第9話 ランタンの罠

 ジェンマは食事の準備ができたことを告げると、すぐに階下に戻った。それで、俺達は二階に二人きりで残された。


 ダイニングルームのテーブルの上には、テーブルクロスがかけられていて、その上に置かれている燭台のろうそくの火に照らされ、二人分の食事が用意されているのが見えた。


 籠が二つあるが、一つにはパンが、もう一つにはさやのままの生のそら豆がたくさん入っていて、その横にペコリーノチーズがホールで置いてある。

 他に串焼きにした鱒が何本か入ったオーバルの大皿や別の皿には付け合せとして茹でた野草の葉っぱや人参やズッキーニもあった。


 テーブルの隅にはボールがあって、そのボールには手洗い用の水が張ってあって、その上にミントの葉が浮いている。


 アントーニオはミントの香りのするボールの水で手を洗うと、ボール脇に置いてあるふきんで手を拭いた。

 俺も同じボールで手を洗って、二人とも席についた。


 座ってすぐに信仰心が薄いらしいアントーニオに合わせ祈りを手短に済ませ、食事を始める。


 なんとなく、先程までの会話の影響で、俺はギクシャクとしていたが、アントーニオは何事もなかったかのように平静だった。


 彼は籠の中のパンを取ると、それをざくざくと音をたてながらスライスして、俺の方へ何切れかよこしてきた。

 それから、ワインの瓶を取り上げて、俺のカップにワインを注いだ。


「これもあなたの一族の荘園のワインなのかな」


「ああ、この間は赤だったな」


 二つのカップをワインで満たすと、俺達はカップを持って、軽く触れ合わせた。カップは銀製なので、触れ合った時に金属の音がした。


乾杯!サルーテ!


「前菜はそら豆だな。テーブルの上のものは、自分が食べる分を好きなように取ってくれ」


 アントーニオはペコリーノチーズをカッティングボードで切って、塊を俺の皿の上に置いた。


 そら豆はちょうどシーズンだったが、さやから出して、そのまま生で食べる。豆がさほど育ちきらない小さいうちに収穫して、ペコリーノチーズと一緒に食べるのが一般的だ。


「今朝、荘園から野菜は届いたから、新鮮だろう。鱒を持ってきたジェンマの甥というのは、荘園で働いているから、鱒と一緒に野菜も持ってきたんだ。鱒も釣った後に桶に入れて生きたまま持ってきてくれた」


「夏場だと、すぐに痛むし……新鮮なものを食べられるっていうのは最高だな…」


 俺はそら豆が入った籠に手を伸ばして、そら豆を何本か取ろうとした。

 しかし、同じタイミングで手を伸ばしたアントーニオの手と俺の手が接触しそうになって、慌てて手を引っ込めた。

 彼は呆れ顔で、ため息をついた。


「何も食事のテーブルでお前を取って食おうなんて考えない。そう警戒するな」


「……すまない…」


 彼はそら豆のさやをむいて、豆を取り出しながら、つぶやく。


「まあ、私みたいのは、普通にいけば、気持ちが悪いとか、神の定めた自然に反するとか、汚らわしいとか、罪を犯しているとか言われ、近づきたくないと思われるのだろうな」


 確かに、同性から性的な感心を寄せられていると分かれば、彼の言うような反応を示すものがほとんどだろう。


 なぜ、俺はそんな風に感じないのか。

 そんな自分はおかしいのではないかと初めて気がついた。


 俺の両親は、俺が朝帰りをしたあの日、アントーニオのことを話題にする時、嫌悪感を隠しもしなかった。

 多分、それが普通の反応だ。


 自分はキリスト教徒で、信仰心は強いほうだ。

 同性愛者は神の摂理に反する罪人つみびとであり、その性癖は普通ではなくアブノーマル、ソドムとゴモラに象徴されるような、赦されない邪悪なもののはずだった。


 しかし、アントーニオが俺を性的に見ているように、俺も彼を性的に意識している。

 そのことはこの間の水飲み場での接触で自分でうすうす気がついていたことだった。

 そんな自分の内面の気持ちを、そんなはずはないとごまかして、極力意識しないようにしていたのだ。


 そら豆を手の中で弄びながら、なんと言えば良いのか言葉を選んでいた。


「別に……俺は、あなたのことを気持ち悪いとは感じない。あ、だからといって、あなたが俺のことをおかずにするっていうのはどうかと思うが」


「いつ、私がお前をおかずにしているなんて、言った?」


「は?」


 アントーニオはそれを匂わせたことなど忘れたように、淡々と言った。そして、そら豆を食べ続けている。

 どんな顔をしてそんなことを言っているのかと、そらしていた目線を上げてみる。 

 燭台のオレンジ色のろうそくの光に照らされ、ただでさえ整っている彼の顔は無表情で、無機質な古い彫像のように冷たく見えた。


「それに、相手には困っていない」


 <相手には困っていない>という言葉を聞いて、俺がおかずにされていると思ったことを口にして恥ずかしいと思ったことよりも、なぜだか腹立たしい感情のほうが強く湧き上がった。

 近づいたと思ったのに、急に俺を突き放したようにも感じられる。

 それにアントーニオには相手がいるかもしれないこと、それから誰かと肉体的な関係を持っているということを匂わせているわけだが、そのことは俺には関係がないはずなのに、苛立たしい気持ちにさせた。


「物心ついた頃からこうで、もっと若い頃は病気じゃないかと思って悩んだし、女を好きになれないか試してみたこともある。でも、どうやっても無理だった。いや、正確に言えば、女を好きになることはできても、それは、母や妹やペットを好きになるのと変わらない。興奮しないんだ。だから、不適合者のように感じて神を恨みもした」


 いきなり始まった告白にどう答えたら良いのかわからない。


「父親はそういう私を毛嫌いしているし、母は心配している。ある時期、私を修正しようとして、父が色々強要してきたり、教育しようとしてきたが、私は反発して、家に男を連れ込んで行為に及んだから、家の中がめちゃくちゃになった」


 余計に何を言って良いのかわからなくなってきた。


「だけど、最終的に彼らは諦めて、私は家を出された。一族にとっては、恥であるかもしれないが、残念ながら、私は利用価値が高すぎる。だから、許されている。でも、私は神の道を外れる罪人だし、私は私のさがを変えることはできない。そのうち地獄に堕ちるだろう。しかし、それまでは好きに生きるつもりだ」


 彼がなぜ家を出て、一人で別に住んでいるかの理由はそこにあるのだろう。彼は彼なりに悩み苦しんだのかもしれない。


「俺は…聖職者じゃない。だから、あなたが悩んだ末の結果としてそうであることを批判する立場にない。それが罪であるなら、それは俺が裁くことではなくて、神が裁くことだ。それに神は罪を赦す」


 アントーニオは乾いた笑いをあげた。


「そうだといいな」


 そんなことを少しも信じていない声音だった。


「私は神など信じない。それなのに、それを守る立場にあるとはね……」


 その後に続くつぶやきは、そんなふうに聞こえた。冒涜的な言葉であったが、彼がそう言いたくなるのをわからないでもなかった。

 そして彼の属する階級は、この社会を守り、維持、存続させる側の役割を担っている。

 幸いにも、彼の場合は、その生まれや能力によって守られている。だが…


 <俺はどうなのだろう?>


 今まで女に対して性的に惹かれない理由を直視してこなかった。

 けれども、アントーニオの言葉は俺の内側にある何かをつついて、ざわめかせていた。

 俺は自分が女に興味がないこと、男に魅力を感じることを、いろいろ理由をつけて正面から向き合うことを避けてきた。それを問題として顕在化させないようにしてきたのかもしれない。


 <何が違うというのか? もしも、俺もそうだとしたら……。俺の家族は? 職場は? 友人たちは? 教会での俺の立場は? 俺が罪人として認識されたら、俺の生きてきたコミュニティーから追放されてしまうかもしれない。そんな愚かなことを俺は受け入れることはできない。何よりも、そんな穢れた俺は神の前に立つ資格を持つのだろうか?>


「私の剣だが」


 不意にまったく関連性のない言葉が聞こえてきた。

 俺が無言になって、物思いに沈んだのを見て、アントーニオは話題を変えたのだった。

 俺もそれ以上を考えるのが耐えられなくなって、それに乗った。


 幸い、アントーニオはその重い話題をそれ以上持ち出してこなかったし、剣に関わる話題は二人にとっては無難で、楽しくもなる話題であった。


 ___________


 テーブルの上のすべての料理を食べたあと、アントーニオは棚の上のガラス瓶に入ったビスコッティを出してきた。


「食べるか?」

「いや、もうお腹いっぱいだよ」


 俺は腹をさすりながら、断った。


「それに酒を飲みすぎたせいか、眠くなってきた」


 食事の間、俺のカップが空になるたびに、アントーニオはワインを注いできたから、かなりの量を飲んでいた。


「そうか。この間の客間が用意されてるはずだ。私も明日は早いから、もう休もう。テーブルの上はそのままで構わないだろう。明日の朝、ジェンマが片付けるだろうから」


 アントーニオは立ち上がると、彼の後ろの棚に置いてあった灯の入っているランタンを取った。


「お前もそこのランタンを取るといい」


 近くの棚の上にランタンがあったが、火がついていなかった。フードを外し、テーブルの上の燭台のろうそくからランタンの中の芯へ火を移した。

 火がついたのを確認して、アントーニオはテーブルの上の燭台の火を一気に吹き消した。

 ダイニングは一気に暗闇に包まれた。

 アントーニオが先に立って、部屋を出ると階段に向かった。


「暗いから足元に気をつけるように」


 俺は彼の後について階段をあがった。アントーニオは先に客間の方へ進んで、ドアを開けると中に入ってざっと中を見回した。


「問題ないな」


 そして、ベットサイドのデスクに手に持っていたランタンを置いた。


「お前のランタンを渡せ」


 部屋の照明として彼が持ってきたランタンを置いたので、それと取り替える形で俺の持っていたランタンを持って行くつもりなのだろう。

 俺はアントーニオに近づいて、俺の持っていたランタンを差し出した。

 彼は手を伸ばしたが、ランタンの持ち手ではなく、俺の手首と肘の間を掴み、それを自分の方へ引っ張った。それを予測はしていなかったし、掴まれたところが痛くなるほどの力だった。


 <油断をした!>


 と思ったのと同時に、彼の唇が俺の口を塞いでいた。

 想像したよりもずっと柔らかい唇の感触だったが、その柔らかさに反して貪るように唇が動く。


 <!>


 後ろに下がって逃げようとするが、片手は掴まれたままの上、もう一方の手で腰を捕まえられた。

 驚きから抗議の声を上げようとした瞬間に、かすかに開いた唇を割って彼の舌が入ってきて、俺の舌と絡んできた。


 <ちょっと待て!>


 一瞬でその体勢に持ち込まれ、逃げようにも逃げられないし、それどころか唇の感触や絡み合う舌の感触がとろけそうなほどに気持ちがよくて、思考を奪ってゆく。

 俺の頭の中にわずかに残った理性がなんとかして振りほどいて逃げるべきだと告げているが、残りの俺の欲望は本能に従ってそのままそれに溺れることを選んでいた。

 最初のうちは探るようであった動きは、そのうち我を忘れ貪り合うようなものへ変わっていた。呼吸が乱れ、体が熱くなってくる。

 静かな部屋の中に二人の荒い呼吸と唇を吸ったり、舌を動かす時の濡れた音が響いて、それが耳に入って余計に興奮してしまう。

 腰を掴んでいたアントーニオの手が俺の腰を更に引き寄せて、体をピッタリと密着させてきた。

 シャツ越しに、彼の体の熱や、その下の鍛えられた筋肉質の体を感じた。

 しかし、ぎょっとする。

 腰のあたり、硬いものが当たっている。

 それで我に返った。


 <この先はいけない。これ以上はだめだ>


 俺の腕を掴んでいたアントーニオの手は、今は俺の頭を押さえていたし、もう片手は腰にあった。

 ランタンを持っていない片手で彼の胸をドンと勢いよく突いた。体が少し離れたので、俺は数歩後ろに下がって距離を取った。


 アントーニオはふーっと息をして、乱れた髪を片手でかきあげながら整えている。

 更に迫られるかと警戒をしていたが、予想外にあっさりと離れてくれた。

 俺は彼がすぐに部屋から出て行くように伝える意味で、ランタンをつっけんどんに突き出して渡した。

 キスをしている間、ランタンを落とせばアントーニオの家を燃やしかねなかったが、落とさなかった俺を、自分で褒めたかった。

 彼はランタンを掲げながら部屋のドアの方へ移動をし、そこで振り返った。


「お休み」


 そう声をかけられて、反射的に俺も返す。


「お休み…いい夢を」


 アントーニオは鼻で笑って、ニヤリとした。


「眠れるわけがないだろう。これから私が自分の部屋に戻って何をするかわかるか? まあ、私がこれから何をするか想像してお前も眠れなくなるといい」


 そう吐き捨ててドアを閉じてしまった。

 あの体の状態で何をするか、薄々想像はつくが、それをわざわざ言い残すところに仄かな悪意を感じた。


「俺をおかずにしないとか言ったくせに、してるじゃないか」


 その夜は散々だった。

 快適に整えられたベッドに入ったものの、目は爛々と冴えわたっていた。ほとんど眠れず、朝が来るまで思考は千々に乱れるばかりだった。

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