第19話 私には彼がいないと

 久しぶりに訪れた東京は、静岡より少しだけ温かかった。人口密度のせいか、少しばかり酸素も薄い気がした。


 東京駅で新幹線を降り、僕たちは詩音の希望で、最初は東京スカイツリーへ向かった。

 六百三十四メートルの高さを誇る世界一の電波塔である東京スカイツリーは、間近で見るとより圧倒される大きさだった。学生時代、二年ほど吉祥寺に住んでいたが、東京スカイツリーをこんなにも間近で見るのは初めてだった。

 スカイツリーを見る詩音の瞳は宝石のように輝いていたし、いつもより笑顔が多かった。まるで、買ってもらったばかりのおもちゃで遊ぶ子供のように、輝く瞳でスカイツリーに釘付けになっていた。詩音がスカイツリーに釘付けになるように、僕は詩音ばかりを見ていた。

 それから、新宿や渋谷や表参道を宛もなく歩き回ったあと、吉祥寺に向い、それから中目黒にある美術館に行った。

 車椅子を押し続け疲れているはずなのに、不思議と体は正常だった。きっと、疲労を忘れるくらい僕も純粋に楽しんでいたんだと思う。

 見慣れた町に見慣れた景色。そんな場所でイレギュラーのない日々を送っていたから、僕たち二人にとって、この旅は新鮮だったのだ。

 気づけば、時の流れを忘れていた。



 道端に咲くコスモスの花が、僕たちを見ていた。なにか言いたそうな顔で、僕たちを眺めていた。

 僕も黙ってコスモスを見つめる。なにか言おうかと思ったが、なにを言っていいのか分からなくて黙ったままだった。

 時刻は午後四時。空の色が、少しだけ橙色に変わっていた。

 穏やかに吹く風が、コスモスの匂いを連れてくる。

 詩音は、コスモスの花弁を腫れものに触るように優しく撫でていた。

 僕は携帯を手に取り、カメラアプリを開く。それに気づいた詩音は、僕の顔を見て優しく微笑む。

 悲しいくらいに笑う詩音の姿を、コスモスの花を背景に、僕は一枚の写真を撮った。

 それが、最初で最後の詩音を写した写真になることなんて知らずに、僕は静かにシャッターを切った。

 聖セバスティアヌスの体に矢を射られた姿の絵画のように、写真の中の詩音は哀愁だった。



 それから、僕たちは中目黒駅の近くにある喫茶店に入って、他愛もない話をひたすらした。

 洒落たマグカップに入ったミルク感の強いカフェラテを頼み、僕たちは何十分も雑談をした。

 途中、何度も苦しそうに咳をする詩音を見て、僕は現実を思い出す。

 こんなにも素敵で、こんなにも楽しそうに笑う詩音がもうすぐ死ぬ。

 この世界はなんて残酷なんだろう。

 こんな世界じゃ、誰も幸せになるはずがない。まるで、幸せになることを赦されていないみたいだ。

 僕は涙を堪えた。ここで泣いてしまったら、詩音はきっとまた笑う。

 そうだ。僕が弱くて脆いから詩音は笑うのだ。泣いてしまったら、詩音は強がりの笑顔しか見せてくれない。僕が強くならなきゃいけないんだ。泣いてはいけないんだ。泣いては……。


「ねえ。聞いてる?」

「……ごめん。なんだっけ?」

 少し考え過ぎていたようだ。完全に忘我していた。それで、一体、なんの話しをしていたんだっけ? スカイツリーの話だろうか。いや、それはもう随分前に終わった気がする。

「だーかーらー。あそこ見て」

 詩音は窓の外に向かって人差し指を指す。

 指の先には、一人の女性が蹲っていた。

「さっきからずっとなの。どうしたんだろう」

 詩音は心配そうな顔をする。

「さあ。具合でも悪いんじゃないのか?」

「……なんでそんな無神経なの!」

 突然の大きな声に、僕の体はびっくりして固まる。金縛りにでもあったみたいだった。なったことなんてないけれど。

「ちょっと待ってて」

「おい。なにをするつもりだ?」

「あの人のところに行くだけだよ」

「馬鹿言うな。君は車椅子だろう?」

 詩音は顔を歪めた。詩音のこんな顔を見るのは、この時が初めてだったのかもしれない。

「じゃあ、詠が代わりに行って」

「はあ?」

 思わず声が裏返る。

「この体じゃどうしようも出来ないから。お願い。困っている人を放っておけない」

 迷いのない、真っ直ぐに未来だけを見つめる瞳を僕に向ける。ああ。またこの目だ。詩音はいつだって前だけを見ていた。自分が死ぬことなんて分かっているのに、明日の楽しみだけを数えていた。僕は、今日のことを考えるだけで精一杯なのに。いつだって過去に縛られたままなのに。

「……分かったよ」

 これ以上反論したら、詩音はあの体で本気で彼女の元へ向かうだろう。不承不承だが、詩音の押しに負けて彼女の元へ向かった。

 なんで、僕がこんなことをしなければいけないんだ。なんてことを考えながら溜め息を零し、僕は店を出て、彼女の方に向かってゆっくりと歩いていった。



「大丈夫ですか?」

 彼女に向かって吐き出したその言葉に、返答はなかった。

 声をかけてあげたのに、無視とはいい度胸じゃないか。僕は苛々を隠すように、頭を強引に掻く。そして、もう一度。

「あの……体調でも悪いんですか?」

 彼女は振り返るだけで、これもまた無視だった。

 酷く腹が立ったし、このまま帰ってしまおうかと思った。でも、少しムキになって僕は続ける。

「膝から血が出ていますけど……」

 視界の先にある血で紅く染まった彼女の膝小僧は、昔詩音と一緒に見た映画に出てくるゾンビのようにグロデスクだった。見続けると吐き気がするほどだ。

「救急車呼びましょうか?」

 そろそろ答えてくれよ。僕の優しさをなんだと思っているんだ。そう思っていた。

 すると、

「あ、いえ。大丈夫です。少し転んだだけですので」

 やっと開いた口から、穏やかな声が滑り落ちるように鼓膜に届く。

 言いながら、彼女は立ち上がった。でも、足下は覚束なく、彼女の体は前に倒れそうになる。

「危なかった。駄目ですよ。無理しちゃ」

 僕はそれにいち早く気づき、反射的に彼女の華奢な体躯を支えた。女性の体って、こんなに軽いのか。まるで重さを感じない。

「これ使ってください。そのヒールじゃまともに歩けないでしょう」

 僕は履いてた白いスニーカーを脱ぎ、それを彼女に差し出す。今日の為に買った新品のスニーカーだが、まあこんなものまた買えばいいか。

 彼女は目を細めて、睨むようにそれを見つめていた。

「どうかしましたか?」

「コンタクトが外れてしまって……」

 風が吹き、彼女の長いブラウンの髪が靡かれる。

「不運ですね。あの、これ僕の靴です。サイズは大きいと思いますけど、そのヒールで歩くよりは幾分マシなはずです。よかったら使ってください」

「でも……」

「僕は大丈夫ですから。ほら」

 半ば強引にだが、彼女はそれを受け取った。見るからにブカブカだったが、折れたヒールよりはマシだろう。

「あ、あとこれ」

 言いながら、僕は財布から二枚の一万円札を取り出す。

 僕は、諭吉さんが見えるように彼女にそれを渡した。

「タクシーを呼ぶのでちょっと待っていてくださいね」

 彼女はなにかを言いたそうな顔をしていたが、僕は携帯を取りだしてタクシーを呼んだ。


 携帯をポケットにしまった僕の姿を見て、彼女は口を開く。

「これってお金ですよね? こんなお金受け取れません」

「タクシー代と、ヒール代に使ってください」

「いくらなんでもそれは……」

「それと、余ったお金で美味しいものでも食べてください。失礼を承知で聞きますけど、あなたあまり栄養価の高い食事をしてないでしょう? 野菜もお肉も白いご飯も。ちゃんと食べなきゃ駄目ですよ。気づかないうちに体は壊れていますから。痩躯な僕が言えたことじゃないですけど、しっかり食べてください」

 詩音のように骨ばった細い手に、目の下の酷い隈、少し青ざめた唇。

 彼女のことなんてなにも知らないが、不摂生な生活を送っていることはその姿を見るだけで十分に分かる。せっかくの美人が台無しだ。まあ、僕が言えたことじゃないけれど。でも、言い訳をさせて欲しい。僕はいくら食べても太らない体質なんだ。これでも食べるのが大好きで、毎日ちゃんと三食食べているのだ。

「でも……」

「じゃあ、僕はこれで」

 彼女の言葉を遮るように、僕は背を向ける。早く戻って詩音と話がしたかったのだ。

 刹那、後ろから彼女の叫ぶように大きな声が聞こえた。

「あの!」

 驚いて肩が上下したあと、僕は反射的に振り返る。

「どうしました?」

「いくらなんでも二万円は多過ぎます。なので、余ったお金で今度、一緒にお食事に行きませんか?」

 その言葉を聞いて、なぜか僕は笑った。失礼だと分かっていても堪えられなかった。

 不思議な人だと思った。こんなにも世界を拒絶しているかのように美しい声を持っているのに、この世界に満足していないかのように寂寞とした顔をしていて。ありえないほどの不運の中、初対面の僕を食事に誘うなんて。僕が言えたことじゃないけど、変わった人だと思った。

 やっぱり、僕は少し変わった人が好きなのかもしれない。そうに違いない。だって、僕も変わり者だから。

「ああ。ごめんなさい。面白い人ですね」

 込み上げてきた笑いが少し落ち着いたあと、慌てて謝る。悪いとはこれっぽっちも思っていないが、反射的に謝った。

「いいですよ。行きましょうか」

 微笑みながら、僕は淡々と言った。

 こんなにも自然に笑顔を作れたのは、これが久しぶりだったのかもしれない。

「では、連絡先でも交換しておきましょうか。一度かけるので、電話番号教えてください」

「あ、えっと……私、携帯持っていなくて」

「そうなんですか? それならちょっと待ってください」

 こんなご時世に携帯を持っていないだなんて、子供でも少ないはずなのに。本当におかしな人だ。でも、そういうところも嫌いじゃない。

 僕は、ポケットからメモ用紙とボールペンを取り出す。普段から持ち歩いていてよかった。

「はい。これ、僕の電話番号です」

「ありがとうございます」

「じゃあ、僕はこれで。気をつけて帰ってくださいね」

「あの! お名前は……」

 その言葉を聞いて、真っ先に脳裏に浮かんだのは詩音の顔だった。海を見つめる、寒さに弱い詩音の妖麗な横顔だった。

 彼女が少しだけ詩音に似ていたからだろうか。それとも、詩音に会いたくて仕方がなかったからだろうか。

 もし、僕が一人でこの街に訪れていたとしたら、彼女のことなんて気にもしていなかったはずだ。僕は聖人でも優しい人間でもないし、助けることはなかったはずだ。

 助けたのは僕だけど、助けようとしたのは詩音で。

 もうすぐ消えてしまうその名を、僕は誰かに刻み続けたくて。

 だから、

「……羽沢詩音です。あなたは?」

「真田千歳です」

「素敵なお名前ですね」

 言い、僕は背を向けて、少し遠回りをして詩音の元へ戻った。

 薄れていく千歳の匂いを、鼓膜に響き続ける千歳の声を、僕はずっと覚えていた。まるで呪いにかかったかのように、この時すでに、僕の心は千歳に囚われていた。


 靴下姿で戻って来た僕を見て、詩音は驚いていた。でも、話を聞いて満足気に微笑んだ。紛れもない、今日一番の笑顔だった。

 詩音を笑顔にさせたのは僕じゃない。千歳、君がさせたんだ。

 詩音を笑顔に出来るのは、やっぱり僕じゃないんだ。じゃあ、僕にしか出来ないことはなんだ?

 答えは簡単。たった一つだけ、僕にしか出来ないことがあるじゃないか。



     *



 不可思議なことがあった。たった一つだけ、彼の小説を読み始めてから疑問に思っていたことがあった。

 私はなぜ、心の底から素敵だと思った人の声の違いに気づけなかったのだろう。

 助けてくれたのが羽沢詩音で、電話に出たのが諏訪詠なら、この私にでも声の違いに気づけたんじゃないだろうか。

 でも、私には聞き分けが出来なかった。なぜなら、小説にも書いてある通り、助けてくれたのも電話に出たのも全て諏訪詠だったからだ。

 あの日、手を差し伸ばしてくれたのは、紛れもない彼だったのだ。

 それに、羽沢詩音はあの写真の女性だった。

 羽沢詩音を男性だと決めつけていた自分が、情けないほどに滑稽で、女性だと知った私の胸は鋭く痛む。

 この痛みは、愛と嫉妬を綯い交ぜにしたものなんだと最近知った。ヤキモチともいうらしい。

 私もこんな感情を抱く時がくるなんて。なんだか、少しだけ嬉しくも思った。

 やっぱり、私は彼の温もりが好きだ。

 あの日、彼が手を差し伸ばしてくれたから。差し伸ばしてくれたのが彼だったから。

 私はこんな思いをすることが出来たし、自分が少しだけよく見れたような気もしたのだ。

 私には、やっぱり彼がいないと駄目なのだ。彼じゃないと駄目なのだ。

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