第17話 君の無邪気さにいつも

「小説書けた?」

 残夏の匂いが微かに残る病室で、詩音は覇気のない掠れた声で言う。

「またその質問? 書いてるけど、多分またボツだよ」

「何度でも聞くよ。だって、詠の小説が世界で一番好きだからね。早く新しいのが読みたいんだ」

 華奢な体躯をベッドにかける詩音は、この一年で酷く痩せた気がする。

 弱っていく姿が、目に見えて分かる。その姿を見る度に涙腺が緩んで泣きそうになる。泣いてしまわないように、僕は唇を強く噛んでグッと堪える。

「ありがとう。でも、ごめん……」

「気長に待ってるよ。詠なら大丈夫。きっとまた書けるようになるよ」

 その言葉が琴線に触れる。目頭が熱くなって、僕はまた泣き出してしまいそうになる。

 僕は、情けない顔を見られたくなくて俯いてその顔を隠した。視界の先には小さな埃が舞っていた。楽しそうに踊るその姿が、少し羨ましかった。


 死が目の前に迫っているのに、詩音は泰然としている。

 それに対して僕はどうだ?

 詩音と違って息災なのに、惰眠を貪って限りある時間を無駄にしている。

 悲劇の主人公でもないのに、なんて醜い顔をしているのだろうか。こんな顔を見て、なんで詩音は笑わないのだろうか。笑ってくれた方が楽だ。笑ってくれよ。なんて顔をしているんだって。揶揄してくれよ。馬鹿にしてくれよ。

 何時間だって馬鹿にしてくれていい。僕が拗ねるまで続けてくれて構わないから。

「詩音は辛くないのか?」

「なにが?」

「自分の病気だよ。なんで自分だけって、なんで自分がって思わないのか?」

「なんだ。そういうことか」

 病室の窓に、詩音は目を向けた。

 快い秋風が、消毒液の匂いが染み付いたカーテンを揺らす。同時に、潮の匂いが鼻を擽る。嗅ぎなれた匂いだ。

「辛くないって言ったら嘘になる。辛いことを数えたら、枚挙に遑がない。でも、幸せでもあるんだ」

 詩音が言ってることを、僕は半分以上も理解が出来なかった。

「幸せ?」

「詠の小説に出会えただけで十分幸せなんだ」

 僕はなにも言えず、たった二人きりの病室で、その言葉を頭の中で反芻しながら詩音を見つめていた。

 視界の先の詩音は、痛々しいほどに可憐だった。

 桜の花弁のように風に乗ってどこまでも行ってしまいそうで、グラスに入った氷のように目を逸らしているうちに溶けてしまいそうだった。

 僕は、小説を書かなければならない。

 たった一人の詩音の為に、何年も待ってくれている詩音の為に、誰よりも小説を愛してくれる詩音の為に。残り少ない日々の中で、少しでも多く小説を書かなければならないのだ。

 詩音は、もう少しでこの世界から消える。それは変えようもない運命だ。抗うことすらも赦されていない。

 でも、ただひたすらにその時を待つわけにもいかない。詩音が僕の小説を読みたいと願うのなら、傲慢な言い方だけど、叶えてあげるしかない。約束だってしたのだから。

 僕たちは時間を忘れ、綺麗な夜景をただひたすらに眺めるかのように、お互いを見つめ合っていた。

 どれだけ嗅いでも嗅ぎ慣れない病室の匂いが、僕たち二人の間に漂っていた。

 ふと、窓の外を眺めると、空は橙色に染まっていて、詩音と同じ空を見れていることが嬉しくて仕方がなかった。

 詩音が見ている景色を、僕も同じように見れたらいい。僕が願うのは、それだけだ。



「ねえ。なんだかお腹空いてきちゃった。焼きそば食べに行こうよ」

 忘我していると、詩音は突然そんなことを言い出した。

「いいのか? 勝手にそんなもの食べて」

「うん。大丈夫。それに、少しでも多く焼きそばを食べたい」

 富士宮焼きそば───詩音がこの世界にある食べものの中で、圧倒的に一番好きなものらしい。

 これに出会えただけで生まれてよかったと、出会った頃から、美味しそうに食べながら何度もそう言っていた。

 もちろん僕も大好物だし、詩音と一緒に食べるとさらに美味しい。

「分かった。じゃあ、食べに行こうか」

 言い、僕たちはこっそり病室を抜け出し、行きつけの店に向かった。

 僕が押す車椅子に乗る詩音は、店に近づくにつれ、雷のような音をお腹から鳴らしていた。

 僕はその度に、詩音の無邪気さに呆れて笑った。

 やっぱり、僕は詩音がいないと笑えないらしい。


     *



 私は、昨日家で読んだ小説の内容を優に伝え終わったのと同時に、冷めきったホットコーヒーを飲んだ。あまりにも冷めきっていた為、これをホットコーヒーと呼んでいいか疑問に思ったが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。

「羽沢詩音は病気だった……」

 向かい合って腰をかける優は、訝しんだ顔で私を睨みながら言った。

「ここに書いてあることが本当ならね」

「でも、諏訪という人間が羽沢詩音となんらかの関係があったことは間違いないですね。たとえ、小説の内容が全て嘘だとしても」

「うん。そうだね」

 でも、なぜ彼は羽沢詩音という名前を使ったのだろう。

 いや、あの時助けてくれたのが羽沢詩音の方で、なにかしらの理由で彼の電話番号を書いたのだろうか。それとも、羽沢詩音は彼が作り上げた、小説の中の架空の人物に過ぎないのだろうか。情報量が多過ぎて、目眩がする。

「ここまでの話を聞いた段階での僕の推理なんですけど、羽沢詩音は病気だったんですよね? それも、死が目の前まで迫っているほどの。先輩を助けた時、次に会う日まで生きている確証がなかったから、諏訪の電話番号を書いたんじゃないでしょうか?」

「じゃあ、なんで彼は自分が羽沢詩音だと嘘をついたの?」

「それなんですよね。別に隠す理由がなかった。自分は羽沢詩音じゃないって言えたはずだった。ただ、まだ小説を読み終わっていない段階での推理なんで、また読みながら考えましょう。きっと、全てが分かっていくはずです」

 優は伊達眼鏡をかけ、ドヤ顔で言った。

 大の大人がそんな顔をして恥ずかしくないのだろうか。いや、今の私の顔も相当だ。優ならまだいいが、彼には恥ずかしくて見せられないな。

 私って、普段どんな顔をしていたっけ。こんな険しい顔をしていたのだろうか。どんな風に笑っていたのだろうか。元々、彼の前でも上手く笑えていなかったのだろうか。

 彼に会いたい。会って、話がしたい。月夜の下で話がしたい。耳元で優しく囁いて欲しい。ハスキーなあの声が聞きたい。私の名前を呼ぶ声が聞きたい。もう一度、私の手を握って欲しい。叶うなら、今度はそのまま離さないでいて欲しい。

 今度はちゃんと、自分の言葉で好きだと伝えるから。彼と出会った日のように、なんらかの偶然で彼に会わせて欲しい。

 誰に願ったのかは曖昧だけど、私はひたすら祈り続けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る