第8話 吐露

 この夜がなかったら、僕はいつまでも嘘のままだったのかもしれない。

 僕の心のようにボロボロになってしまった千歳の脆い心を、優しく包み込んであげなければいけないと思った。撫でてあげなければいけないと思った。

 なにかをしてあげるという言い方は傲慢のように思えて好きではないけれど、それは僕にしか出来ないことだと思った。僕じゃなければいけないと、誰かが教えてくれているような気がした。そんな気がしたのだ。

 でも、この時の僕じゃ駄目だった。

 このままじゃ駄目だった。

 こんな僕のままじゃ、それが赦されなかった。赦されるはずもなかった。

 だから、僕は……。

 僕は、僕になろうとしたのだ。



     *



 日は沈み、満月が世界を照らしていた。

 輝く月に照らされる羽沢さんは、神秘的に美しかった。私は、それを忘我したように見つめる。

「では、最後に観覧車乗りましょうか」

 頷いた私を見て、羽沢さんは歩き出す。私はそれについて行く。


 扉が閉まり、私たちを乗せたゴンドラがゆっくりと空に向かって上って行く。小さく、そして遠くなる景色が綺麗だった。


「綺麗ですね」

 頂上に着いてしばらく経った時、私は無意識にそんな言葉を零していた。

 羽沢さんは外を眺めながら深く頷く。

「ずっとこの景色を眺めていたいくらい、とっても綺麗です」

 俯瞰する羽沢さんは続ける。

「このまま、なにもかも忘れて時間が止まってしまえばいいのに……」

 悲哀に満ちた小さな声だった。

 願いというよりは、祈りのようで。

 聞こえたというよりは、届いたといったほうが正しく思えて。

 この世界にある小さな音にですら掻き消されてしまいそうな、繊細で哀愁な声だった。

「すみません。変なこと言ってしまって。忘れてください」

 なにも言えずに戸惑っていた私を見て、慌てるように羽沢さんは言う。

 羽沢さんがどんな思いでそんな言葉を口にしたのか、私にはなにも分からない。

 吐息を吹きかけたら壊れてしまいそうで、触れてしまったら崩れてしまいそうな。空よりも高く、海よりも深い。そんな繊細な祈りのようだったから、私はなにも聞けなかった。聞いてはいけないような気がした。聞いてしまったら、なにかが終わってしまうように感じた。

 怖かったのだ。私はこの時、羽沢さんの本当の姿が見えたような気がして怖かったのだ。

 それから地上に戻るまで、私たちの間には沈黙以外の言葉が生まれなかった。他人のように思えていた沈黙という言葉が、やけに身近な存在のように思えた。

 数分の間、羽沢さんは別人になったかのように心ここに在らずだった。


「とても綺麗でしたね」

 先ほどまで乗っていた大観覧車を眺めながら、羽沢さんは言う。その言葉を聞いて、私は小さく頷いた。

「じゃあ、帰りましょうか」

 言い終わると、私の返答を聞かずに羽沢さんは歩き出した。

 少し遅れて、私はその背中を追いかける。その背中は酷く寂しそうだった。後ろから抱き締めたかった。でも、そんな勇気は私にはない。それに、抱き締めてはいけないような気がした。

「あの……」

 私の声を聞いて羽沢さんは立ち止まり、体ごと振り返る。

「どうしました?」

「このあと、少しだけ時間ありますか?」

 羽沢さんは困ったような顔を見せる。

「少しだけ。ほんの少しだけお話がしたいです」

 あとになって思えば、この時、なぜこんな言葉を紡いだのか、私にですらよく分からない。

 多分、大した理由なんてない。

 でも、羽沢さんが泣いているように私を見つめるから。その顔が、数ヶ月前の私に見えたから。

 ただ、羽沢さんに私のことをもっと知ってもらいたかったから。私の全てを理解してもらいたかったから。

 もう少しだけ、羽沢さんと一緒にいたかったから。少しでも長く話していたかったから。

 理由なんてそれだけでいい。それ以外になにがあるっていうのだ。



「話ってなんでしょう?」

 浅草駅前にある小洒落た喫茶店で、私たちは向かい合って座っていた。隣はまだ無理だけれど、流石に向き合って座るのはもう慣れたようだ。

「羽沢さんにとっては本当にどうでもいい話なんですけど、どうしても聞いて欲しくて……」

「いいですよ。なんでも聞きます」

 羽沢さんが囁く優しくて甘い言葉が、私の心に微に入り細を穿つ。

 私は深く深呼吸をし、吸い込んだ息と共にゆっくりと言葉を吐き出す。


「本当は高校の美術の教師だったんです」


「だったってことは……」

「お察しの通りです。もう辞めてしまいました。今は無職です」

「そうだったんですね」

「ごめんなさい。会社員だなんて滑稽な嘘をついてしまって」

 羽沢さんは真剣に私を見つめる。その瞳に映る私は、矮小でやけに情けなく思えた。

 無職の私を、羽沢さんはなんと思うのだろうか。惨めだろうか。愚の骨頂だろうか。嘘をついていた私に、羽沢さんはガッカリしただろうか。ああ。やっぱり言わない方がよかったのだろうか。

「大丈夫ですよ。人って誰でも嘘をつきます。隠したいことなんて、誰にでも腐るほどありますよ」

「やっぱり、羽沢さんは優しい人ですね」

「そんなことないです。僕もその一人だから、真田さんの気持ちが分かるだけです」

「羽沢さんが隠してることってなんですか?」

「うーん。それはまだ秘密です」

 羽沢さんは、冬に降る雪のように白くて細い人差し指を唇に当てる。

 まだってことは、いつかその時が来るのだろうか。それはいつなんだろうか。なぜ、今じゃ駄目なんだろうか。

 頭に浮かぶ疑問は、枚挙に遑がなかった。それでも、私はその時を待とうと思った。根拠も理由もないけれど、いつかその時が来ると信じていたから、待ってみようと思ったのだ。

「でも、なんで僕に本当のこと言ってくれたんですか?」

「感謝しているんです」

「感謝……ですか?」

「はい。初めて羽沢さんに出会った日、私はあそこで歩く練習をしていました」

 私の言葉を理解出来なかったのだろう。羽沢さんは私の言葉を反芻したあと、口を噤む。


 蘇る記憶は痛々しく、俎上で胸をナイフで突き刺されたような感覚に陥る。

 自分であの日のことを思い出そうとするなんて、少し前の私には考えられない。

 でも、大丈夫。今の私は、あの頃の私とは違う。

 私は胸を強く握り締め、もう一度深く深呼吸したあと、彼の瞳を捉え、口を開いた。

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