第2話 焼きそばを食べた夜
午後七時。神無月のこの時間は、酷く冷え込む。
それでも、三十分以上も前から私はここで待機している為、その寒さにすら慣れてしまいそうだった。ただ単に、感覚が麻痺っているだけなのだが。
面映い気持ちを抑えながら、常夜灯と月に照らされるコスモスを私は一心に見つめながら、風に靡く前髪を手鏡を片手に何度も直す。かれこれ数十分、この動作しかしていない。それ以外にすることがなかった。
三日ぶりに吸った外の空気に慣れ、私はただ、流れる時の中に迷い込んだように佇んでいた。
薄い白鳥色に染った吐息が、寒い世界を温める。
悴む手にそれを吹きかけ、掌を擦り合わせ、摩擦熱で温める。
もう少し防寒すればよかった。せめて手袋だけでも。
目の前には牛丼屋さんがあった。仕事終わりのサラリーマンや学校帰りの学生たちが、ぞろぞろと店に入る。ドアが開く度にお肉の美味しそうな匂いがし、私はそれから数分間空腹と戦う羽目になってしまった。ちゃんとお昼ご飯食べてくればよかったな。なんて思いながら、少しでも空腹を紛らわす為に、コスモスの花弁を眺めていた。
風に乗った紅葉が、目下で秒速二メートルほどで舞っていた。それが私の頭に落ちる。それを手に取り、睨むようにひたすらに眺める。
私は秋が好きだ。
暑いのは嫌いだし、寒いのも好きではない。でも、秋はそのどちらにも分類せず、いつまでも普通でいてくれる。
それがどことなく自分と重なるから、私は小さい頃から秋が好きなのだ。もちろん春も好きだ。
それにしても、今日は神奈月にしては寒すぎる気がする。
「真田さん……?」
俯きながら紅葉を眺めていると、ふと、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
聞き覚えのある素敵な声だった。忘れるはずがない。羽沢さんの声だ。
反射的に顔を上げる。そこには、一人の背の高い男性がいた。
「羽沢詩音です」
「え……」
疑うことしか出来なかった。なぜなら、私はあの日、羽沢さんの顔を見ていない。正確には、コンタクトが外れて、羽沢さんの顔にモザイクがかかっているように見えていたのだ。
こんな言い方はどうかと思うし、私が言える権利なんてないけれど、正直期待はしていなかった。それに、私はそんなことなんてどうでもよかったのだ。
なのに、まるで彫刻のように整った容姿の人が現れるなんて。そんなこと、私は聞いていない。
少し癖のある漆黒の髪。瞳まで伸びた長い前髪から覗く、くっきり二重の物憂げな双眸。外国人のように高い鼻。内側に流れる若い血液で紅く染まった唇。赤子のように艶のある綺麗な肌。血管が浮き出ている白くて細い手。手首は骨張っていて、そこから色気が漂う。ダボッとした黒い服装は、背の高い羽沢さんによく似合う。
駄目だ。恍惚してしまう。私は、生まれて初めて男性を美しいと思った。
まるで、私は絵本の中にでも彷徨してしまったみたいだった。お姫様なんて言葉は私に似合わないし、大勢いる村人の一人だろうけど。無論、羽沢さんは王子様だ。
釘付けになって見惚れる私に、羽沢さんは不思議そうな顔をする。
「どうかしましたか?」
羽沢さんは困ったように、私を見つめる。
そんな声で囁かれたら、そんな顔で見つめられたら。理性が焼ききれておかしくなりそうだ。いや、もう十分におかしいのかもしれない。そうに違いない。羽沢さんと出会う前から、私はずっとおかしな人間だ。
「あ、すみません。お久しぶりです。真田千歳です」
私は、慌てるように早口で言う。滑舌が悪く、早口言葉が大の苦手な私がよく噛まずに言えたなと、少しだけ感心する。
「こちらこそお久しぶりです」
言いながら、羽沢さんは美麗な微笑を咲かせる。
「お店はもう予約してあるので、それでは行きましょうか」
私はもう一度早口で言い、背を向けて歩き始めた。羽沢さんは返答を聞かずに歩き出す私の隣を、黙ったまま歩いていた。
隣を歩く羽沢さんに、私は目を合わせることが出来なかった。それに、店に着くまで、私たちの間には曖昧模糊とした会話しか生まれなかった。
ただひたすらに、羽沢さんに合わせて歩くことで精一杯だった。それが出来ただけでも上出来なのかもしれない。恋愛経験皆無の私が、いきなり難易度マックスの敵と戦っているのだ。それが出来ただけで十分だろう。
私の隣を歩く羽沢さんから、バニラのような甘い香りがする。久しぶりに嗅いだこの匂い。一体、どんな香水や柔軟剤を使っているのだろう。同じものを使いたいから、遠回しになにを使っているのか聞いてみようかと、歩きながら思っていた。ただ、そんな勇気は今の私にはない。
おすすめってほどではないけれど、それなりに気に入ってくれるであろう風変わりな居酒屋が、中目黒駅東口から徒歩五分のところにある。
内装は喫茶店のように小洒落ていて、人気は多いが、落ち着く場所なのだ。
本当は少し高めのレストランにでも行きたかったけれど、何度も言うが、恥ずかしながら私にはそんな場所は似合わない。
溜め息を吐きたかったが、羽沢さんに聞かれたくなかったからグッと固唾を呑んで堪えた。
ほとんど会話をせずに、私たちはその店に入った。
店内には、二十台前半くらいの若いカップル一組と、スーツを着たサラリーマン三人組がいた。
隠れ家のようなこのお店には、いつもクラシック音楽がかかっていて、この時はショパンの曲が流れていた。
「素敵なお店ですね」
店内を眺めながら羽沢さんは言う。
「私のお気に入りの場所なんです」
なるほどと、羽沢さんは店内を見渡しながら感心するように言った。
若い女性店員に席に案内され、私たちは向かい合って腰をかける。少し落ち着いたが、それでも緊張で頭がおかしくなりそうだ。異性と二人きりで食事なんて何年ぶりだろう。いや、そんな経験今までにあっただろうか。
「おすすめとかってあるんですか?」
「焼きそばが絶品ですよ」
「焼きそばですか……」
「もしかして苦手でしたか?」
「いえ。大好物ですよ」
白い歯を見せつけるように、羽沢さんは微笑む。歯磨き粉のコマーシャルで見る笑顔みたいだった。どうしたらそんなに綺麗に笑えるのだろう。
「真田さんはお酒飲みますか?」
「羽沢さんに合わせます」
「じゃあ、少しだけ飲もうかな。生ビールで大丈夫ですか?」
私は頷く。その姿を見て羽沢さんは店員呼び、生ビールと焼きそばを二つずつ頼んだ。
「あの。羽沢さんっておいくつなんですか?」
注文が届くまでの間、沈黙が続かないように私は口を開いた。
「来年の一月で二十八です。真田さんは?」
「……同い年です」
羽沢さんは驚いたような顔を見せる。私も同じような顔をしていたと思う。仕草は大人っぽいが、もっと若いかと思っていたからだ。老けるって言葉が他人のように見えるくらい、羽沢さんの肌は若すぎる。大学生って言われても信じるぞ。
「お仕事はなにをされているんですか?」
「普通の会社員です」
意外だ。てっきり、職業は王子様ですとでも答えるのかと思った。流石にそれは冗談で、カフェとかバーなど、洒落たところで働いているのかと思った。
こんなに綺麗な人が同じ職場にいたら、私は確実に業務に集中出来ない。羽沢さんの同僚は、さぞかし苦労しているのだろう。
「ご結婚はされているんですか……?」
いきなりこんな質問をするのはどうかと思ったが、私は知りたくて仕方がなかった。
「もし僕に妻がいたら、女性と二人きりで食事なんてしませんよ」
羽沢さんが言い終わるのと同時に、生ビールが入ったジョッキが二つ運ばれてきた。
「では、彼女さんも?」
「もちろんいません」
机の下で、私は小さくガッツポーズをした。電話を切ったあとすぐに爪を切った為、掌は痛くなかった。我ながら、どうでもいいことだけは準備万端だ。
「じゃあ、乾杯しましょうか」
言いながら、羽沢さんはジョッキに手をかけた。私も同じようにジョッキに手をかける。
私たちはジョッキを合わせ、『乾杯』と笑顔で言った。
重ね合うコツンという小さな音が、幸せな短い初夜の始まりの合図だった。
しばらく経って運ばれてきた焼きそばに、羽沢さんは手をつけた。
「本当だ。今まで食べてきた中で、一番美味しい焼きそばです」
「そうですよね! 私、ここの焼きそば本当に好きなんです!」
私はつい、大きな声を出してしまった。羽沢さんが共感してくれることが、ただ純粋に嬉しかったのだ。恥ずかしさのあまり、慌てて掌で口を押さえる。
羽沢さんは、笑いながら何度も頷く。その仕草だけでも絵になる。
世俗にも拒絶せんばかりのその笑顔は、悪魔のように美しい。妖麗さえも覚えてしまう。
「とてもお好きなんですね。ここの焼きそば」
「はい。大好きです」
先ほどの恥ずかしさを忘れることが出来ず、私は顔を填めて言う。
頬に手を当ててみると、初めて出会ったあの日より少しだけ熱かった。
「羽沢さんってお酒強いんですか?」
「あまり飲む機会がないので、そこまで強くないんです。真田さんは?」
会社員なのに、お酒を飲む機会が少ないのか。疑問に思ったけど、問うことはしなかった。
「私もです。味は好きなんですけど、すぐに酔ってしまいます」
「真田さんらしいです」
真っ直ぐに私を見つめる羽沢さんの言葉を、よく理解が出来なかった。真田さんらしい。それはどういうことなのだろうか。
「お住まいはどの辺なんですか?」
「吉祥寺駅の近くです」
「私、練馬なんでそこそこ近いですね」
同い年で、お互い東京住みで、お酒が弱いのも一緒。大した偶然でもないのに、その小さな偶然が私は嬉しくてしょうがなかった。奇跡とも呼んでみたいほどに、私は幸せを感じていた。
「ご趣味は?」
「本を読むこととかですかね。あとスポーツ観戦も好きですよ。特にサッカーが」
「素敵ですね。因みにどんな本を読むんですか?」
「最近の本ではないんですけど、
「どんな内容なんですか?」
「高校時代、なにもかもがご都合主義のように上手くいき、なに一つ不自由なく過ごした主人公の少年が、たった一つの歯車が狂っただけで見る影もなく零落してしまうんです。最終的に犯罪を犯して捕まってしまうんですけど、人間の素から出るドス黒い本能が妙にリアルで。ハッピーエンドにはならないんですけど、順風満帆に進む物語よりずっと面白かったです……ってすみません。長々と語ってしまって」
羽沢さんは、恥ずかしそうに頭の後ろを荒く搔く。
「全然大丈夫ですよ。もしよろしければ、他の小説の話も聞いてみたいくらいです」
それから、私たちは本の話で盛り上がった。盛り上がったというよりは、羽沢さんが一方的に話していたのだけれど。
羽沢さんがあまりにも楽しそうに話すものだから、私はなんだか嬉しくなってしまった。
饒舌に語るその姿も、堪らなく愛おしかった。
少しでも多く、少しでも長く。羽沢さんの声を聞いていたかった。まるで、幼い頃に祖母が部屋で流していたオルゴールや、学生時代にひたすら聞いていたジョン・レノンやポール・マッカートニーの歌声のように、心地いい声だった。
私たちが別れたのは、午後十時半を過ぎた頃のことだった。
帰りたくない気持ちが胸から溢れてしまいそうだったけれど、私はその気持ちを抑えた。
それはなぜか。帰り際、一週間後にまた会う約束をしたからだ。
次会う日までに、本屋にでも行って羽沢さんがおすすめしていた本を買おう。
本を読むのは得意ではないけれど、読めばきっと、もっと話が盛り上がる。優しい人だから、きっと、羽沢さんは大袈裟に喜んでくれる。
少し冷える帰り道。常夜灯に照らされながら、スキップでもしたい気分の夜だった。
それから、私たちは一週間に一度ほど、全く同じ時間に、全く同じ場所で食事をした。
嬉しいことに、会話は途切れることなく続いた。
私が本を読んだことを、想像した通り大袈裟に喜んでくれたし、そのおかげで話はもっと盛り上がった。
お互いの誕生日や家族構成など。学生時代の思い出や、たまに愚痴なんかを零しながら。時は滔々と流れる大河のように、静かに流れていった。
少しずつ、それでも確かに。
流れる時を背に、私はゆっくりと羽沢さんに恋をしていったのだ。
*
千歳と過ごす穏やかな日々が、ボロボロになった僕の脆弱な心を優しく撫でていた。
あの大きく笑う笑顔や真っ直ぐに僕を見つめるあの瞳は、鎮痛剤のように僕の胸の痛みを癒す。
僕は幸せな思いをしてはいけない。
なのに、この顔はなんだ? この情けない笑顔はなんだ?
一度きりと強く決めた夜が、気づけば二度目が来ていた。
何度も繰り返す千歳と過ごす夜の中、僕はその度に自分を殺していた。
いつまでもこんな場所にいるべきじゃない。こんな思いをしてはいけない。
時間が経てば経つほど、逃げ出してしまうのが怖くなる。嘘が重くなる。勇気に手が届かなくなる。いや、もうとっくに後戻りが出来なくなっていた。
夜、寝る時。朝、目を覚ました時。気づいたら、頭のどこかで千歳の笑顔を欲しがっている自分がいた。
あの優しく咲く、どこか寂しくて儚い笑顔が愛おしく思えてしまったのだ。
ああ。やっぱり、あの時僕はちゃんと死んでおくべきだったのだ。電話になんか出ずに、震える重い足を前に出すべきだった。
なにもなかったじゃないか。失うものも、思い残すことも。あの時には、もうなにもなかったじゃないか。
自分の不肖さに、僕は苛々する。その度に、千歳に慰めてもらいたくなる。
波の音を聞きながら、死ぬことよりも千歳のことを考えていた。
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