第3話 次会う日まで
満員電車に乗るのは鬱になるが、その先に羽沢さんがいるとなると話は違ってくる。上等だ。このくらい、いくらでも耐えることが出来る。
少し前までは嫌で堪らなかったのに。怖くて乗ることすら出来なかったのに。いつの間にか、私はあの日よりも前の自分に戻ってきているようだった。
「高校生の頃、毎晩のように家を抜け出して夜空を見に行っていました」
私がそう言ったのは、三杯目の生ビールを飲み干した直後のことだった。
「中学生の頃から、私はずっと星が好きだったんです。ずっと見ていたら、いつか伸ばした指先が星に届くような気がして、今となっては馬鹿馬鹿しくて恥ずかしくなる話ですけど、あの時の私は本当にそんな気がしていたんです」
なんで私はこんな話をしているのだろうと思ったが、そうか。私は今、酷く酔っているのか。頭がボーッとする。
「真田さんは、なんで星が好きだったんですか?」
羽沢さんはそんな私を見つめながら言う。
「私がなにもない、抜け殻のような欠陥人間だったからです。星を掴むことが出来れば、少しだけ輝くことが出来ると思ったんです」
無論、そんなことなんて出来るはずがなかったのだが。
「父におねだりして買ってもらった重い天体望遠鏡を肩に背負って、毎晩近所の公園に行っては、星をひたすら眺めていました。そうしている時だけは、自分が自分でいられた気がしたんです」
「やっぱり、真田さんは僕と似ていますね」
言いながら、羽沢さんジョッキには半分ほど残っていた生ビールを口に流し込んだ。
「どういうことですか?」
羽沢さんは天井を見上げ、大きく深呼吸をしたあと、私の瞳を見つめながら口を開く。
「僕も学生時代、手に入らないものをひたすらに求めていましたから。無我夢中で、それを追い続けていました」
羽沢さんが求めていたものとは、一体、どんなものなのだろうか。聞こうと思ったが、この時の私は聞こうとしなかった。
なんで聞かなかったのかは分からないが、多分、今はまだ聞いてはいけないような気がしたからだ。
それから、私たちはまた小説の話をした。
中島敦の山月記と大宰治のヴィヨンの妻について、羽沢さんは楽しそうに饒舌に語っていた。
*
重たい体を起こし、携帯を開いて時刻を確認すると、午後一時を過ぎていた。
僕は大きく欠伸をしながら、天井に向かって腕を伸ばす。
今日は久しぶりに波の音を聞きに行こう。そう思い、僕は鏡を見ながら適当に寝癖を治して、狭い部屋を出て駅に向かった。
防波堤の前に着き、僕は自分の胸を強く握り締めた。
しばらくそうしているうちに空は暗くなっていて、夜空に浮かぶ星たちが僕を嘲笑うかのように見下していた。
君も、こんな風に今の僕を見て笑っているだろうか。もう、僕のことなんて見てもいないのだろうか。
そんなことを考えていると、急激に風が強くなって波も大きくなった。
僕は防波堤の上に立ち、広い海を見渡す。
今なら……。今なら行けるかもしれない。そう思ったが、やっぱり僕は臆病な人間だった。果てが見えない海を眺めていると、怖くて堪らなかったのだ。
僕は生き続ける意味は愚か、死ぬ価値すらない人間なのかも知れない。
思いながら、僕は防波堤から降りて、そのまま家に向かってゆっくりと歩き出した。
*
久しぶりに訪れたショッピングモールから出たあと、近くの公園のベンチに座って私は本を読んでいた。
羽沢さんからおすすめされた、諏訪詠という作家の著作をひたすら読んでいた。
あの夜から、私も諏訪詠の本を読むようになり、今ではもうファンになりかけていた。
諏訪詠のデビュー作である、『鈍色の結婚』という洒落たタイトルの本を両手に、少し冷たい風に揺られながら静かな時を過ごしていた。
思春期の葛藤を描いたこの物語は、私が憧れていた学生時代そのものだった。
叶わない恋に焦がれたり、友人関係に悩まされたり、部活動に励んだり。私が経験した青春とは、とてもじゃないけれど遠い存在の話だった。
学生時代、私は今と同じで友達が少なかったし、誰かに恋をしたことなんて一度もない。それほどに、私は惨めでつまらない学生だった。
別にいじめられていたわけでもない。一人でいることが好きだったわけでもないが、私は人といるのが少しだけ苦手だった。
こんな言い方をすると傲慢のように聞こえて嫌なのだが、あの頃の私は誰かに気を使うということが苦手だった。
面白くもないことで笑ったり、思ってもいない言葉で誰かを慰めたり、興味もないことを誰かと一緒に必死になって頑張ったり。
人に感謝されるのは好きだ。誰かの役に立つのも好きだ。ただ、あの頃の私は、自分が自分でいられない場所を嫌っていた。
星を見続けるだけで生きられるのなら、私はそれでいい。そう思っていたのだ。
普通の幸せ。普通の生活。普通に生きて、普通に死ねたらいい。そこに星空があるのなら、それで構わなかった。
元々、私は明るい人間じゃなかったし、特別目立つような特技もない。
つまらない人生は嫌だけど、裕福なんて求めていない。マイクなんて向けられなくていい。星空が私を照らしてくれるのなら、その時だけが私が私でいられるのなら、それだけでよかったのだ。
半分ほど読んだ本にレザーの栞を挟んで閉じ、横に置いていたバッグに本をしまい、一息ついたところでベンチから立ち上がった。
時刻は午後五時を回っていて、辺りは少しだけ暗くなっていた。
暗くならないうちに帰ろう。帰ったら、また続きを読もう。そんなことを思いながら、私は駅に向かって歩き出した。
歩いていると、次第に吹く風が強くなっていて、空も少しずつ暗くなっていった。
最近歩き過ぎて疲れていたせいだろうか。大した距離でもないのに、駅までの道のりがやけに長く感じた。
時間に迫られているわけでもないのに、私は少しスピードを上げて歩いた。
羽沢さんは今仕事中かな。なんてことを考えていた時だった。
「真田さん?」
前から歩いて来た男性に、私は話しかけられた。
暗いせいで顔が見えづらくもあったし、私はその男性が誰なのか気づくのに数秒かかったが、すぐに誰だか分かった。
「やっぱり真田さんだ。ほら。向いの机だった野田だよ。覚えてる?」
知らないフリをしてやり過ごそうと思ったが、私は小さく頷いた。
「痩せたね。あ、前が太ってたってことじゃないよ。元気にしてたかい?」
まさかこんなところで会うなんて。それに、他の同僚ならまだしも……。私は野田が嫌いなのだ。少し距離感が近いから。
「はい。それなりに」
私は素っ気なく返す。ああ。早く帰りたい。
「僕はもちろん、みんな真田さんのこと心配していたよ」
こんな言葉に、どんな返答をするのが正解なのだろうか。無視でいいのだろうか。
返答を考えている私に、すかさず野田は続ける。
「また、真田さんと一緒に仕事がしたいよ。戻って来る気はないのかい?」
嘘だ。野田が嘘をついていることなんて、顔を見ればすぐに分かる。お世辞も、曖昧な優しさも、人を傷つけるだけだってことを野田は知らないのだろうか。
「まあ、考えておきます」
「そうかい。楽しみにしているよ。そうだ。ここで会ったのもなにかの縁だし、少しだけ飲みに行かないかい?」
私に見せつけるように笑ったあと、頬を緩めながら野田は言った。
私は返答に困り、黙ったままでいた。そんな姿を見て、野田はまた口を開く。
「もしかして、なにか用事でもあるのかい?」
「ないですけど……」
「それならいいじゃないか。ほら。行こう」
言いながら、野田は力強く私の右腕を掴んだ。
「やめてください!」
私は大きな声で怒鳴るように言いながら、野田の腕を強引に振り解いた。
大きな声を出したせいで、周囲の人たちが私たちを睨んでいた。
「どうしたんだい?」
野田が困ったように言う姿を見て、私は振り返って野田から走って逃げた。
息を切らしながら、何度も転びそうになりながら、それでも私は走り続けた。
怖かったのだ。私を見下すように見つめる野田の瞳が、怖くて堪らなかったのだ。
走っていると、気づけばさっきまでいた公園に戻っていた。
同じベンチに腰をかけ、私は荒ぶる呼吸を整える。
息をするのが苦しかった。胸が痛くて堪らなかった。
怖い。怖い。怖い。でも、本当に怖いのは野田なんかじゃない。あの日を思い出してしまうのが怖いのだ。
私は無意識に携帯を開き、羽沢さんに電話をかけていた。
「どうしたんですか?」
携帯の奥から、羽沢さんの穏やかな声が聞こえる。
「すみません。突然電話をかけてしまって」
痛む胸を抑えながら言う。
「大丈夫ですよ。今は家でゆっくりしていましたから。それより、どうしたんですか? 突然電話をかけてくるなんて珍しいですね」
羽沢さんの優しい声が胸の脆いところを癒してくれて、私の鼓動はすっかり落ち着いていた。
どうしよう。勢いでかけてしまったから、なんて返せばいいのだろうか。
声が聞きたくなったから? 一人じゃ寂しかったから? こんなことを言ったら、羽沢さんはどう思うのだろうか。気持ち悪いと思うのだろうか。それとも、笑ってくれるのだろうか。
「どうしても話したくなってかけてしまいました。すみません。迷惑ですよね」
私は携帯を強く握り締め、勇気を振り絞って言う。
「偶然ですね。僕も真田さんと話したいと思っていたところです。やっぱり、僕たちは似ていますね」
平常に戻っていた鼓動はまた速くなり、急激に頬が熱くなった。ずるい。羽沢さんはずるい。こんな言葉を囁かれたら、もっと好きになってしまう。
「真田さんがよかったら、明日ご飯食べに行きますか? 一昨日行ったばかりですけど、話したいことが沢山あるんです」
私は体が熱くて堪らなく、首に巻いていたマフラーを取る。
「行きたいです。私も話したいことが沢山あるので」
「ありがとうございます。では、また十九時に中目黒駅東口で大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
羽沢さんには見えもしないのに、私は何度も深く頷きながら言った。
気づけば野田のことなんて忘れていて、明日のことばかりを考えていた。
早く帰って、明日会う時までに本を読み切らないとな。なんてことだけを、夜の公園で一人、ベンチに腰をかけながらひたすら考えていた。
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