第5話 誰もが己の人生を

 店内に入ると、古本の匂いが鼻を擽った。もうすっかり、この癖のある匂いにも慣れてしまったようだ。今では恋しくもある。この匂いを嗅ぐのが楽しみにもなっている。

 羽沢さんと出会ってから、私は最寄り駅の近くにある古書店に通うのが日課になっていた。羽沢さんにおすすめされた本を、次に会う日までに読む為だ。

 さあ。今日はどれを読もうか。昨日は銀河鉄道の夜を読んだし、今日はセロ弾きのゴーシュにしようか。でも、羽沢さんは夏目漱石の三四郎もおすすめしていた。確か三島由紀夫の仮面の告白も。

 どうせまた明日も来るのに、私はなんでこんなに真剣な顔をしながら、必死になって迷っているのだろう。なんだかおかしく思えて笑ってしまいそうだった。

 本を眺める度に羽沢さんの笑顔が頭に浮かんで、私もつられて笑ってしまった。側から見たらただの気色の悪い人間なのだが、私は幸せでいっぱいなのだ。

 そうか。私は今、幸せなのか。そうかそうか。幸せなのか。思いながら、私はまた笑った。

 幸せを感じた時、人は無意識に笑ってしまうものなのだと、この時初めて知った。

 私は一通り店内を見渡しながら歩き、目に入った本を手に取る。その時だった。


「真田さん? どうしてここに?」


 後ろから、私を呼ぶ羽沢さんの声が聞こえた。ああ。妄想も流石にエスカレートし過ぎたようだ。

 私はその声が聞こえた方に振り向きもせず、手に取った本を眺めた。すると、私の肩が優しく二回叩かれた。

 私は反射的に体ごと振り返る。そこには、微笑を浮かべる羽沢さんがいた。

「まさかこんなところで会うとは、すごい偶然ですね」

 どうして? どうして羽沢さんがこんなところに? 聞こうとしたが、羽沢さんが先に答えを告げる。

「用事で練馬に来ていたんですけど、歩いていたらふと、雰囲気のある古書店が目に入ったので寄ってみたんです。そしたら、まさか真田さんと遭遇するとは」

 笑いながら、淡々と羽沢さんは続ける。

「真田さんはよくここに来られるんですか?」

「……はい。羽沢さんに本をおすすめされるようになってからですけど」

「そうなんですね。素敵な場所ですね。ここは。落ち着いていて凄く雰囲気がいい」

 羽沢さんは、店内を見渡しながら言う。

 駄目だ。いつもは心の準備をしてから会っているからまだマシな方だが、こんな急に目の前に現れるなんて。嬉しくてしょうがないのに、それ以上に緊張してどうしようもない。なにか話さなきゃ。なにか言わなきゃ。

「真田さんが持っているのは、ヘミングウェイの著作ですか?」

「あ、はい!」

 緊張のあまり、私は大きな声を出してしまった。レジ前にいる男性店員に不思議そうに見つめられ、恥ずかしさで死んでしまいそうだった。

「ヘミングウェイの物語はとても面白いですよ。本当は、次に会う時おすすめしようと思っていたんです」

 私は黙ったまま、羽沢さんのハスキーな声に耳を澄ませていた。

「書籍ほど信頼出来る友はいない」

 羽沢さんは言いながら本に目を向け、私の目を捉えてまた口を開く。

「ヘミングウェイの言葉です。学生時代、人間関係が苦手で孤独だった僕にとって、いつも勇気づけてくれた言葉です」

「素敵な言葉ですね」

 あなたの方がお素敵ですよ。なんて言いたかったが、流石に言えるわけない。

「僕がこの言葉に何度も救われたように、きっと、真田さんを救う言葉がどこかにあると思うんです。だから、こうして色んな本を読んで欲しいって、勝手ながら思ってます」

 この人のどこに惹かれているのかと聞かれたら、今の私は間違いなくこう答える。

 それは、根っからの優しさだと。

 悪魔のように美しく整った顔も好きだ。背が高く、どんな服を着ても似合うスタイルも好きだ。聞くだけで心が安らぐ声も、笑った時に見える白い歯も。愛おしくてしょうがない。

 でも、私は羽沢さんの優しさに恋をしたのだと、この時初めて気づいたのだ。我ながら、気づくまで時間がかかり過ぎているのだが。それでも、気づけたことに嬉しくて、羽沢さんの目の前で大きく笑ってしまった。

 今の私は、あの頃とは違う。羽沢さんがいるから、今はちゃんと笑えている。幸せだと思ったりも出来るのだ。

 愛する人がいる世界で息をすることが、最大の幸せなのではないのだろうか。笑いながら、私はそう考えていた。



     *



 外に出ると、雨の匂いが鼻を擽った。

 僕は両手を頭の上に乗せて、雨水に濡れないように体を守りながら、早足で近くのコンビニに向かった。

 コンビニにでビニール傘を買い、それを片手に駅に向かって歩き出す。

 空いている方の手で胸を握り締めて、荒ぶる鼓動を抑える。大丈夫。大丈夫。何度も自分にそう言い聞かせながら、重い足取りで駅に向かった。

 駅に着き、券売機で適当に切符を買い、改札を通る。

 階段を一段一段ゆっくり降りていると、強烈な目眩が僕を襲った。僕はすかさず手すりを掴み、何度も深呼吸をして呼吸を整えながら階段を降りた。

 次の特急列車が来るのは、十五分も先のことだった。

 長くも短くもない時間だが、心を落ち着かせるにはあまりにも少な過ぎたし、十五分もの間、自制心を保てる自信もなかった。

 僕は出来るだけなにも考えないようにしようとしたが、僕と同じようにホームで電車を待つ人たちの顔を見ると、それは叶わぬ願いだった。

 疲れ果てた顔をしたスーツを来た中年男性、重そうな荷物を肩に背負った学生、手を繋ぎながら楽しそうに笑い合うカップル、イヤフォンを耳に付けて、無表情でひたすら音楽を聴いている女性。

 彼らは、この世界にどんな思いを抱いているのだろう。僕と同じように、ご都合主義にいかない世界に嘆いているのだろうか。それとも、そんな世界でも、自分は幸せに生きていると思っているのだろうか。

 明日を拒み、死にたいと願いながら、勇気がなくて生き続けている人は僕以外に何人いるのだろうか。

 考えていると、いつの間にか、長距離走をしたあとのように呼吸が荒くなっていた。

 あと三分だ。あと三分経てば……。

 僕は鉛のように重い足を動かし、黄色の点字ブロックの上に立って、この世界を拒絶するように目を瞑った。

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