を聞いて思い出す。そうか。千歳か。
「……ああ。どうも」
少し素っ気なく返す。
「すみません。お仕事中でしたか?」
「いえ。今日は休みです」
本当は仕事なんてしていないけど、無職だなんて知られるのは腑に落ちない。まあ、もうこれくらいの嘘なんて大したことないだろう。
「そうなんですね。あの……今日、もしよかったらこの間約束したお食事に行きたいんですけど」
あの日のことを思い出す。
そういえば、そんな約束をしていたっけ。ああ。あの時の僕は本当にどうかしていた。その場の勢いやノリでやり過ごして生まれるものは、後悔だけなんだと、この時初めて知った。
「このあと、一緒にお食事に行きませんか?」
その言葉を聞いて、なぜか頭に詩音の顔が浮かんだ。そのせいか、僕は返答に戸惑う。
「いいですよ」
でも、少しの沈黙のあと、僕はこう答えた。
「ありがとうございます。では、中目黒駅東口に七時半でも大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫ですよ。お店はどうしますか?」
「駅の近くに行きつけの居酒屋があるんですけど、そこでも大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。どんなお店か楽しみです。それでは、三時間後にまた」
「はい。また」
正直、僕の体は乗り気じゃない。それが嘘偽りない本懐だ。
ただ、こんな生活を送ってる場合でもない。
少しくらい、気分転換にいいだろう。そんな不明瞭な気持ちで、僕は彼女の誘いに同意した。それに、約束を破るわけにもいかないし。
交通費は大分高いけど、有り余った金を使う機会もない。
どうせ一度きりだ。今日くらいなにも考えずに行こう。
そして、これが終わったら僕は死のう。
荒れ狂う波に乗って、詩音に会いに行こう。
もう、詩音に寂しい思いはさせたくない。僕が幸せにしたい。僕が幸せにしなければいけないのだ。
ひたすら詩音のことを考えながら、僕は新幹線に乗った。
東京に辿り着くまでの間、僕は小説を書き続けたが、納得いかなくて全てデータごと消した。やっぱり、届ける相手がいないから物語が浮かばない。
僕が小説を書けなくなったのはあの日からだ。
詩音の余命を知ったあの日、僕は小説を書けなくなった。
この世界で唯一、僕の小説を愛してくれる人。人が人を愛するように、僕の小説を愛してくれる詩音の余命を知って、僕は小説を書く意味がなくなった。
僕の物語が詩音に届かないのなら、書き続ける意味がないからだ。小説を書けなくなった理由なんて、ただそれだけだ。
「真田さん……?」
下を向く千歳に、僕は話しかける。
千歳は反射的に顔を上げる。今日は無視しないのか。あれはたまたまだったのか。
「羽沢詩音です」
偽名を使うのは変な気分だったが、自分が詩音になれた気がして嬉しくもあった。
「え……」
千歳は訝しんだ目をしていた。
そういえば、この間はコンタクトが外れていたんだっけ。
突然こんな背の高い男に話しかけられたら、そりゃ驚くか。無理もない。
ただ、こうして千歳をよく見ると、整った容姿に改めて気づく。
相変わらず酷く痩せているけど、高い鼻にくっきりとした二重の双眸。
ここまで美しい女性を見るのは、詩音以外で初めてかもしれない。
でも、やっぱりどこか詩音に似ている。
「どうしましたか?」
なにも言わない千歳に告げる。
「あ、すみません。お久しぶりです。真田千歳です」
慌てるように千歳は早口で言う。
「こちらこそお久しぶりです」
「お店はもう予約してあるので。それでは行きましょうか」
それから、千歳の行きつけだという小洒落た居酒屋で、僕たちは夜を共に過ごした。
店内には、聞き覚えのあるクラシック音楽が流れていた。確か、ショパンのノクターン第二番だっけ。中学生の頃に亡くなった父がよく聴いていた曲だ。
僕は子供の頃、大学生という人間は、クラシック音楽が流れる小洒落た喫茶店で、共通の趣味を持った人間と政治について語り合ったり、アルコールに溺れる退廃的な生活を送ったり。そんな想像を抱いていた。
無論、思い描いていたものとはほど遠く、酷く健全で堅実な大学生活だったのだけれど。
この曲を聴いていると、大人に恋焦がれていたあの頃を思い出す。
心を撫でるように流れるその音楽が、僕を慰めてくれているようだった。詩音に慰められているような気分だった。
アルコールが回ったせいなのか、僕は泣きたくなった。泣いてしまいそうだった。
ただ、こんなところで泣いてる場合じゃない。
僕は強く、唇を噛み締めた。口内を駆け巡る血の味がやけに濃かった。僕は、それをビールで胃に流し込んだ。冷たく冷えたビールが、暖房で温まった体温をグッと下げる。
僕はお酒に強い方じゃない。好きでもないのに頼んだのは、やっぱりこの痛みを少しでも忘れたかったからなんだと思う。感傷的になって、余計に考えてしまうのに。
お酒を飲みたかったというより、アルコールで痛みを麻痺させたかった。そうなって欲しかった。
その祈りが天に届いたのか、気づけば僕はこの時間を楽しんでいた。多分、ちゃんと笑えていた。
笑顔で話を聞く千歳の姿が詩音と重なるから、僕はきっと、心から笑えたんだと思う。
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