第13話 誰だ

「詩音さん。誕生日おめでとう」

 『乾杯』の代わりにそんな言葉を呟きながら、私たちは赤ワインが入ったワイングラスを割れないように優しくコツンとぶつけ合う。

「……覚えていてくれたの?」

「もちろん。だって、大切な日だから」

 一月七日。今日は詩音さんの誕生日だ。

 一年にたった一度きりの誕生日だし、今日は奮発して雰囲気のある洒落たレストランを予約した。貯金がそろそろ底を尽きそうなのに、我ながら頭のおかしな奴だ。

 今日が終わったら、ちゃんと仕事をしないとな。今の私には出来る気がするし、しなければいけない。

 バイトからでもいい。週に一回からでもいい。生きる為に、自分の為に。私は働かなければいけない。

 それに、お金が尽きて詩音さんと会えなくなってしまうのは嫌だ。それだけは嫌なのだ。


 窓から覗くロマンチックな夜景が色っぽくて、遊園地に行ったあの日を思い出す。

 ロマンを語れるような女じゃないけれど、それでもこの景色は絶景だ。詩音さんの妖麗な瞳のように、ずっと見ていられる。

 呆気にとられたような顔を、詩音さんは見せる。なんでだろう。その仕草ですら愛おしくて仕方がない。

「嬉しい。本当に……」

 幼い子供が親におもちゃを買ってもらった時のような顔で、嬉しそうに詩音さんは笑う。

「あ、これだけじゃないからね。ほら。プレゼントもあるの」

 私はバッグに潜めていたジュエリーケースを取り出し、それを詩音さんに差し出した。

 詩音さんは受け取り、もう一度驚いた顔をした。

「開けてもいい?」

「もちろん」

 詩音さんは、細い指で優しく撫でるように箱を開ける。

「これは?」

「ネックレスだよ。いつも服とか黒一色だし寂しいなって」

「綺麗だね」

「何店舗も回ったんだよ」

 シルバーのチェーンに、黒い宝石を包むように輝く三日月。寂しそうに光る月が、詩音さんに似合うと思った。

 夏目漱石は、I love youを月が綺麗ですねと訳した。詩音さんに伝わったかどうかは分からないけれど、これは今の私に出来る、詩音さんへの精一杯の愛の告白なのだ。

「付けてもいいかな?」

 私は、微笑みながら小さく頷く。

 詩音さんは、白くて長い首にネックレスを付ける。

「凄く似合ってるよ」

「本当に?」

「うん。本当」

 私がコスモスの花弁を撫でていたように、詩音さんは三日月を優しくそっと撫でる。

 私はそれを静かに見つめていた。

 きっと、この刹那、世界で一番幸せな人間はこの私だ。なんの根拠もないのに思う。

 だって、愛する人が目の前で笑顔を咲かせているのだ。それを幸福と呼ばないのなら、なにを幸福と呼ぶんだ。

 泣いてしまいそうな寂寞とした瞳で、詩音さんは月を眺める。

 ブラウンのその瞳は、詩音さんの手の中にある月よりも美しい。


「ごめん。トイレに行ってきてもいい?」

「あ、うん。いいよ」

 照れくさそうに言い、詩音さんは立ち上がった。

 化粧室に向かう詩音さんを、私は見えなくなるまで見つめていた。

 一人取り残された私は、なにもすることがなかった為、月が照らす夜景を詩音さんが戻ってくるまでひたすらに俯瞰していた。

 ワイングラスを手に取り、口に運ぶ。正直ワインは苦手だ。舌が慣れていないせいなのかもしれないが、好んで飲もうとはしない。ただ、この状況でビールを飲むわけにもいかない。

 鼻から抜けるアルコールの香りが、私を酔わせようとしている。もうすでに少し酔いが回っているようだった。

 その刹那、どこからか着信音が聞こえた。

 音の源を探すと、机に置いたままの詩音さんの携帯からだった。

 珍しい。いつもはトイレに行く時も手放さないのに、今日は無防備に置いてある。

 そして、もう一度。メールが届いたのか、真っ暗だった画面は着信音と共に明るくなった。

 詩音さんがまだ戻ってきていないことを確認し、私は恐る恐る画面に目を向けた。

 そこに映っていたのは二つのメールだった。


『今度、久しぶりにみんなで集まるんだけど諏訪もどう? みんな会いたがってる』

『今静岡だっけ? 場所は多分都内になるし、交通費は出すから顔くらい出してくれよ』


 私は固唾を呑んだ。さっき飲んだワインの苦い味がした。

 掌に汗が滲み、項にも汗をかいていた。

 メールの相手は、どう見ても彼を諏訪と呼んでいる。私には意味が分からなかった。

 だって、彼の名前は羽沢詩音。ずっと、その名前で呼んできた。出会った時からずっと。

 頭が真っ白になり、視界がぼやける。このままここで倒れてしまいそうだった。


 彼は一体、誰なんだ?


 そんな疑問が、私の脳内を縦横無尽に走り回っていた。

 脳内を猛スピードで走り回るその疑問が、彼への想いを邪魔していた。

 血の気が引く。足や手は震えていた。口紅を塗った冷えた紅い唇も、蜃気楼のように微かに震えていた。


「どうしたの?」


 彼が戻って来たことに気がつかなかったらしい。それくらい、私は動揺していたのだ。

 狼狽ている私を見て、心配そうに彼は言う。

 なにごともなかったかのような顔をしながら彼は腰をかけ、私を見つめる。

 そんな顔で私を見つめないで。

 そんな声で囁かないで。

 今、口を開いてしまったら。私はきっと、あなたの前で泣いてしまう。涙腺が壊れて、瞼の裏に溜まった涙が溢れてしまう。


「あなたは羽沢詩音じゃないの……?」


 無意識に吐き出したその言葉が、降り積もった雪のように暑さで溶けてしまいそうだった。

「なにを言っているんだ?」

 訝りながら、彼は強張った顔で私を見つめる。その顔がやけに他人のように見えた。

「あなたがトイレに行っている間に、あなたの携帯にメールが届いていたの。好奇心で覗いたら……」

 彼は机に置いてあった携帯を取り、画面を睨むように見つめる。

「そういうことか」

「ねえ。教えて。あなたは羽沢詩音じゃないの?」

 お願い。答えて。このままじゃ、私が私でいられない気がするから。

「少しだけ、外の空気を吸ってきてもいいかな……」

「逃げるつもりなの?」

「いや。夜風に打たれたいんだ。すぐに戻ってくるさ」

 胸が痛む。この痛みは、愛でも恋でもない。それだけは確かだった。

「携帯をここに置いていくからさ。それなら逃げれないだろう?」

「そうだね。そうして」

 私の言葉を聞き、彼は店を出た。


 それから、何十分経っても彼は戻ってこなかった。

 やがて閉店時間となり、私も店を出た。

 店の外を見渡しても彼の姿はもちろんなく、寂しさと寒さで死んでしまいそうだった。

 微かに残る彼の匂いが、私の涙腺を刺激する。

 もう涙を我慢する必要なんてないか。どうせ誰にも見られないし、ここで泣いてしまおうか。そう思ったが、不思議と涙は出てくれなかった。

 こんなにも泣き出してしまいそうなのに。もう、涙は瞼の裏にまで来ているのに。私は泣けなかった。


 この日、たった一つの携帯と嘘だけを残し、彼は私の前から消えたのだ。

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