第7話 王子様
私を起こしたのは、やたらとうるさい目覚まし時計の音ではなく、電話のコール音だった。
こんな時間に電話なんて一体、誰が? もしかしたら……。なんて期待をしながら電話に出ると、懐かしい声が聞こえた。父だ。
「久しぶり。体調は大丈夫か?」
穏やかな声が、私の鼓膜に滑り落ちる。
「うん。ここ最近は調子いいよ。それよりどうしたの? 急に電話なんかかけてきて」
重い瞼を人差し指で擦りながら言うと、それから少しだけ沈黙が流れた。寝起きで掠れた声だったし、聞きづらかったのだろうか。
「千歳は寒さに弱かったらさ。少し心配だったんだ」
「大丈夫だよ。お父さんの体の方こそ心配だよ」
「僕ならもう大丈夫さ。むしろ、前より調子いい気がする」
それはよかったと言おうとしたが、胸が苦しくなって言うのはやめた。父の体が悪くなったのは、私が原因だからだ。もう心配なんてかけさせない。
「あのさ……」
父はなにかを言おうとしたが、途中でそれを拒んだ。
「どうしたの?」
黙っている父に、私は聞く。
言い終わっても、父は黙ったままだった。それからしばらくの間、私たちの間に会話は生まれなかった。
「……話がしたいんだ」
どれくらい沈黙を続けていたのだろうか。ややあっと父は口を開く。
「今すればいいじゃん」
「会って直接話しがしたいんだ」
会って話がしたいだなんて、そんなにも大事な話があるのだろうか。
「いいけど、今日は無理だよ」
「それなら、明日の昼は大丈夫か?」
「うん」
明日こそ公園で本を読もうと思ったが、まあいい。また別の日にするか。
「じゃあ、十二時に練馬駅で待ってるよ」
「分かった」
言い、私は電話を切った。鳴り響くツーツーツーという音が、私の頭から離れなかった。
そんなことより、早く支度しないと。
有り余るほど時間に余裕はあるが、心を落ち着かせる時間はいくらあっても足りない。少しでも長く、少しでも多く。私は、羽沢さんに会うために心の準備をしなければならないのだ。
私は急いで朝食を食べ、心を落ち着かせながら身支度を始めた。
*
やけに冷えるなと思い、携帯で日付を確認すると、今日から師走に入っていることに気づいた。曜日感覚が消えているのは知っていたけど、まさか日にちまでこんなにも忘れているとは。
口から雪でも降ってるかのように、吐息は真っ白に染まっていた。
悴む手を擦り合わせながら、私は羽沢さんを待っていた。
昨日降った雨がまだ乾いておらず、アスファルトはいつもより濃い色をしていた。虹色を掻き混ぜたような、そんな色をしていた。それを、人々は容赦なく踏み去って行く。
私が履く薄い桜色のハイヒールが、太陽に照らされて宝石のように輝いている。昨日、羽沢さんと別れたあと急いで買ったものだ。
首はマフラーで覆われており、顔と手以外は暖かかった。今日も、手袋を忘れてしまった。失態だ。
風はなく、今日はまだ前髪を直していない。
新しく買った服にハイヒール。いつもより時間をかけた化粧。準備万端だ。
なんたって、今日は正真正銘の初デートだ。
付き合ってもいないからデートといっていいのか分からないけど、そっちの方が気分が上がるから私はそう呼ぶ。それに、これをデートと呼ばないのなら、なにをデートと呼ぶのだ。
それにしても、遊園地なんでいつぶりだろう。高校生の時、学校行事で訪れた以来だろうか。
絶叫系のアトラクションは嫌いだけど、羽沢さんと二人で夜景を見ながら観覧車に乗れるならと、私は遊園地を提案した。
遊園地なら羽沢さんとの距離が物理的にも心理的にも近づくし、デートの定番の場所といえば遊園地だろう。
羽沢さんは楽しんでくれるのだろうか。私に小説について饒舌に語るように、満面の笑みを見せてくれるのだろうか。
すでに緊張で死んでしまいそうだったが、羽沢さんのことを考えながらひたすら心を落ち着かせていた。
「すみません。時間間違えました?」
「いえ。二時半に待ち合わせです」
初めて食事をした時と同じ服装に、あの日から少しだけ伸びた癖のある髪。相も変わらず王子様は美しい。もう、羽沢さんではなく王子様と呼ぼうか。いや、流石にそれはやめておこう。
腕時計に目をやると、時刻は午後二時だった。
私は今日、こんなにも寒い中、一時半前にはスタンバイしてる。我ながら狂気な女だ。正気の沙汰じゃない。
「ですよね。焦りました。余裕もって来たつもりだったのに、もう真田さんがいたから」
羽沢さんは、安堵の溜め息を零す。その吐息が、道端に咲く露草に触れる。
少し前まで、人に踏まれて下を向いて咲く露草が、どことなく私と重なるから嫌いだった。でも、今はコスモスのように上を向けている気がするし、露草のことも嫌いではなくなった。
「楽しみだったので、つい早く来てしまって」
「僕もです。でも、早く来てよかった。三十分も長く遊園地にいれますよ」
悪戯をする早熟な子供のように、羽沢さんは白い歯を見せて無邪気に笑った。その姿ですら狂おしいほどに愛おしい。胸がきつく締め付けられる。
「では、行きましょうか」
この上ない笑顔で『はい』と返事をし、私たちはゆっくりと駅のホームに向かって歩き出した。
日比谷線に乗り、途中で銀座線に乗り換え、浅草駅で降りて、そこから歩いて遊園地に向かう。
土曜日にしては珍しく、銀座線の車内はやけに空いていた。
浅草駅に向かう列車内で、私たちは肩が触れてしまいそうな距離に並んで座った。
隣に座る羽沢さんの心臓の音が聞こえた気がした。気がしただけで、正直なところ多分聞こえていない。でも、信じている方が幸せだと思うのだ。
改札を出ると、午後二時半を過ぎていた。
隣を歩く羽沢さんに、私は足音を合わせる。
コツコツとアスファルトに刻む音が、いつもより明るかった。まるで、私の気分と比例しているようだった。
軽い雑談を交わしていると、あっという間に遊園地に着いた。カップラーメンにお湯を入れて出来上がるまでの時間より圧倒的に長いはずのに、不思議だ。その何倍ものスピードで過ぎ去ったような感覚だった。高揚感というものは本当に凄い。
入場券を買い、園内に入る。
休日というだけあって、園内は家族連れが多かった。
マップを貰い、私たちは立ちながら話し合っていた。
「最初はなにに乗りますか?」
「観覧車は夜景を見ながらがいいので、最後の方がいいですよね。なので、ここは無難にジェットコースターとかどうですか?」
「大変お恥ずかしいのですが、私、ジェットコースター苦手でして……」
「そうなんですか? それは失礼しました。それなら、まずはコーヒーカップとかから乗りましょうか?」
「いいですね。行きましょう!」
言い、私たちはまた歩き出す。
その間も、絶え間なく雑談を交わした。沈黙という言葉が、他人のように思えた。
すぐ隣で聞こえる羽沢さんのハスキーな声が、私の鼓膜を癒す。もう、鼓膜すらも惚れているようだ。
すれ違うカップルは手を繋いでいて、私はそれを酷く羨ましく思った。
この冷たく凍った手を、あの骨ばった白い手で温めて欲しい。そんな滑稽でどうしようもない願いを秘めていた。
コーヒーカップ乗り場まではそこそこ距離があって、そこに着くまでの間に、なにやら美味しそうな甘い匂いが鼻腔を擽った。
匂いの素を探るように園内を見渡すと、そこにはクレープの屋台があった。
私は大の甘党で、スイーツの中でクレープは特に大好物だ。脳が欲しがっていた。駄目だ。我慢しないと。そんなことを考えていても、脳は言うことを聞いてくれない。
「あ、あの……」
「どうかしましたか?」
不思議そうに、羽沢さんは私を見つめる。
「クレープ食べませんか?」
抑えていた私の脳と胃は、欲望に負けてしまったそうだ。食いしん坊だと思われたらどうしよう。まあ、間違ってはいないのだけれど。
「いいですよ。お昼ご飯食べていなかったので、お腹ぺこぺこだったんです」
少し照れくさそうに羽沢さんは言った。
後に知ったことだが、羽沢さんも相当な甘党らしい。また一つ増えた羽沢さんとの接点が堪らなく嬉しかった。
私たちはチョコバナナクレープを二つ購入し、近くのベンチに並んで腰をかけた。
二人合わせて合掌し、いただきますと呟いた。
砂糖たっぷりの生クリームに、ミルク感の強い甘いチョコレートソース。自然の甘みが凝縮された熟れたバナナに、 それを包むモチモチな生地。絶品だ。考えた人を称えたい。崇拝すらもしたい。
「美味しそうに食べますね」
「ここのクレープとても美味しくて……」
隣に座ってる羽沢さんが、頬を緩めて笑顔で見つめてくるものだから、私は恥ずかしくて声が小さくなってしまった。いつものことだ。そろそろ慣れないとな。
「真田さんは、クレープの起源って知っていますか?」
私は首を小さく横に振る。
「フランスの北西部にブルターニュ地方という場所があるんですけど、そこは小麦の栽培が困難で、そばが常食だったんです。古くはそば粥やそばがきにして食べていたんですけど、そば粥を偶然焼けた石の上に落としたところ、薄いパン状に焼き上がることを発見したそうです。それからはそれを食べるようになり、石で焼いたところから、フランス語で『galette』。それから、ガレットというものが生まれたそうです」
食べながら聞く私に、羽沢さんは続ける。饒舌に語るその姿に、私は釘付けになっていた。
「それから、十七世紀フランス国王のルイ十三世の妻アンヌ王妃が、ブルターニュ地方に訪れた時、現地の庶民が食べていたガレットを気に入り、宮廷料理に取り入れられたそうです。そして、そば粉から小麦粉に変わり、鶏卵やバターや砂糖などを使うようになり、クレープが生まれたそうです」
「とてももの知りなんですね。クレープ大好きなのに、なんで生まれたのか、恥ずかしながら私はなにも知りませんでした」
出会った時から頭のいい人だとは気づいていたけど、羽沢さんは記憶力も優れているのか。なにからなにまで恵まれ過ぎだけど、流石王子様だ。
「知らなくて当然のことですよ。小さい時に本で読んだことがあったんです。よかった。今日まで覚えていて」
気づいたら、私たちはクレープを食べ終わっていた。
立ち上がってゴミ箱にゴミを捨て、私たちは今度こそ、コーヒーカップ乗り場まで歩いていった。
それから、ゴーカートやお化け屋敷、小さい子供向けのジェットコースターに乗った。
口から零れ落ちた吐息が猛スピードで地面に触れるように、あっという間に時は流れ、時刻は午後七時を回っていた。
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