第8話 いわゆるカミングアウト
サッサイオーラから一週間ほど経ち、試合で負った怪我が目立たなくなり、あざも消えてきた頃……。
アントーニオから依頼されていた剣の修理が終了した。
剣は
錆は出ていなかったから、普段の手入れはきちんと行われていたようなのだが、実戦で頻繁に使っているようで、ダメージが積み重なっていた。
また、
作業の終わった剣を持って、その日の朝に使いを出して、アントーニオの自宅に納品に訪れることにした。
アントーニオが自宅に戻るのは夕方近くになるというので、その頃に訪問した。
玄関の扉にあるライオンのノッカーを叩くと、先日、サッサイオーラの練習の帰りに門の近くで見かけたアントーニオの従者が出てきた。
そのまま二階の応接室に通される。
そこで何やらアントーニオとそれ以外に彼の部下の三名が座って、書類を前に何かを話し合っている様子だった。
従者に従って部屋の入り口までやってくると、彼の部下たちがちょうど区切りの良いところだったのか、書類を持って立ち上がった。
「それでは、このように手配をしておきます」
「ああ。明日の朝、確認をしに行くと伝えておいてくれ」
二人は部屋から出てゆくが、入口で俺とすれ違った。
会釈をしてすれ違うが、従者が
「鍛冶師殿が修理の終わった剣をお持ちです」
とアントーニオに声をかけた。
俺の手には布に包まれ、鞘に納められたアントーニオの剣があった。
「やあ、トーニオ」
と、声を掛けて、剣を少し上に持ち上げて、アントーニオに見せる。
「ああ、できたのか。こちらに来て座ってくれ。あと、お前はもう今日は帰って良い」
「かしこまりました、明日、お迎えにあがります」
従者はアントーニオに一礼をすると部屋から出ていった。
俺は入れ替わりに部屋に入り、剣を応接室のテーブルの上においた。すぐにアントーニオに座るように促され、その前の椅子に座った。
「修理は終わったんだが……」
「何か?」
剣を包んでいた布を解いて、鞘から剣を抜いて、テーブルの上に置いた。
「剣身部分の歪みや言われていたダメージ部分のメンテナンスは問題がないんだが、
アントーニオはテーブルから剣を取り上げて、片手でその剣をくるくると回すように動かした。
「激しい打ち合いには勧めないということか?」
「フォルテ(剣身のグリップ寄りのパート)は問題なく見えるんだが。強い打撃を続けて受けることは勧めない。剣先がすでに損傷気味だから、代替わりを考えたほうがいいかもしれないね」
アントーニオは剣をテーブルにおいてから、腰に手を当てて、思案している表情になった。
「じゃあ……、この間、スティレットを頼んだが、そのスティレットと対になる剣を作ってもらうというのはどうだろう」
「その依頼は俺としては嬉しいが」
「予備の剣はあるが、それも贈られたものでね。あまり気に入っているわけじゃない。剣身部分で、リカッソの長さを私の手にフィットさせたいし、それだけでなく
「じゃあ、どういう剣を望んでいるのか、詳しく希望を聞かないといけないな」
アントーニオは腕組して、剣のことを考えているのか遠くを見るような目になり、しばらく「うーん」とかつぶやきながら、焦点の合わない目で空中を見つめていた。
しかし、応接室の入口に召使のジェンマが現れた。
「
アントーニオは我に返って、ジェンマを見る。
「もうそんな時間か。確か、お前の甥が鱒を釣って来たとか言ってたな。今夜はそれか?」
「はい。塩焼きに煮野菜の付け合せです」
「ジャンニ、どうする? 魚が嫌じゃなければ、食べてゆくか? ついでに、剣の話もできるし」
「鱒は美味しそうですが、大丈夫なんですか?」
普段は無愛想なジェンマがニッコリと笑った。
前歯が一本抜けているのが見えたが、すぐに真顔に戻った。歯がないのを隠すためにあまり笑わないのかな、などと思ったが、口には出さない。
「甥は魚釣りが得意でたくさん置いていったから大丈夫。釣り好きなのに、食べるのは好きじゃないから押し付けてゆくんです」
「じゃあ、ごちそうになります。ありがとう。いつもここに来ると、食事を出してもらってばかりだ……」
「気にするな。一人や二人食べる人間が増えても大して変わらない。ジェンマ、地下室にある白ワインも適当に見繕って一緒に出してくれ。どうせ泊まってゆくだろうから、客間の方も用意をしておいてくれ」
ジェンマは部屋を出て、料理を出す準備をしに、階下のキッチンへ階段を降りていった。部屋のドアは開けっ放しだったので、彼女の動きが見えた。
泊まってゆく、という言葉を聞いて、俺は急に居心地が悪くなった。
食事を終えたら、外はすでに暗くなっているだろうから、前のアントーニオの理屈から言えば、危険だから、泊まって行くということになるだろう。
しかし、そう考えた途端、サッサイオーラの試合でのアントーニオの態度や、最終日の夜に水飲み場の前で距離を縮めてきたこと、その時のことを思い出さずにはいられなかった。
暗がりの中で、彼が間を縮め、耳元で囁いた、その低くて艶めいた声、ヴェルヴェットのようだった。そして、その言葉を紡いだ唇は美しい曲線を描いて、肉感的だった。
その唇に触れたらどんな感触がするだろう?
それから、俺の唇に触れ、そっと撫でた指とその感触……。
なぜだか憂いを帯びた悲しげなその黒い瞳。彼の体からかすかに針葉樹を思わせるような植物と香料の混ざったような良い香りが漂っていた……
「剣のことだが、当然、片手剣で……」
アントーニオの声で我に返る。
「どうした?」
「いや…母親に、今日は食事に帰らないと連絡しないと、後で責められるのではないかと気になってしまって……」
と、本当は何を考えていたのか知られたくなくてごまかした。
「誰か使いに出そうか」
アントーニオは俺の言い訳を真に受けて、一瞬で席を外し、階下に降りていった。下男に俺の家まで連絡に行かせるつもりだろう。
彼の姿が消えて、その時になって、さっき俺が考えていたことを思い出して、羞恥心から顔に一気に血が昇った。
自分で自分の頬をパチパチと叩いて、何度か深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
彼が戻ってくるまでに、平静に戻らなくてはいけない。
数分して、玄関のドアが開閉する音がして、誰かが外に出ていった気配があった。同時に、階下からアントーニオが上がって来た。
「さあ、面倒事を片付けてきた。これだから、母親ってもんは。誰の家も似たようなものだな」
アントーニオは笑って大げさに両手を広げてみせた。
「あなたの母君もうるさい?」
「ああ。無理はするな、怪我はしないか気をつけろ、日曜日には食事に来い、なんなら、土日は家に戻れ。肉を送るからちゃんと食べろ……あらゆることでやかましい」
そのおどけた口調につられて俺は笑った。
「うちは、食事の時間に家族が揃わないとうるさい。祈りを忘れてもうるさいし、この間の朝も無断で泊まって帰ったから、戻ったら大変だった……」
「へぇ……なんて?」
その後、俺は言葉に詰まった。
アントーニオが男色家だというのを両親は噂で知っていて、その家に泊まったことで両親が動揺したこと、そして、彼との付き合いには否定的だったこと、それを彼に直接言うことはできない。
「その……夕食が無駄になったと。戻らないから暴漢にでも襲われたのではないかと心配したと」
「ふーん」
俺のわずかな表情の変化に、アントーニオはそれまでの明るい笑顔をなにか含みのある笑顔へと変化させた。
「なるほどね。暴漢に襲われるのではないかと心配したんだね」
俺はいたたまれない気持ちになって、慌てた。
「えっと、父は俺が娼館にでも行ったんじゃないかって、俺が女に目覚めんたんじゃないかって騒いでたんだけどね……」
ごまかそうと口走った言葉を聞いて、アントーニオは目を細めた。なにか、触れてはいけない何かに触れてしまった気がした。
「女に目覚めたんじゃないかって、今まで女遊びをしたことないのか?」
なにか変な方向に話が進んでゆきそうな嫌な予感がした。
「あ、いや、したことがないわけじゃないんだが……」
「ないわけじゃないんだが? したのかしてないのか?」
たじたじとなっている俺に、アントーニオは追求の手を緩めるつもりはなさそうだった。
「えっと…それが…」
「それが?」
「ミラノあたりで、徒弟仲間に連れてかれて、女が出てきたんだが…」
アントーニオはテーブルの前に座って、肘をつき、俺の顔を瞬きもせず、眺めている。
なにか裁判官だか、異端諮問官の前にでも立たされたような気持ちになった。
「け…結婚まで女とそういう関係を持つのはやめておこうと思って……」
「結婚に興味がないとか言ってなかったっけ?」
「いや、なんていうか、剣を打つ時に邪に女に触れたあとの手ってなんかいけないような気がして……」
「ハハッ、童貞なのか?」
アントーニオは思いっきり信じられないくらいのとびきりの笑顔になった。その半端ない嬉しそうな笑顔を見て、俺は彼の性癖を知っているから複雑な気持ちになった。
「いいじゃないか、俺のことなんてどうだっていいだろう。あんたはどうなんだよ」
売り言葉に買い言葉でうっかり勢いで深く考えず言ってしまった。
「私?」
アントーニオはひどく意地悪な笑みを口元に浮かべた。
どこかでそんな笑顔を見たことがあるような気がしたし、そんな笑顔にゾッとするような、腹の底が冷えるような感触があった。
「まあ、知っているだろうが、私は、女を抱こうと思ったことはないし、男しか勃たない」
<ああああ、聞いてはいけないことを聞いてしまったよ。どうするんだよ、これ、クソ>
俺はそんな言葉を口走ってしまった俺の口を呪った。
「それで、目下の所、最近の私のおかずが誰か、お前にはわかるか?」
<これはヤバいやつだ、ヤバい、ヤバい、ヤバい、どうする、どうする、どうする>
俺の頭の中は、どうやってその話題から抜けるかを必死に考え、ぐるぐるしていた。
「
部屋の入口から、ジェンマの声がした。
その声は、俺の救いの女神だった。
アントーニオは、楽しそうに口元にあの笑みを浮かべたまま
「助かったな? 今行く。とりあえずは、食欲を満たしに行こうか」
俺の方をちらっと見て、クスリと笑ってから、立ち上がり、隣部屋のダイニングへと向かった。
俺は彼のことを天性の悪魔のような誘惑者だとその時思った。
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