第18話 笑ってくれるだろうか

 太くて硬い麺を割り箸で掴み、口が一杯になるまで啜る。ああ。やっぱり何度食べても美味しいな。

 東京に住んでいた頃、詩音に会いたいと思うのと同時に、この焼きそばのことも恋しくあった。

 この町に生まれて嬉しかったことも誇らしいこともほとんどないけれど、この焼きそばと詩音に出会えただけで十分な気がする。

 それだけでいい。それ以上なにも求めてない。だから……。

 僕は険しい顔をしながら、キンキンに冷えた水を飲んだ。

「なに考えてたの?」

 僕の顔を覗きながら、不思議そうな顔をして詩音は言う。

「別になにも考えていないよ」

「そう?」

 詩音は、なんだか少しだけ不満そうな顔をしていたが、すぐに幸せそうな顔をして焼きそばを食べていた。

 詩音は好きなものを、自分が満足するまで好きでいる人間だ。

 焼きそばも、海も、僕の小説も。好きでいることだけで幸せになるから、幸せにしてくれた恩返しをするように、自分は情熱的な愛情を注ぐ。

 昔、詩音はそんなことを言っていた。

 詩音の幸せとはなんだろうか。僕と過ごす日々を、少しだけでも幸せだと思ってくれているのだろうか。それとも、本当はこんな僕なんかと一緒にいたくなんてないのだろうか。僕が情けない人間だから、放って置けないだけなのだろうか。

「ねえ。またその顔。焼きそばを食べてる時くらい楽しそうな顔したら?」

 詩音は僕の頬に両手を当て、頬を膨らませてムスッとした顔で言った。

「さっきからなに考えてるの?」

 詩音は両手を離し、今度は自分の頬に手を当てながら肘をテーブルに置いた。

「小説のことだよ。いい物語が浮かんだからさ」

「本当? ねえねえ。どんな物語?」

「まだ内緒」

 僕はなんで嘘をついたのだろう。嘘をついてなにになるんだろう。詩音に意味もない期待を抱かせるだけなのに、僕はなんて愚かで罪悪な人間なのだろう。

「詠はやっぱケチだなあ」

 詩音はそっぽを向いて、吐き出すように言った。

 その顔を見て、僕の心は針で刺されたような痛みに襲われた。

 詩音、ごめんね。僕はまだ小説を書けそうにないよ。あの日から、物語がなにも浮かばないんだ。

「食べ終わったら海の近くに行こうよ」

 痛みに耐えていると、上目遣いをしながら詩音は言った。

「うん。いいよ」

 僕は痛みを隠すように、無理やり笑って言った。上手く笑えていただろうか。

「でも、ゆっくり食べなよ。早食いはよくないから」

 時間に迫られているサラリーマンのように、慌てるように食べる詩音に僕は言う。

 僕の言葉を聞いて少しだけペースは落ちたが、それでも詩音は掻き込むように食べていた。そんなにも早く海に行きたいのかと、僕は少しだけ呆れたが、僕も詩音と同じように急いで食べた。少しでも長く、詩音に海を見せてやりたかったからだ。



「やっぱり海の近くは気持ちいいね」

 僕は手押しハンドルから手を離し、風に靡く前髪を手で押さえた。頬に触れる快い風が、鼻を擽る嗅ぎ慣れた匂いが、鼓膜に届く波の音が僕を癒す。詩音の言う通り、海の近くは確かに気持ちいい。

 防波堤の前に立つと、体感温度はグッと下がった。薄着だった為、寒さに耐えるのに必死だった。

 蜃気楼のように揺れる波が、今日はやけに大人しい。昨日までは、思春期の少年の心のように荒れていたのに。

 出会った頃から、詩音は海が好きだった。深い理由はよく分からないけど、ことあるごとに僕を海の近くまで連れて来ては、何分間も意味もなく眺めていた。

 なんで好きかと問うと、泳いだことがないからだと答えるだけだった。


「詠は海が似合うね」

「どういうことだ?」

「海みたいに綺麗ってこと」

 車椅子の後ろに立つ僕に、頭だけ振り返って詩音は笑顔を見せる。

 悪戯をする子供のように無邪気に笑うその姿は、出会った頃からなにも変わらない。まるで、いつだって近くにあった海のように。詩音だけがそこに取り残されたみたいに。僕だけが変わってしまったように。詩音と出会った頃の自分の方が、今よりよっぽど賢かったような気がするが。

 どうして、詩音は笑ってられるのだろう。

 もうすぐで死ぬというのに、なんで怖くないのだろう。僕だったらきっと、慟哭して逃げ出してしまう。笑うことは愚か、誰かと向き合って話すことすら出来ないと思う。自ら命を捨ててしまうかもしれない。

 詩音は強い。僕なんかよりもずっと。なのに、どうしようもなく弱い。触れてしまったら壊れてしまいそうなくらいに弱々しい。まるで、道端に咲いてある名前すらも分からない花のように。


 僕たちが出会ったのは、もう十五年以上も前のことだ。

 同じ町に引っ越してきた詩音の第一印象は、酷く変わった人だった。

 いつも防波堤に座っては、何時間も鼻歌を歌いながら眺めているだけだったし、あの頃の詩音はいつだって世界を拒絶しているような顔をしていた。

 でも、話していくうちに、詩音も僕と同じように普通の人間であるということを知った。

 僕たちはお互いに読書や音楽鑑賞が好きで、体が弱くて外で遊べない詩音と外で遊ぶことを好まない僕が、仲良くなるのは時間の問題だった。

 春に桜が成るように、海が塩っぱいように、夜が暗いように。僕たちが仲良くなるのは、それくらい当たり前だった。

 何度も些末な喧嘩をしたし、何度も意味もなく笑った。ひたすらに益体のない話を続けた。

 僕が上京する時、詩音は寂しがっていた。

 その姿があまりにも新鮮だったから、なぜか僕は笑った。あの時が一番自然に笑えたのかもしれない。

 僕がこの町に逃げ戻って来た時、なにも事情を聞かずに詩音は再会を喜んだ。

 小説を書けなくなったと知って酷く悲しんでいたけど、詩音は僕を責めなかった。何度も慰めてくれた。その度に、僕は弱くなっていった。

 海が好きな詩音は、一度も海水で泳いだことがない。歌が好きな詩音は、今では一曲としてまともに歌え切れない。焼きそばだって、あと何回食べれるかも分からない。今日が最後なのかもしれないのだ。

 なのに、詩音はいつも笑っている。いつも、大好きだという古い曲を口ずさんでいる。焼きそばを食べる時、海を眺めている時、いつも幸せそうな顔をしている。

 別に泣けと言ってるわけではない。

 でも、僕には詩音が強がって見えたから。堪えているのなら、吐き出して欲しかった。僕が詩音にするように、悩みとか弱音を吐露して欲しかった。僕に頼って欲しかったのだ。


「ねえ。詠」

 ふと、僕の名前を呼ぶ悲哀に満ちたその声が、僕を現実に引き戻す。

「どうした?」

「もし死んだら、お母さんのことよろしくね。お母さん寂しがり屋で落ち込みやすい性格だから、一人になったらなにするか分からないから」

「死んだらって……詩音は死なないだろ」

 僕は詩音の前に立ち、穏やかな詩音の瞳を睨むように見つめながら言う。

 前に立つと、波が少し荒くなったような気がした。

「でも……」

「聞きたくない。そんな話なんて聞きたくない」

「詠に笑っていて欲しいだけなの。一人になっても笑っていて欲しいだけなの」

「僕に笑っていて欲しいなら、君が隣で笑ってくれよ……」

 僕は、詩音の肩を両手で強く掴む。

「僕だけが笑ったって意味ないじゃないか! 君が笑わせてくれるから、僕は笑えるんだ。君が笑うから、僕もつられて笑うんだ。君がいなくなったら、僕はどうやって笑えばいいんだよ……」

 詩音が笑うだけ、僕も笑っていたい。それが、僕の最大の願いだ。

 詩音がいなくなった時のことなんて、僕だって何度も考えた。考える度、僕が僕でいられなくなって、夜中に家を飛び出してはここに来て心を落ち着かせた。

 詩音がいなくなったら、僕だっていなくなる。詩音がいるから、僕が僕でいれるのだ。

「詠は本当に泣き虫だね」

 笑いながら言う詩音は、僕の瞳に腕を伸ばして、痩せ細った人差し指で涙を拭いた。そうか。僕はまた泣いていたのか。泣かないってあれだけ決めたのに。

「詠になんて出会わなければよかった。詠と出会ってなかったら、生きたいだなんて思わなかったのに。詠がいなかったら、心残りなんてなにもないのに」

 詩音は笑っているとは泣いているような顔を見せて、僕を真っ直ぐに見つめて言う。

「ねえ。たまには我儘聞いてくれない?」

 僕は深く頷いたあと、服の袖で強引に涙を拭った。

「東京に行ってみたいの」

「東京? なんで?」

「一度も行ったことがないから。連れてってくれない? 詠が過ごした場所も見てみたいし」

 思えば、詩音になにかをお願いされるのはこれが初めてだったのかもしれない。

「いいよ。行こう」

 詩音の願いは希望だ。それだけが、僕たちの未来を照らす光だ。

 強がりに笑うその姿を眺めながら、僕は波の音だけを聞いていた。

 しばらく眺めているうちに、気づけば空は暗くなっていた。

 手を伸ばせば届きそうなくらい近い星たちが、僕らを見下ろしていた。

 詩音は夜空に腕を伸ばし、必死な顔をして星を掴もうとした。何分間そうしていたのだろう。詩音は諦めたのか、腕を下ろして僕の方に振り返って悲しそうに笑った。

 僕は、その姿を見ていることだけしか出来なかった。


 それから数日後、僕たちは東京に行った。

 人生三度目、そして、最大の分水嶺はこの時だった。



     *



 優と別れたあと、私は家に帰って、部屋で一人で彼の小説を読んでいた。


 ここまで読んだところで、私は彼の携帯の電源を落とし、彼のことを考えていた。

 彼は今、静岡県にいるのだろうか。

 静岡県で、同じ夜の中を彷徨しているのだろうか。ひたすら波の音だけを聞いているのだろうか。私のことを、少しだけでも考えてくれているのだろうか。

 小説に書かれている全ては、私の知らない彼の物語だ。

 本当に、なに一つとして知らなかった。

 彼の思いや葛藤の全てを、私は見つけられなかった。同じ時間をあれだけ共にしたのに。彼のことを理解していた気がしたのに。

 涙が浮かぶ瞳を、人差し指で強く擦る。強く擦りすぎた為、指に視線を向けると睫毛が数本抜けていた。

 自分の携帯を手に取り、時刻を確認する。午前二時だった。

 最近、睡眠時間は著しく減っている。

 脳は眠いと、身体は疲れたと主張しているのに、目を瞑っても長い夜から抜け出せない。

 睡眠薬を使おうとしたけど、優に止められた。睡眠は得られても、身体への害が大きいらしい。

 こんな退廃的な生活を見て、彼はなんて言うのだろうか。

 呆れるのだろうか。笑ってくれるのだろうか。叱ってくれるのだろうか。いや、それはないか。だって、彼は優しい人だから。

 そんなことを考えるだけで、彼への想いは純粋なまでに愛だった。

 それに形あるなにかを足すことも引くことも出来ないけれど、悲哀に満ちた情熱的な愛だった。

 どうせ寝れないし、もう少しだけ小説を読もうか。そう思い、部屋の電気を消して、彼の携帯の電源を入れた。

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