第15話 恋をして
恋に落ちるのはあまりにも早かった。
快速列車が目下を通り過ぎるよりも、放り投げた小石が重力に負けて池に落ちるよりも。
僕の初恋は、呆気なく先輩に奪われた。
僕たち以外誰もいない図書室で、窓の外に見える夕日を眺める先輩に、僕は一目惚れをしてしまった。
恋なんて一度たりともしたことがなかったけど、この想いは恋なんだと、僕は確信していた。だって、一目見ただけなのに、先輩が僕の心臓の位置を教えてくれたからだ。
子供の頃、僕は家庭環境のせいで酷くつまらない人間だった。その反動で、探偵という普通とはかけ離れた職業に就くのだけれど。まあ、それはまだ置いといて。
僕の親は、僕に色々な習いごとをさせた。
塾、ピアノ、サッカー、英会話、そろばん、その他諸々。
週の全てが習いごとで埋まるほど、親は僕に色々な教育を受けさせた。させられたといった方が正しいのかもしれない。
僕はそんな生活が嫌で堪らなかったし、何度も反抗した。その度に、『甘えたことを言うんじゃない。学歴社会になった今、子供の頃から努力しないと意味がない』と、真面目で聡明で冷酷な母に、何度も叱られた。
放課後、公園や学校のグラウンドで汚い言葉を発し、ゲラゲラと笑い声を上げながら遊んでいるクラスメイトを見て、僕は羨ましくてしょうがなかった。それと同時に、母のことが憎かった。
僕は普通の人間じゃない。僕だけが毎日早急に家に帰っては、塾に行ったり、ピアノのレッスンを受けている。もちろん、僕と同じように塾に通っている人はクラスに何人もいた。でも、週の全てを習いごとで埋まっている狂気な小学生なんて、どこを見渡しても僕一人だけだった。
何度も言うが、僕は普通の人間じゃなかった。
普通になりたかった。グラウンドで走り回る一人でいい。休み時間にじゃれ合う中の一人でいい。遠くから見ているだけだなんて嫌だったのだ。
自分だけが紛れ込んだ異物のように思えて、堪らなく怖かったのだ。
中学生になると、僕は夜遅くまで外で暇を潰すようになった。家に帰りたくない。ただそれだけの理由で、僕は一人で夜道を彷徨した。
家に帰れば無理やり習いごとに行かされるし、テストの点数やらなんやらで母に叱られる。そんなの堪ったものじゃない。
母の心が折れるまで、僕は一人で外で過ごしてやる。僕はそう決めたのだ。
夜遅くに帰る僕を母は何時間も叱ったが、それを毎日繰り返すにつれ、呆れた母は少しずつ僕に構わなくなった。
いつしか僕に目もくれなくなって、夕方に家に帰っても『おかえり』すら言ってくれなくなった。
母にとって、僕はどんな存在なのだろう。操り人形なのだろうか。操り人形だった僕が言うことを聞かない不良品になったから、要らない存在になってしまったのだろうか。
父も父で、仕事が忙しくて僕に目もくれない。まあ、もうそんなことなんてどうでもいい。
父が僕に興味がないように、僕も父に興味がない。母にもそうだ。僕のことなんて誰も興味がないし、僕だって誰かを気にしている余白なんてない。
中学二年生になってからは、僕は暇を潰すのでいっぱいだった。
今日はなにをしよう。今日はどこへ行こう。気づけば毎日同じことを繰り返していて、自分の存在意義が分からなくなって恐怖に怯えるようにもなった。
僕はなんで生きているのだろう。誰のために生きているのだろう。そんな風に自己嫌悪の沼に嵌ったのは中学二年生の秋で、その頃からは図書室で暇を潰すようになっていた。
本は好きじゃないけれど、ここならいくらでも暇を潰せた。枚挙に遑がないほど本はあったし、少しだけ漫画もあった。
中でも、大宰の本は面白かった。人間失格、女生徒、斜陽、チャンス、葉桜に魔笛……。
毎日、下校時刻になるまで僕は太宰の本を読んだ。太宰の本を読んでいる時だけ、ほんの少しだけ充実しているように感じたのだ。
でも、いくら太宰の本を読んでも自分の存在意義が分かることはなかった。
いっそのこと死んでやろうとも思った。僕が死んだら、誰か一人くらいは悲しんでくれると思ったからだ。でも、いくら考えてもそんな人なんていなかった。
親は僕が死んだら、肩の荷が降りてせいぜいするだろう。
僕には恋人はもちろん、友達もいない。
僕はなんて寂しい人間なのだろう。誰かの為に死ぬわけではないが、死んだところで悲しむ人間がいないのなら、死ぬ意味がない。僕はただ、ここでひたすらに本を読み続けることしか出来ないのだ。
まるで死刑宣告をされた死刑囚のように、僕はいつか死ぬその時まで、この誰もいない図書室で、本をひたすらに読むことしか出来なかった。
そんな自暴自棄に陥っていた時に出会ったのが先輩だった。
先輩と出会ったのは神無月のことだった。
僕が通っていた中学校では、神無月になると委員会や生徒会が一斉に交代する仕組みがある。先輩は後期図書委員だった。
平生通り、僕は放課後に図書室へ向かった。
重たい扉を開け、溜め息を吐きながら室内に入ると、そこには図書委員の先輩がいた。
先輩はカウンターに座りながら窓の外を向いていて、入ってきた僕に目をくれるもことなく、ひたすらに夕日を眺めていた。
先輩が外を眺めるように、肩まで伸びた長い艶のある髪を、僕は我を忘れたように眺めていた。
そんなことをしばらくしていると、視線に気づいたのか、先輩は僕の方にゆっくりと振り向いた。
物憂げな瞳で見つめられ、僕の心臓は早鐘を打つ。僕の存在に気づいた先輩は優しく微笑み、また振り返って窓の外を眺めた。僕はまだ、先輩を見つめていた。黙ったまま見つめることしか出来なかった。
太宰が言っていた。『恋愛は、チャンスではないと思う。私はそれを、意思だと思う』
ここで勇気を出さなければ、この先、先輩と話すことは出来なかったと思う。先輩が僕の名前を呼んでくれることなんて、絶対にありえないはずだった。だから……。
「なにを見ているの?」
吐き出した言葉が、静寂とした室内に響き渡る。
先輩はしばらく黙っていて、数十秒経ったあとにややあっと口を開く。
「分からない。私はなにを見ているんだろう」
先輩は背を向けたまま答える。
「そこからじゃ夕日とグラウンドしか見えないと思うけど」
「私にはなにも見えない。目が悪いとかそういうんじゃない。なにも見えないの」
寂しそうに言う先輩の後ろ姿が、やけに小さく見えた。まるで、僕自身の背中を見ているようだった。
「じゃあ、僕のことは見える?」
僕の言葉を聞いて、先輩はまたしばらく黙った。それからゆっくりと振り返り、僕をじっと眺めた。長い睫毛から覗く瞳の中に僕がいることが、堪らなく嬉しかった。
「うん。見えるよ」
先輩は嬉しそうに笑いながら言い、僕は照れ隠しに頭を強引に掻いた。
「ねえ。名前なんて言うの?」
「二年二組の城山優。優しいで優。君は?」
「三年四組の真田千歳」
「え? 三年生? 同い年かと思ってタメ口で話してました。すみません」
言い忘れていたが、この時の僕は先輩のことを自分と同い年かと勘違いしていた。
生意気な奴だと思われていないだろうかと、僕は心配でしょうがなかった。
「別にいいよ。敬語使われるの慣れてないから。さっきみたいな話し方でいいから。その方が君も楽でしょう?」
僕は深く頷きながら、また頭を掻いた。
「でも、やっぱり敬語は使わせてください。自分がそうしたいので」
「真面目なんだね」
先輩は優しく微笑む。さっきまではその笑顔に無邪気さがあったが、年上だと知った瞬間、やけに大人っぽく見えた。
「そういえば、先輩はなんでここに?」
恥ずかしさを紛らわすように、僕は無理矢理話題を振る。
「図書委員だからね」
「図書委員なんて普段図書室になんて来ませんでしたよ。図書室を利用する人なんて滅多にいまんせんし」
「城山くんは図書室によく来るの?」
毎日来ていると言おうとしたが、僕は直前で堪えた。悲しい奴だと思われたくなかったからだ。
「時々来ます」
「じゃあ、これからはたまに会うことがあるかもね。私はこれからは毎日ここにいるから」
先輩は言いながら笑った。笑っているよりは、泣いているといった方が正しいのかもしれないけど。
「勉強は大丈夫なんですか?」
「ここでするよ。家だと集中出来ないから」
僕も同じだと言おうとしたが、それも言わなかった。
「先輩は親のこと好きですか?」
僕は、無意識にそんなことを聞いていた。
「なんで?」
「あ……いや、なんでもないです。忘れてください」
言い終わるのと同時に、気まずさが僕らの間に流れた。ああ。やってしまった。デリカシーのない男だ。初対面の年上の女の人に、なんて質問をしているのだろう。
これからどうしよう。無理にでも話題を変えた方がいいのだろうか。そんなことを考えていた。
すると、
「好きか嫌いかって聞かれたら、嫌いなのかもね」
先輩は微笑みながら、囁くように言った。
「僕も同じです」
「本当? なんか少し嬉しいな」
窓の隙間から風が入り、先輩の長い髪を揺らす。その風に乗って先輩の甘い匂いが僕の鼻に付く。
「私ね、家に帰りたくないからここにいるの。本当は図書委員の仕事なんてなにもないの。なにもないけど私はここにいる。だから、ここからじゃなにも見えない」
先輩はもう一度僕に背を向けて、窓の外を眺めて言った。
なにも見えない窓の外を眺める先輩の華奢な背中を眺めているうちに、僕も先輩の瞳に映る景色を見ているような気がした。
「僕も、家に帰りたくないからここに来るようになりました。家にいると叱られるからここにいます。ただそれだけです」
言い終わるのと同時に、下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。その音を聞いて先輩は立ち上がり、体ごと僕の方に振り返る。
「じゃあ、またここで会うかもね。また、空が紅くなったら」
言い、先輩は返答も聞かずに図書室を出ていった。
別れ際、捲れた袖の下に、何本もの傷跡が見えた。そうか。先輩も……。
僕は自分の腕の傷を撫でながら、先輩の匂いと吐き出した吐息だけが残る室内に囚われていた。
佇みながら、僕は夕日を眺める。先輩の瞳にはなにが映っているのだろう。なにが見えているのだろう。
僕にはその景色が見えないけれど、その中に僕がいればいいなと、素直にそう思った。この思いこそが恋なんだと、僕は恋に落ちてしまったのだと、この時初めて知った。
恋に落ちたことを、僕は少しだけ嬉しく思った。
それが叶わない恋であっても、恋をすることが出来る普通の人間であるということを初めて知ったような気がして、僕は嬉しく思ったのだ。
普通の人間の仲間入りが出来たような気がして嬉しかったが、僕は自分が普通である為に恋をしたわけではない。
人が異性を好きになる時、子孫を残したいという本能が働く為だと本で読んだことがあったが、僕の想いはそんなんじゃなかった。
そんなメカニズムとは別に、僕は先輩のことが好きだと思ったのだ。
悲しく笑うあの笑顔に、ダ・ヴィンチの絵画のように見惚れてしまうほどに美しい顔に、心が安らぐ透き通った声に、僕は恋をしたのだ。
それから、僕と先輩は毎日、誰もいない放課後の図書室で時間を共有するようになった。
最初は、話題のドラマとか世間話ばかりだったけど、少しずつお互いのことを話すようになったり、二人で勉強をするようにもなった。
先輩は天文学が好きで、僕に星や惑星の話をよくしてくれた。楽しそうに饒舌に語る姿が堪らなく好きで、話なんて頭に入ってこなかったことは秘密だけれど。
そんな風に過ごしているうちに、僕らの日々は流れ星のようにあっという間に過ぎていった。
気づけば弥生に入っていて、先輩の卒業まであと一週間を切っていた。
「そういえば、先輩ってどこの高校に進学するんですか?」
二人きりの図書室で、僕は聞く。
「西高だよ。あそこに天文学部があるの」
西高……。偏差値六十後半の進学校だ。嘘だろ。先輩ってそんなに頭よかったのか。くそ。僕の頭じゃ、今から目指しても到底行けやしないじゃないか。でも……。
「西高ですか? 偶然ですね。僕もそこ目指していたんです」
人が嘘をつくのは自分の為だけだと思っていたが、恋のせいで嘘をつく時もあるのだと、この時初めて知った。
「城山君には厳しいんじゃないかな。距離も結構あるし、君には公立があってると思うよ」
「先輩の話を聞いてるうちに、僕も天文学が好きになったんです。確かに僕には厳しいかもしれないですけど、西高じゃなきゃ駄目なんです」
そんなの嘘に決まっている。先輩が話す姿が好きなだけだ。先輩といる時間が好きなだけだ。ただ、先輩のことが好きなだけだ。
「そっか。じゃあ楽しみに待ってるね」
先輩は嬉しそうに笑いながら言った。真っ直ぐに僕を見つめるものだから、なんだか恥ずかしくなって僕は目を逸らした。
目を逸らした先に、先輩がさっきまで読んでいた本が雑に置いてあった。
それから、僕は必死になって、先輩がいない図書室でひたすら勉強をした。
時々、気分転換に夕日を眺めながら。先輩とまた、同じ制服を着て話し合う姿を想像しながら。僕は、ひたすら勉強をした。
その努力もあって、僕は無事西高に合格することになる。まあ、ギリギリだったのだが。
僕が西校に合格した時、親は少しだけ喜んでくれた。少しだけ、僕を褒めてくれた。別にそんなの求めていたわけではないが、少しだけ、ほんの少しだけ嬉しかった。
高校での二年間は、部室で先輩が話す姿をひたすらこの目に焼き付けた。
いつ告白しよう。どんな言葉を言おうか。なんてことを考えているうちに先輩が卒業して、いつの間にか僕も社会人になっていた。
社会人になっても定期的に連絡を取り合う仲で、僕が二十歳を超えた頃から、ようやく先輩は僕のことを下の名前で呼ぶようになった。
可能性のない告白をすることに意味はあるのだろうか。ただ振られるだけなのに、勇気を振り絞る意味はあるのだろうか。そんなの、自己満足に過ぎないのだろうか。
逃げているといえばそうなるかもしれない。
臆病だって自分で分かっている。嫌ってほど分かっているのだ。
でも、想いを伝えて先輩との仲が途絶えてしまうのが怖かった。先輩の笑顔が、真剣に話すその姿が見れなくなると思うと、堪らなく怖かった。
先輩に恋して、気づけばもう十三年。
振られることが分かってるから、僕はまだ、先輩に想いを伝えられていないままだ。
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