第16話 流石は小説家
日に日に褪せていく君色に染った世界で。
夜の帳、荒れ狂う波の音を聞きながら、ただひたすらに死ぬことだけを考えていた。
生きる理由も居場所も失った僕は、死んだ方が幸せなんじゃないかって思った。いや、実際にそうだったはずだ。
生まれた時からなんの意識もしてないのに、僕たち人間は呼吸をしている。それが当たり前で、少し前までならそれに対してなにも思わなかった。当然だろう。生きている中で、呼吸することに不信を覚えるなんて狂気の沙汰だ。
でも、今は、なんで僕はこんな辛い思いをしなければいけないのだろう。こんなに苦しまなければいけないのだろう。そんな風に、僕は平凡な現実に嘆く。大の大人が情けない話だ。
いや、僕はいつ大人になったのだろう。成人した辺りからだろうか。学生時代を懐かしむ余白が出来た頃からだろうか。それとも、お酒が美味しいと感じた頃からだろうか。そもそも、僕はまだ子供のままなのだろうか。
僕が書く小説の中の主人公みたいに、ご都合主義で全てが順風満帆な世界だったら。
僕たちはみんな、幸せだったんじゃないだろうか。
誰も泣かない、誰も叫ばない世界だったら。
僕は、ほんの少しだけでも幸せになれたのではないだろうか。今より少しだけでも、笑っていられたのではないだろうか。
いつまでもこんなことを考えてる場合じゃない。苛々と思う。
どれだけ自分のことを不幸者だと思っても、どれだけ言い張っても、この世界には僕より不幸な人なんて腐るほどいる。
僕の些末でちっぽけな悩みなんて、この世界の誰かがすでにどこかで解決してるはずだ。そんなことはもう分かってる。分かっているからこそ、この世界に嘆くのだ。
諏訪詠───少し風変わりな名前を持つ僕は、静岡県の田舎町で平均的な中流家庭の長男として生まれ、大学進学と同時に上京するまでこの小さな町で過ごしてきた。
特に才能に恵まれたわけでも、個性豊かな人間でもない。
どこにでもいる限りなく『普通』の人間として、僕は過ごしてきた。普通であるということが、一つの個性なのかもしれないが。
中学校は地元のほとんどの同級生が集まるところに行き、高校は自宅から一番近い公立校を選んだ。本当はもう少し偏差値の高いところに行けたが、朝が弱かった為、そこ以外の選択肢がなかった。それに……。
行事やイベントで特別目立つことも、風の便りで妙な噂話が流れることもない。
それくらい、僕は普通の人間だった。普通でいることになにも思わなかったし、目立っている人間のことを羨ましいと思ったこともない。
普通でいい。このまま、ずっと普通でいい。そう、幼い頃から思い続けて過ごしてきた。
人生の分水嶺があるとするのなら、僕が小説家になってしまったことと、羽沢詩音に出会ってしまったことだと思う。
僕の人生を大きく狂わせたのも、その二つだと思う。
二十歳の誕生日に新人賞に受賞してデビューし、約八年。
処女作である『鈍色の結婚』で賞を取り、同時期に、僕は二年間通った東京にある私立大学を辞めた。元々文学を学ぶ為に進学しただけだし、プロの小説家になった以上、小説だけに没頭したかったからだ。
退学に対して、もちろん親には反対されたけど、僕は硬くなりに意思は曲げなかった。
あの頃の自分にとって、小説が全てだった。
小説がこの世界から消えるのであれば、死んでも構わなかった。小説を書く為に生まれてきたのだと、素直に信じていた。それくらい、僕は純粋に小説を愛していた。
嬉しいことに著作は好評で、これ以上にないくらいデビューは完璧だった。
『期待の大型新人』なんて言われたこともあった。いや、今思えば、そんな大それた言葉で揶揄されていただけなのかもしれない。煽てられていただけなのかもしれない。
それから五ヶ月後、二作目である『白い夕方』が発売した。それも好評で、僕は溢れんばかりの自信と自分の才能に溺れていた。
でも、六作目の『苦しい』を最後に僕は小説が書けなくなってしまった。
書いても書いても納得出来ず、駄作が溜まる日々。
僕はデビューしてたったの三年で、小説家の自分を殺すことになってしまったのだ。
そんな自分がやるせなくて、故郷である静岡県に戻った。戻ったというより、逃げたという方が正しいのかもしれない。
小説を書けなくなった僕が、憧れだった大東京にいることが、なんだか悪いことをしているように思えたからだ。
それに、僕はこの町に戻らなければいけなかった。羽沢詩音がいる町に、僕は戻らなければいけなかった。
見慣れた景色、懐かしい潮の匂い。少し冷たい、虫が鳴く夏の夜。目下に広がるのは、空と同じ色のどこまでも続く広い海。
穏やかで静かなこの町は、不肖で愚かな僕にピッタリなのだ。
*
流石は小説家。一文一文が雅で洒落ている。
最初に抱いた感想はそれだけだった。
あまり喫茶店に居座るわけにもいかないし、また明日ここで話そうと決め、ここまで読んで私と優は別れることにした。
帰り道、頭に浮かぶのは彼の笑顔で。純粋無垢に私の目を見つめるその顔が、やけに他人のように思えてなんだか怖くなった。怖くて堪らなかった。
途中、夜道を照らす光に誘われ、自動販売機で微糖の缶コーヒーを買い、それで悴む手を温めるように両手で包む。
少し冷めたところで蓋を開け、飲むというよりは冷えた体に入れた。
寒さのせいだろうか。それとも、頭が回らないせいだろうか。あまり味を感じなかった。
気づけば雪が降っていた。東京の初雪だった。
降る雪が全て、私の涙のように見えた。
泣けない私の代わりに、世界が泣いてくれている。そう思えた。
コーヒーを全て体に流し込み、出来るだけ早足で宵闇に誘われるように私は家に帰った。
癖のある古臭いアパートの匂いが、荒ぶる私の心を安堵させる。
飛び込むようにベッドに横になると、強烈な疲労が私を襲った。こんなにも疲れていたのか。こんなに疲れたのはいつぶりだろうか。
分厚い布団を頭まで被り、呼吸が苦しくなるまでそのままでいた。
着替える気力も食欲もまるでなかった。
酸素を求めて勢いよく布団から顔を出し、そのまま長く寂しい夜から目を瞑った。
夢の中の私は、他人のように幸せそうだった。
覚めなければいいのにと、無意識に願っていた。こんな願い、彼と出会ってから一度もしたことがなかったのに。またする日が来るなんて、思ってもいなかったのに。
私はまた、あの頃の自分に戻ってしまうのだろうか。また、上手く歩けなくなってしまうのだろうか。
また、あの頃のようになってしまったら、私はもう一度這い上がれる自信がない。理由はただ一つ、彼がいないからだ。
私の手を引っ張ってくれた彼がいなくなっただけで、私はこんなにも零落してしまうのか。
そうかそうか。私は一人では生きられないのか。
やっぱり、こんな私は生まれてこなければよかったのだろうか。
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