第4話 東京のことを少しだけ好きになれたらいい

 羽沢さんと過ごした夜、私は酷く懐かしい夢を見た。夢を見たのも久しぶりだったと思う。



 学校帰り、自宅の重い玄関の扉を開けると、私は音を立てずに早足で階段を登って、自分の部屋に逃げ込むように入った。

 誰にも聞かれないように静かに自室の扉を閉め、扉に鍵をかけ、黒い遮光カーテンを閉める。こうでもしないと、気が狂ってしまいそうになる。

 壊れかけの安もののイヤフォンを耳に付け、プレイヤーで爆音で音楽を流す。適当に流した曲は、イギリスのバンド、ビートルズのイエスタデイだった。

 まるで、世界から全ての音を消し去るように、私はポール・マッカートニーの声だけに耳を澄ます。鼓膜に滑り落ちる優しい声が、落ち着かない心を優しく撫でる。それでも、私の鼓動は治まらない。

 私は大きな溜め息をつき、制服を脱いで部屋着に着替えたあと、そのままベッドに倒れ込むように横になった。

 暗闇の中、私は天井を眺めながら自分の存在意義についてひたすらに考える。

 死にたい。消えたい。ここから逃げ出したい。何度も頭の中でそう叫んだ。叫びながら、私はいつの間にか頬を濡らしていた。

 人差し指で頬を伝う涙を拭き取り、それを暗闇の中でひたすら眺める。眺めているうちに、曲がイン・マイ・ライフに変わった。

 カーテンを捲って窓の外を見ると、常夜灯に照らされた小さな子供が、微笑を浮かべる母親と手を繋ぎながら歩いているところが目に入った。

 それを見て、強烈な嫉妬心が私を襲う。

 私は母と手を繋いだことなんてない。本を読んでもらったことも、学校行事に参加してくれたこともない。あんな笑顔だって、一度も向けられたこともない。

 普通の家庭とはなんだろうか。普通の母親は、ああやって手を繋いでくれるのだろうか。私の顔を真っ直ぐに見ながら、幸せそうに笑ってくれるのだろうか。

 考えながら、私はまた涙を流した。こうやって、夜の帳に一人で涙を流すのはもう何度目だろう。

 いつからだろう。死にたいと願うようになったのは。

 どうしてだろう。そう願ってしまうようになったのは。


 しばらく天井を眺めているうちに空腹に耐えられなくなり、私は部屋を出た。物音を立てずにそっと扉を閉め、転ばないように手すりを掴んでゆっくりと階段を降りる。

 階段を降りる度、母の声が大きくなっていった。

 階段を全て降り、リビングを覗くと、母の後ろ姿が目に入った。

「帰っていたの? ただいまくらい言いなさいよ」

 私の存在に気づいた母は、振り返って、呆れたように溜め息を吐きながら言った。

 リビングの中央にある椅子に座って、父は黙ったまま私のことを見つめていた。また、おかえりもなしか。

「お腹空いた」

 か細く震えながら、小さな声で言う。

「カップラーメン買っといたから、自分でお湯入れて食べなさい」

 またカップラーメンか。まともな食事を最後にしたのはいつのことだっけ。

「ちゃんとしたものが食べたい……」

「じゃあ、自分で作りなさいよ。いつまでも甘えてないで、料理くらいしたらいいじゃない。私はそれどころじゃないのよ」

「でも……」

「口答えしない!」

 怒鳴るように母は言った。私の体は震え、息を吐くのすら苦しかった。そのまま泣き出してしまいそうだった。

「やめなよ」

 父は眼鏡をかけ直しながら、静かな声で言った。母は、私に向けていた目を父にずらす。

「なにか文句でもあるの?」

 父は黙ったまま俯く。私が言えたことじゃないが、父のその姿が情けなくて見ていられなかった。

 もう限界だ。これ以上ここにいたら、私は泣いてしまう。泣いてしまったら、また母に怒られる。

 私はカップラーメンを一つ手に取り、お湯を入れ、急いで自分の部屋に戻ろうとした。

「……ごめんな」

 部屋を出る時、後ろから父の声が聞こえた。

 私は振り返らずに、早足で逃げるように階段を駆け上った。

 扉を勢いよく閉め、電気をつけ、イヤフォンでビートルズの曲を聴きながら、私はカップラーメンを食べた。

 限界なんて、とうの昔に来ていたのかもしれない。最初から、そんなものなんてなかったのかもしれない。


 こうなってしまったのは、多分あの日からだ。

 私が中学生になって初めて行われた定期テストの結果が返って来た日、点数の低さに母は私に憤怒していた。

「どうしたらこんな点数になるの?」

 母は低い声で、私を軽蔑したような目で睨みつけながら言う。

「やめなよ。千歳はちゃんと勉強してたじゃないか」

「ちゃんと勉強してたらこんな点数になるわけないでしょ!」

「人には向き不向きってあるだろう?」

「あなたがそうやって甘やかすから、千歳はいつまで経っても子供のままなのよ!」

 母はそれなりの高学歴で、幼い頃から私に色々な習いごとをさせていた。それでも、私は物覚えが悪かった。

 唯一、絵を描くことが少しだけ得意なくらいで、それ以外なにをやっても上手くいかなかった。

 そんな私に母は呆れ、ついに限界が来てしまったのだろう。この日、私は母に何時間も叱られた。

 そんな私を父は庇ってくれたが、父もまた、母の怒りには勝てなかった。

 それからというもの、私たちの関係は酷くなっていくばかりだった。会話は減り、話す時はいつも愚痴ばかり吐かれた。母と父も、喧嘩が多くなっていった。喧嘩というよりは、母が一方的に憤怒していたのだけれど。

 全ての原因は私にある。私がもっと賢かったら、こんな風にはならなかった。

 私がもっと賢かったら、常夜灯に照らされていたあの親子のように、母は笑顔を向けてくれたのかもしれない。母が怒鳴る姿なんて、見ることもなかったのかもしれない。

 ごめんなさい。なにも出来ない私でごめなさい。ごめんなさい。お母さんごめんなさい。お父さんごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。

 私は割り箸でカップラーメンを食べながら、何度も心の中で謝り続けた。



「あなたはどっちについて行くの?」

 そんなことを聞かれたのは、それから一週間後の夜だった。

 ずっと、いつかこの日が来てしまうことを知っていた。心の準備だって出来ていたはずだった。でも、いざその時を目の前にすると言葉が出てこなかった。

「もちろん私でしょう? あなたを産んだのもこの私。あなたを今まで育ててきたのもこの私」

 どこからそんな自信が湧いてくるのだろう。素直にそう思った。苛々もしていた。

「私の名前決めたのってどっちなの?」

 自分でも驚くくらい低い声で、ハッキリとそう言った。

「それはお父さんの方よ。私の案なんて聞いてくれなかったの。本当はもっといい名前をつけるはずだったのにね」

 ああ。そうか。私が生まれた時から、母は私のことなんて愛してなかったのか。それだけ分かれば十分だ。もう、それだけでいい。

「じゃあ、私はお父さんについて行く」

「なに言ってるの? ふざけるのもいい加減にして!」

 母は机を思いきり叩きながら言う。壊れたりしたらどうするんだ。

「私、自分の名前好きだから。この名前つけてくれたお父さんのことも好きだから」

 切実なまでの、嘘のない思いだった。私の言葉を聞いて、父は涙目になっていた。

「でも、僕は……」

「お父さんは私に怒鳴ったりなんてしなかった。二人の仲が悪くなっても、いつも私のことだけは気にかけてくれた」

 父は袖で瞳を拭き取り、何度も『ごめんな、ごめんな』と言った。私が謝れることなんてないのに。

 母はなにも言わず、逃げるよう部屋から出て行った。部屋を出る時舌打ちが聞こえた気がしたが、そんなことはどうでもよかった。

 それから数日後、母は家を出て行った。行き先は分からない。十年以上経った今も、母がどこにいるかすらも分からない。知ろうとも思わなかった。

 父に愛されているだけで、父が私の手を強く握ってくれるだけで十分だったのだ。

 あの親子のような関係を、私は羨ましく思う。あんな母親がいたら、幸せなんだろうなとも思う。

 でも、私には父がいればいい。それだけでいいんだ。

 いつか、自分があんな風な優しいお母さんになって、あんな風に手を握ってあげる。私がそんなことを夢に思ったのは、母がいなくなってしばらく経った頃のことだった。



     *



 ───東京の空気は好きではない。ゴミや吸殻や鳥の糞だらけのアスファルトも、昼間みたいに明るい夜も、喧騒とした駅のホームも、僕は好きではない。

 

 僕はこの間買った小説の続きを、ネットカフェの個室で読んでいた。

 もう何度も読み返した物語だが、僕は一文字一文字丁寧に読んでいた。

 この主人公のように、僕も東京の空気が好きではない。

 学生時代、小さな田舎町で過ごしてきた僕は、酷く東京に憧れを抱いていたが、いざ住んでみると、この街に対してそんな感情はなくなっていった。

 自分の部屋が落ち着くように、僕もあの町にいる時だけ不思議と心が落ち着く。なにもない町だが、東京だってなにもない。

 そんなことを考えていると、無性に千歳に会いたくなった。理屈でなんて説明出来ないが、本ばかり見ていると千歳の顔が見たくなるし、千歳のことを考えると本が読みたくなる。

 千歳は今、仕事中だろうか。練馬駅の近くにでも行ったら、仕事終わりの千歳に偶然会ったりなんてしないだろうか。もし鉢合わせたら、千歳はどんな顔をするのだろうか。大袈裟に驚いてくれるのだろうか。喜んでくれるのだろうか。

 そんなことを考えていると、体が勝手に動いていた。

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