第9話 過去を語る

 文月。それは暑い季節のことだった。


 例年より随分と長かった梅雨が明け、本格的な夏が始まった。

 朝、窓から入る風に靡かれて奏でる風鈴の心地いい音で目を覚まし、着替えながらイチゴジャムをふんだんに塗った消費期限間近のパサパサの食パンを食べる。

 勤務時間が早い為、のんびりしている暇はない。

 少ない睡眠時間を削るわけにもいかないし、行儀は悪いが、こうするしかない。

 身支度が終われば、早急に家を出る。

 築数十年のボロアパートで一人暮らしを始めて早五年。最初はこの癖の強い古い匂いに嫌気が差していたが、五年も経てば嗅覚も慣れる。慣れるというより、麻痺の方が正しい。

 今ではすっかり、この匂いが好きになっている。この匂いを嗅ぐと心が落ち着くのだ。

 古びた扉を壊れないように優しく閉め、急な階段を転ばないように慎重に降りて、赤い自転車に跨ぐ。

 駅まで漕ぎ、地下駐輪場に停めて、満員電車に乗り込む。

 この季節の満員電車は、文字通り地獄だ。

 誰かの服に染み付いたナフタリンと汗のきつい匂い。背中に押し付けられる生暖かい体温。

 蒸し暑い空気のせいで、頭はクラクラする。この日は特に目眩が酷かった。

 それに、やっとの思いで電車を降りても、そこから学校まで八分ほど歩かなければならない。

 大きく吐いた溜め息すらも生暖かかった。

 額の汗を服の袖で拭き取り、うだるような灼熱の太陽を両手で仰いで勤務先の高校まで歩く。

 この夏は、目玉焼きすらも出来てしまいそうなくらいに暑かった。それは言い過ぎたかもしれないが、半熟卵くらいは余裕で出来たと思う。

 これから何時間も働かなければいけないのに、もうすでにクタクタだ。今すぐにでも、体を反転させて家に帰りたい。あの匂いを嗅ぎたい。でも、簡単に休むことが出来ないのが教師という職業だ。


 高校生の頃、教師という職業は凄く魅力的だった。

 公務員で、一人暮らしの女にしては給料もそこそこいい。それに、昔から絵を描くことが好きだった為、それを職業に出来るのも素敵だと思った。

 他に夢なんてなかったし、人助けが出来る仕事に就きたいと考えていた私は、迷わずこの道を選んだ。その頃にはもう、天文学の道も諦めていたし。

 でも、現実はそんなに甘くなんてなかった。

 思い描いていた職業とはほど遠い、残酷な世界だった。

 手のかかる素行不良の生徒に、やたらと要求が多い上司。保護者からのクレーム対応や、テストの制作や採点に時間を奪われ、遅くなる帰宅。割に合わない給料。

 上司には男子生徒と話していると男に媚びるなと言われ、女子生徒と話せば馴れ馴れしくし過ぎだと怒られる。

 そんな狂気染みた世界だったのだ。

 やりがいはもちろんある。生徒に感謝をされた時、この職業を選んでよかったと思えたりもする。でも、ここは息苦しい世界だった。



 職員室に入ると、室内は冷房が寒いくらいに効いていて、私は生き返る。まあ、一度も死んでなんかいないのだけれど。

 すでに勤務していた同僚と軽い挨拶を交わし、職員室のど真ん中にある自分の席に座る。

 家から持ってきたタオルを鞄から取り出し、首回りの汗をそれで乱雑に拭く。

 職員が揃ったら朝礼をし、自分が受け持つクラスへと向かう。

 出席確認を済ませたら、授業のあるクラスを美術室で教鞭を執る。それを、途中お昼休憩なんかを挟みながら六回繰り返す。

 それが、なんの変わりもない平日のルーティンだ。

 これを、この先何十年も続けると考えると憂鬱になる。だから、今は出来る限り無になろうと努力している。

 でも、私にはそれが出来なかった。

 それは、檜山ひやまという上司の女がいたからだ。

 檜山は化粧が濃く、やたらと無駄に声が大きく、新人いびりの激しい女だった。

 気に食わない者にはありったけの罵声、自分の思い通りにいかなかったら勝手にキレる。理不尽で自己中心的な女だった。

 そんな檜山に目を付けられたのが、転勤して一年目の私だった。

 今考えても、なぜそうなったのかよく分からない。なにか気に触るようなことをした覚えはないし、恨みを買うようなこともしていない。

 それに、知りたいとも思わないし、知ったところで今更なにも変わらない。

 そもそも誰でもよかったのかもしれない。自分より若くて、少しだけ物覚えが悪くて、気の弱そうな人なら誰でも。

 同僚の野田は『なにかあったらいつでも頼って』とか言ってくれるけど、結局なにもしてくれていない。そういうものなのだ。

 檜山の反感を買って標的が自分に変わるのを避けたい。その気持ちは分かる。だって、それが人間というものだ。

 いくつになってもいじめや嫌がらせは消えないし、大人になってもそれを見て見ぬふりをする人間がいる。

 それが私たちの生きている世界で、それがごく普通なのだ。

 見て見ぬふりをする人を悪だとは思わないし、助けてくれる人全てが聖人だとも限らない。

 ただひたすら耐える。私には、それしか出来なかった。それ以外の方法が、どこを探しても見つからなかった。

 でも、そんな日々に終わりが訪れたのが、二十八歳になった今年の夏で。

 誕生日ケーキに刺してあるロウソクの火が吹きかけた息で消えるように、あまりにも早く過ぎ去った日のことだったから、今では正確な日にちは覚えていない。ただ単純に、忘れたかっただけなのかもしれない。

 ただ、覚えていることがあるとすれば、空は雲一つなく、平生の私の顔色のように真っ青だったことと、夕方に震度四の地震があったことくらいだ。



 この日も、私は朝から檜山に怒鳴られていた。

 憤怒する檜山の口から飛ぶ無数の唾は、私の顔にこびり付く。その気持ち悪さに耐えながら、私は黙り込んでいた。

 怒られた理由は、私の私物が廊下に落ちていただけだった。

 大人のくせにものの管理すら出来ないのかと、何度も檜山は言う。

 怪訝そうな顔をすればまた怒られる。だから、今は我慢するしかないのだ。

 本日十二回目の『申し訳ございませんでした』を口にした時、ホームルームの終わりを知らせるチャイムが鳴った。

 檜山は皮肉そうな顔を浮かべて、私に聞こえるように大きな舌打ちをした。私もやり返そうとしたが、自嘲的に笑う檜山の顔を見てやめることにした。こんなことを檜山にしても、なんの意味もない。私が惨めになるだけだ。

 そんなことを考えていると、檜山に早く教室に行けと怒られ、私はまた謝った。


 職員室の重たい扉を開けて、私は教室に向かう。

 その足取りはやけに重かった。自分の失態と、檜山のせいだ。

 檜山の言い分も分からなくもない。ただ、そこまで怒鳴り散らかすのはどうかと思う。

 でも、私はなにも言い返せない。檜山は私の意見を聞こうとしない。そして、怒鳴り散らかす檜山を誰も止めようとしない。

 別にいいんだ。一生檜山と同じ高校で働くわけじゃないんだし。どうせ、あと数年で転勤が決まる。それまで耐えるだけだ。そのくらいなら、私にだって出来る。


 職員室は二階で、美術室は一階にある為、少し長い急な階段を降りなければならない。

 私は、重い足取りで階段を一段一段ゆっくり降りて行く。暑さや倦怠感のせいで目眩が酷く、真っ直ぐ歩くことで精一杯だった。

 落ちないように、手すりを掴んで足元をよく見ながら降りる。

 一段一段降りる度に、私は重い溜め息を零した。ああ。早く帰りたい。帰って寝たい。夢の中で迷子になりたい。そのまま帰れなくなれたらいいのに。

 そんな滑稽なことを願いながら、回り階段の踊り場まで降り、残り半分を降りようとした時だった。

 後ろから、背中を誰かに強く押された。

 何度も体を階段にぶつけながら勢いよく転がるこの時の私は、押したのが檜山だということはまだ知らない。


 気を失っていたらしく、目を覚ました時は病院のベッドで横になっていた。

 幸のことに軽傷で済んだらしいが、それでも全身が針で刺されたような鋭い痛みが私を襲った。

 檜山が私の背中を押すところを、同僚が見ていたらしい。

 同僚には、『今までなにもしてあげられなくてごめんなさい』と何度も謝られた。その言い方が少し傲慢のように思えて、なんだか腹が立った。別に頼んでなんかいないし。なにかをしようともしなかったじゃないか。なんで被害者ぶっているんだ。

 檜の処分はこれから決めると、同僚は言っていた。そんなことわざわざ私に言わなくていいのに。

 それくらい、私にとって檜山という女のことはどうでもよかったのだ。もうその名前を出さないでくれ。もう顔も見たくない。もう……。

 なんで背中を押したのか気になったりもしたが、知りたいとは思わなかった。知ったところで、押された事実は残り続けるからだ。


 それから、私は五日ほど入院した。上司には、退院しても一週間くらいは休んでいいと言われ、その期間のほとんどを自宅のベッドで横になって過ごした。

 どれだけ無気力でもお腹は空く。眠気もくる。でも、それを満たせばなにもない。抜け殻になった、空虚な私だけが部屋に残るだけだった。

 お腹が空いて起き、家にあるものを胃に流し込んでまた寝る。それを繰り返すだけだった。

 それから一週間を過ぎても、私は勤務することはなかった。

 上司や同僚から何度も連絡が来たが、私はそれら全てを無視した。

 気づけば学校は夏休みに入っていて、文月の終わりに私は退職届を出した。


 あの日をきっかけに、私はなにもかも全てが怖くなってしまった。いや、ずっと前からそうだったのかもしれない。決定打がこれだっただけなのかもしれない。そもそも、決定打なんてなんでもよかったのかもしれない。

 たまに外出するのも近くのコンビニかスーパーに行くかのどちらかで、必要最低限の外出はしなくなった。正確には、出来なくなってしまったのだ。

 惰眠を貪る益体のない日々が、少しずつ、私を奈落の底に突き落としていく。

 猛スピードで容赦なく過ぎ去る時間が、私だけを置いていく。

 退廃的な生活から抜け出したい気持ちは少なからずあるのに、気持ちでどうこう出来る問題じゃなかった。

 気づけば夏も終わり、長月に入っていた。

 蝉が鳴く音が途絶えても、儚い音を奏でる風鈴を片付けられないままだった。それくらい、私はなにに対しても無気力だったのだ。

 容赦なく流れる時は、私に目もくれなかった。

 世界そのものが、やけに他人のように思えた。それが、堪らなく怖かった。

 自分が自分じゃないように見えて、自分だけがこの世界の住民じゃないように思えて、恐怖のあまり嘆いてしまいそうだった。

 ああ。やっぱり、私はもっと早く死んでおくべきだったのだ。

 母に叱られている時は死にたくてしょうがなかったのに、父に愛されている時、私は少しだけ幸せを感じていた。だから、私は死にたくても死ねなかったのだ。

 今だってそうだ。こんなにも死にたくてどうしようもないのに、死ぬのが怖い。全てが終わってしまうことが怖いのだ。

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