第12話 何もないあの街で

この日は酷く酔っていた。疲れていたせいだろうか。それとも、朝から体調があまりよくなかったせいだろうか。

 二杯目の生ビールを飲み干したところで、私は平常を保つので精一杯だった。


「僕は海が好きなんだ。ほら。海って広いだろう?」

 あれ? 今なんの話をしていたんだっけ? どうして海の話になったんだっけ?

 確か小説の話をしていて……。あれ? なんの小説の話をしていたんだっけ?

「でも、僕はカナヅチなんだ。こんなに海が好きなのに、膝まで浸かったら怖くて震えてしまうんだ」

 詩音さんはハイボールが入ったジョッキに手をかけながら、天井を見上げる。

 そういえば、最初会った時にお酒はあまり強くないって言ってたっけ。

 詩音さんは酔った時、意味もなく天井を見上げる癖がある。今日はやたらと天井を見上げる回数が多いし、私と同じように、詩音さんも酷く酔っているみたいだ。

 天井を見つめながらなにを考えているのかは知らないが、見上げた時に見える喉仏が私は好きなのだ。

「潮の匂いを嗅ぐと不思議と心が落ち着くんだ。まるで、自分が海から生まれたかのようにね」

 詩音さんはジョッキに半分ほど残っていたハイボールを全て口に流し込み、サイコロ状の氷だけが残ったジョッキを優しくテーブルに置いた。

「そういえば、詩音さんの出身地ってどこなの?」

「部屋の窓から海が見える小さな町さ。千歳は、東伊豆町って知っているかい?」

 私は深く頷く。頷くと、頭がグラグラして気持ち悪かった。ああ。詩音さんのことを見つめることですらやっとだ。

「私、海ってあまり行ったことないから、海が近いってなんだか少しだけ羨ましいな。今度詩音さんの故郷に行ってみたい」

 家族で旅行をしたことなんて記憶にないし、東京湾以外の海なんて見たことがない。

 静岡の海はどんな色をしているのだろう。どんな匂いがするのだろう。詩音さんが好きな匂いは、どんな匂いなのだろう。詩音さんの心が落ち着いたように、私の心も落ち着くのだろうか。

 そんなことを考えていると、詩音さんは訝しんだ顔をしていた。

「どうかした?」

 私は恐る恐る聞く。

「……いや。そうだね。いつか千歳に僕が生まれた町に来てもらいたいよ。なにもないけど、凄くいいところなんだ」

 慌てるように、詩音さんは言う。言い終わると、詩音さんはまた天井を見上げた。

「本当になにもないんだけどね……」

 天井を見上げたまま、囁くように詩音さんは言った。言い終わると同時に私の方を向き、寂しそうに笑った。

 私、なにか変なことでも言ったかな。そんなことを考えていたが、今の私にそんな余裕なんてなかった。

 酷い目眩がし、私はとうとう横に倒れてしまった。


 それからの記憶はあまりない。

 詩音さんが私のことを介護してくれたのは覚えている。肩を貸してくれて、一緒にタクシーに乗ってくれて。家まで着いてきてくれたんだっけ。いや、最寄り駅までだっただろうか。

 でも、これだけは覚えている。

 タクシーに乗っている時、睡魔と戦っている私の耳元に向かって、詩音さんは優しく囁くように、『ごめんね』と言ったことだけは鮮明に覚えている。

 でも、それ以外の記憶はなにもない。気がつけば自宅のベットの上にいて、詩音さんはそこにはいなかった。

 その言葉だけが、鼓膜にこびり付いていた。

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