第6話 幸せという名前
群青色の大きな傘を差し、傘にぶつかる雨の音に耳を澄ませながら、雨露に濡れた露草を横目に歩き出す。
途中、視界の先の道端に咲くコスモスの花弁を、その場にしゃがみ込んでそっと優しく撫でる。雨にも負けないでね。そう囁きながら立ち上がり、またゆっくりと歩き出す。
東京都内の駅のホームは、少しばかり酸素が薄い気がする。
多方向から聞こえる誰かの咳、雨が地面を叩く音にも負けない足音や話し声、空気中に飛び交う他人の白い吐息、長時間かけて整えた前髪を容赦なく崩す冷たい風、雨と寂しさを綯い交ぜにした酸っぱい匂い。この匂いを嗅いでいる時は、私の心は不思議と落ち着くらしい。
今日も、平生の時を過ごす。
人は、これに『幸せ』という名前を付けたらしい。
少し前までなら、私にはその意味が理解出来なかったと思う。
数ヶ月前までの私は、主人公が恋に落ちるまで溜め息が出るほど長い少女漫画のように、怠惰で退屈な日々を送っていた。
でも、羽沢さんと出会ってから私の日常が少しだけ輝き始めた。まるで、出口が見えなかった長い長いトンネルから、一条の希望の光が差し込んだように、私の人生に光が差し込んだのだ。
濡れた階段を滑らないように手すりを掴みながら上り、人混みを抜けて改札を出る。外に出ると、少しだけ降る雨が弱くなっていた。
傘を叩く雨の音に浸る。小気味いいその音楽が私は好きだ。
低気圧頭痛は嫌だけど、雨の日は落ち着く。
何日も雨の日が続く梅雨は鬱になるけれど、たまに降る雨が好きだ。
雨は空の匂いを連れてきてくれるから。あの届かない空を掴めた気がするから。私は小さい時から雨の日が好きなのだ。
久しぶりに訪れたこの街は、昔見た純愛ドラマの聖地だった。
吉祥寺───そんな洒落た名前のこの街に、私は一度だけ訪れたことがある。
あれは、確か今から十余年も前のことだ。
埼玉県の田舎町で中流家庭の長女として生まれた私は、酷く都会に憧れていた。
お洒落で格好いい。月並みの言葉だが、私にとって、東京というのは憧憬に近いものだった。
そんな思いや期待を乗せて、聖地巡礼をしに初めて吉祥寺に訪れたあの日。
私は人の多さに目が眩み、道に迷ってしまったのだ。
恥ずかしくて、どうしようもないほどに情けなくて、無力な自分がやるせなくて。その場で泣き出してしまいそうだった。いや、認めたくないだけで少しだけ泣いていたのかもしれない。
ただ、そんな時私は、肩にギターを背負ったとある男性に助けられた。
穏やかな笑顔に男らしい力強く太い声。語尾に『ね』が付くのが特徴的で、差し伸ばしてくれた手は温かくて、今でも冬に手袋を付ける時、その温もりを思い出しては懐かしくて胸がいっぱいになる。
そんなことがあって、私は人助けが出来る仕事に就こうと思った。
現実はこのザマだが、兎にも角にも、私にとってこの街は感慨深い。
人には恥ずかしくてあまり言えない、言いたくないほろ苦い青春の思い出。
記憶力が著しく貧弱な私でも、あの日を鮮明に思い出せる。
なんだか懐かしい気持ちになり、琴線が揺れる。目頭が熱くなって少し涙が出てしまいそうだった。
私は涙脆い。そろそろ三十の大台に乗るのに、昔からちっとも変わらない。変わっていくのは周りの景色と私自身の年齢と見た目だけで、怠惰な自分だけが世界に取り残されたように、昔からなにも変わらない。
宛もなく歩きながら、途中、コンビニで買った烏龍茶のペットボトルの蓋を開け、それを胃に流し込む。片手に傘を持ちながらだった為、その動作は少しだけぎこちなかった。
雨が降ってなかったら、本当は近くの公園のベンチにでも座って本を読もうかと思っていた。でも、生憎の雨だ。別に嫌いではないけれど。
ただ、この街に久しぶりに訪れてみたい。そんな動機で来てしまったから、予定も目的もない。
少し散歩したら帰ろう。帰ったら、久しぶりに好物のハンバーグでも作ろう。それもチーズ入り。デザートにはロールケーキを食べて、そして、そのあとは好きなテレビ番組を見て、ベッドに横になって本を読みながら眠りにつくのだ。なんてことを考えていた。
降る雨は止むことはなく、我武者羅に地面を叩いている。
朝の天気予報では、美人のお天気お姉さんが自信満々に夜には止むと言っていた。どうせ暇だし、明日晴れたらまたここに来よう。今度こそ、ちゃんとベンチに座って本を読もう。
駅に戻って券売機で切符を買い、改札を通る。ホームには、学校終わりの学生が多かった。
電車が来るまで五分ほどあった。長くも短くもない時間。どうやって時間を潰そう。そんなことを考えながら、小さく欠伸をした。
瞳に小粒の涙が滲み、それを人差し指で拭き取る。そんな時間の狭間だった。
黄色い点字ブロックより数メートル離れて佇んでいた私の視界の先に、見覚えのある後ろ姿があった。
見間違えるはずがない。あの華奢で痩躯な背の高いシルエット。ダボッとした真っ黒な服装。羽沢さんだ。
羽沢さんは、私に気づいていないようだった。
急に話しかけたら、どんな反応をするのだろうか。目を大きく見開いて、私を見つめるのだろうか。ちょっとだけ、喜んでくれるのだろうか。笑ってくれるのだろうか。そんなことを考えるだけで、私は幸せだった。
早く声をかけよう。でも、なんて声をかけようか。
黄色い点字ブロックの真上に立つ羽沢さんに、私は面映ゆい気持ちを抑えながら一歩一歩近づく。悪戯を企んでいる時の子供の心境は、こんな感じなのだろうか。羽沢さんの反応が楽しみでしょうがない。
触れてしまいそうな距離まで近づくと、羽沢さんの呼吸音が鼓膜に届いた。酷く荒い呼吸だった。
「……羽沢さん?」
恐る恐る訝るように聞く声が、雨の音に掻き消されてしまいそうだった。
羽沢さんの肩が上下する。反射的に振り返った羽沢さんは、私の顔を見て驚いていた。ただ、その顔は私が想像していた顔ではなかった。
「真田さん……どうしてここに?」
羽沢さんは睨むように私を一瞥して、すぐに地面に目を向けた。
「お散歩に来ていたんです」
私が答えても、羽沢さんは目を合わせようとしてくれなかった。いつもは合わせてくれるから、少しだけ寂しかった。まあ、いつもは恥ずかしがって私が合わせようとしないのだけれど。
「顔色悪いですけど大丈夫ですか?」
いつもより血色の悪い唇だった。プールの授業後みたいな唇だった。
「少し体調悪くて……低気圧に弱いんです」
「大丈夫ですか?」
もう一度、私はしつこく聞いた。
本当は、私も同じですと言おうとしたが、それよりも羽沢さんの体調が心配だったからだ。
「今日はお仕事は?」
「お休みです」
「ならどうしてここに?」
自分でも踏み込みすぎた質問だと思った。取り消そうとしたが、口を開くよりも前に羽沢さんが答えを告げる。
「学生時代の知り合いと食事をする予定だったんですが、向こうの急用で取り消しになってしまって。今はその帰りです」
羽沢さんは平生のように私の瞳を真っ直ぐに見つめながら言っていたが、嘘をついていることは、この私にでもすぐに分かった。
吉祥寺駅の近くに住んでいるのに、吉祥寺駅のホームで帰りの電車を待つのはおかしい。
でも、嘘をつくということは隠さなければならないなにかがあるからで。
私には言えないそのなにかが、今、ここにあって。目で確認することは決して出来なくて、羽沢さんの口からでなければ知ることも出来ない。羽沢さんが隠すのなら、私に知る権利もない。
でも、気づいてしまった以上、知りたいと思うのが本懐で。
知りたいと願う反面、知ってしまうのが怖いという気持ちになる。
嘘に気づいてしまうことは、そういうものなのだ。
「明日、時間ありますか?」
悩んだまま黙っていた私に、唐突に羽沢さんは聞いた。
その言葉によって引き戻された現実は、少しだけ恐ろしく見えた。まるであの日のように。
「はい。明日は一日中暇です」
正確には明日も。
「もしよかったら、どこかお出かけに行きませんか?」
羽沢さんは照れくさそうに言った。その姿を見て、胸にしがみ付いていたモヤモヤが薄れる。
「……行きたいです」
「よかった。断られたらどうしようかと思いました。あ、行きたい場所とかってあります?」
羽沢さんは安堵の溜め息を零す。
断るわけないじゃないかと言いたかったが、心の中で叫ぶだけにした。
「うーん……遊園地に行きたいです」
「いいですね。じゃあ、明日遊園地に行きましょうか」
気づけばモヤモヤを完全に忘れ、溜飲を下げていた。嬉しい気持ちだけに溺れていた。
羽沢さんにデートに誘われるなんて、夢の中でしか体験してなかったのに。こんなにも急に現実でその時が訪れるなんて。
明日は、いつもよりもっとお洒落をしよう。もっと時間をかけて身支度をしよう。
吉祥寺の公園で本を読む予定は消されてしまったけど、そんなことなんてどうでもよかった。
羽沢さんと過ごすかけがえのない時間が、今の私にとって、一番の幸福だったからだ。
なにか大事なことを忘れてしまった気がするが、思い出そうとはしなかった。明日が楽しみで仕方がなかったのだ。
*
もしも、鳥が飛び方を忘れてしまったら、魚が泳ぎ方を忘れてしまったら。この先、彼らはどうやって生きていくのだろうか。
僕が君を忘れてしまったら、どんな顔をして生きていけばいいのだろうか。君の声を忘れてしまったら、なにを信じて生きていけばいいのだろうか。
いっそのこと、忘れてしまった方が楽なのかもしれないが、やっぱり、僕はあの時死んでおくべきだった。君のことなんて忘れないように、あの時死んでおくべきだったのだ。
狭い個室で一人、携帯の明かりだけを頼りに、僕はあるはずもない正解を探していた。
明日は遊園地か。遊園地なんていつぶりだろう。いや、行ったことなんてあったのだろうか。
明日に備えて、あまり遅くならないうちに寝よう。そう思ったが、僕は目を瞑ったままで眠りにつくことが出来なかった。
明日が楽しみで仕方がなかったのだ。
そうか。僕はもう、すっかり……。
明日はどんな話をしよう。どんな乗りものに乗ろう。そうやって明日の楽しみを数えているうちに、気づけば眠りについていた。
早めにセットしておいたアラームの音で目を覚まし、僕は体を起こす。重力を忘れたように、やけに体が軽かった。
支度をして外に出ると、鳩が目下で元気よく飛んでいた。
鳥が飛び方を忘れないように、僕も君のことを忘れることなんてないのだろうか。
僕は天を見上げながら深呼吸をし、待ち合わせ場所に向かって歩き出した。
もしかしたら、今日は僕の方が早く着くかもしれないな。なんてことを考えていると、歩くペースが早くなっていることに気づいた。
そんなにも楽しみなのかと、僕はその場で笑ってしまいそうだった。
早く会いたい。会って話がしたい。その思いに嘘はない。その思いだけは本当だった。
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