第10話 僕の名前を呼んで

「あの日から、外の世界や人の目が怖くなっていつも俯いていました。そのせいで、上手く歩けなくなってしまったんです」

 羽沢さんはたまに相槌を打ちながら、なにも言わずに私を真っ直ぐに見つめ、ただひたすらに話を聞いていた。

「上司や同僚からの連絡も怖くなって、全ての繋がりを切るように携帯を解約して、誰一人とも関わらず毎日を過ごしていました。そんなある日、父が倒れてしまったんです。私が心配をかけたせいだって思うと情けなく感じて、いつまでもこんな生活をしている場合じゃないって思いました」

 幸いのことに父は無事だったが、私が多大な心配をかけた事実は変わりない。

「それから、私は歩く練習を始めたんです。最初は最寄りの駅まで歩いたり、時には電車に乗り、もっと人の多いところまで出かけたりもしました。そんな時に、羽沢さんと出会ったんです」

「そうだったんですね。もしかして、初めて出会った時、あまり僕の言葉に応えてくれなかったのもそのことが原因でしたか?」

「はい。まだ歩く練習の途中で、人と喋るのは少し怖くて……」

 言うと、羽沢さんは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔が、私の心の脆いところを鷲掴みにする。

「でも、あの日、なんで僕のことを食事に誘ってくれたんですか?」

「羽沢さんの声が、とても素敵だったからです。優しくて、穏やかで。それに、とても甘い香りがして。この人なら怖くないって。変な話ですけど、私はそう思いました。だから、羽沢さんに感謝してます。おかげで人の目も怖くなくなって、今では元通り歩けるようにまでなれました。それに、羽沢さんと過ごす日はとても楽しくて、昨日の夜も朝起きるのが楽しみでしょうがなかったです」

 紡いだその言葉に嘘はない。全てが本懐だ。もう、隠していることも嘘もない。羽沢さんにはもう、嘘はつかない。

「僕も一緒です。真田さんと過ごす日々は楽しい」

「羽沢さんと出会えてよかった。こんな思い、この出会いがなかったら体験出来なかった」


 羽沢さんと出会い、私は『幸福』というたった二文字の言葉の本質を、重みや深みを、本当の意味で理解出来たような気がする。

 そして、いつの日か私の胸に小さく痛むなにかが生まれたのだ。

 人はこれに、『恋』という雅な名前を付けたらしい。

 そろそろ三十の女が恋だなんて、恥ずかしい話だけれど。

 羽沢さんに会うだけで、心臓は私に位置を教えてくれる。風鈴のような高く淡い音を、静かに鳴らすのだ。

 情熱的な恋なんてしたことはないけれど。

 懸想し続ける想いが滑稽以外のなにものでもないとしても。

 叶えたいと願うだけで。

 この祈りは、確かに恋だった。



「寒いですね」

 店の外に出ると、暖房が効いた暖かい店内に慣れてしまったせいか、外の空気がやけに寒く感じた。

「流石に師走の夜は冷えますね」

 言いながら、私は掌に白い吐息をかける。

 その姿を見た羽沢さんは、私に左手をそっと差し出した。

 私は、黙ったまま羽沢さんの掌に自分の手を置く。羽沢さんは私の手を優しく握り、満足気に微笑んだ。

「これで少しは温かいですか?」

 私は紅く染った顔を隠すように、俯き気味に頷いた。

 人間が一生の間に打つ心拍数って、二十億回くらいだっけ。

 この時、私の寿命は文字通り縮んだ気がする。

 羽沢さんに心臓の音が聞こえないように、空いている方の手で胸を掴みながら、鳴りを潜めて骨ばった白い手を優しく握る。大きなその手が温かった。手袋持ってこなくて正解だったな。

 駅のホームまでの道、私たちは光り輝く月に照らされながら、手を繋いで歩いて行った。

 側からすれば、私たちは恋人同士のように見えるのだろうか。お似合いに見えるのだろうか。恋を覚えたての、思春期の子供みたいなことを考えていた。

 電車を待つ間も、電車に揺られている間も、私たちは手を離さなかった。羽沢さんが離さないでいてくれた。



『まもなく上野ー。上野ー』

 気怠そうなアナウンスが聞こえ、私は口を開く。

「では。私はここで」

 練馬に住む私は上野駅で車両を乗り換えるから、羽沢さんとはここでお別れだ。そう思うと、やっぱり寂しい。

「はい。また食事にでも」

 羽沢さんが言い終わるのと同時に、私たちは繋いでいた手を離した。羽沢さんの温もりが、まだ掌にしっかりと残っていた。

 今日は手を洗わないでおこう。掌に残る羽沢さんの温もりを噛み締めながら寝よう。きっと、いい夢が見れるはずだ。

 扉が大きな音を立てて開く。

 ホームに立ち、私は振り返る。電車が過ぎ去るまで、少しでも長く羽沢さんの顔を見ていたかったのだ。

 その刹那、


「ねえ。千歳。僕の名前を呼んで」


 息を吐くように告げた羽沢さんの言葉が、私の鼓膜に届く。


「……羽沢詩音さん?」


 訝りながら言うと、羽沢さんは寂しそうな笑みを浮かべた。それと同時に、大きな音を立ててドアが閉まった。

 羽沢さんがなぜ、そんな要求をしたのかは分からない。私は状況が掴めず、長い時間その場に立ちすくんだままだった。

 そんな状況なのに、初めて下の名前で呼ばれ、嬉しく思ってしまう自分がいる。

 好きな人に自分の名前を呼ばれること以上に、嬉しいことはない。私は今、こんなにも幸せなのだ。なのに、頭にはモヤモヤが残る。

 一人残された駅のホームで、羽沢さんのことだけを考えていた。

 時々見せる寂しそうな笑顔。さっきの要求。考えれば考えるほど羽沢さんのことが分からなくなって、胸が苦しくなった。


 それから一週間後、私たちは例の居酒屋で食事をした。

 その日から私たちはお互いを下の名前で呼ぶようになっていて、敬語も外れていた。

 羽沢さんは相も変わらず小説について語っていたし、この日のことを、私たちは触れようとはしなかった。

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