第7話 1000の口づけ

 大方の予想通り、サッサイオーラはポルタ・レオーネの連覇で終わった。


 最終日の夜は、地区ごとに食事会が広場や教会の食堂などで開かれる。

 俺の属するポルタ・サンタンジェロは敗れたので、反省会、兼、来年への決起の慰労会となった。

 会場はサンタンジェロ教会の前の広場で、周辺の民家や飲食店から持ち出されたテーブルと椅子が並べられていた。

 一年に一度の地区をあげての祭りだ。

 地区の女性たちが集まって、食事を作り、樽ごと持ち出された酒も振る舞われ、飲めや歌えの大宴会となり、途中から楽隊も出てきて、ダンスも始まった。

 いつもは早い時間に寝静まる街も、この日ばかりはかなり遅い時間まで賑わう。


 午後11時過ぎまで、慰労会で飲み食いをしていたが、そのうちに民家の女性たちが持ち出した食器や家具をしまい始めたので、そのままそこで騒ぎ続けることもできなくなってきた。

 しかし、試合に出た男たちの一部は、試合の興奮がまだ冷めやらず、素直に帰宅する気分にはなれなかった。


「場所を変えて、もう少し飲まないか、どうせ明日は休みだろう?」


「おお、じゃあ、ドゥエ・フォンターネ二つの噴水に行こう」


 ドゥエ・フォンターネは隣の地区にある酒や軽食を食べることのできる居酒屋オステリアで、安い料金が人気の店だった。

 ドゥエ・フォンターネのある区画は何軒か居酒屋や食事を出す宿屋もあり、祭りの最終夜は、それらの店は遅くまで開いているはずだった。


 試合で負傷をして宴会どころではないものや、翌日の仕事のために途中で帰宅したもの、遅くまで出歩くのにうるさい家族がいるものなどは脱落していたので、ドゥエ・フォンターネの二次会に行くのは十何人かになっていた。

 二次会組の俺達はざわざわと話をしながら暗い夜道の移動を始めた。


 居酒屋ドゥエ・フォンターネの前には小さな広場がある。

 広場には大小の噴水が二つあり、一つは水汲み用で、もう一つは馬などに水を飲ませるものだった。その二つの噴水が居酒屋の名前の由来だった。

 広場に面して、もう一軒の居酒屋と食事もできる宿屋ロカンダがあって、祭りの影響で遅くまで飲み騒ぎたい客でいずれも賑わっていた。

 広場はそれぞれの建物から漏れる光で、明るく照らされていた。


 俺達のグループの幹事役が店の中へ入り、席を押さえに行った。皆、店に入るのが待ちきれずに、店の入口付近に固まって立ち話をしていたが、俺は喉が乾いていたので、一人、水汲み用の噴水まで行った。

 噴水口は低い位置にあるため、かがんで両手に水を貯めて、そこに口をつけて飲み始めた。

 だが、不意に、下を向いて水を飲んでいる俺の肩に背後から誰かの手がかかった。

 何の声がけもなくいきなり肩に触れられたので、驚いて振り向く。

 仲間が俺を呼びに来たのかと思ったが、予想に反してアントーニオが立っていた。


「おう、びっくりしたじゃないか」


 まさかそんなところでアントーニオと鉢合わせするとは思わなかったので、すっとんきょうな声を上げてしまった。


「驚かして悪い」


「今夜、ここで会うと思わなかったものだから」


「ああ、私達も飲み直しで来ている。あっちで飲んでる」


 アントーニオはロカンダのほうにちらと視線を向けた。

 ポルタ・レオーネは貴族が多く住んでいて、裕福なものが多いから、高級な飲み屋であるロカンダの方を利用しているのだろう。


「戦勝祝でここまで引っ張られてきたが、退屈でね。そろそろ帰ろうと思って出てきたばかりだ。それでお前を見かけたから」


「そうか。そういえば、優勝おめでとう」


 アントーニオは頷いて、俺からの祝いの言葉を受け止めた。それをごく当たり前のことと感じているのがよく分かる態度だった。


 サッサイオーラの祭りでの勝敗が、後の関係に尾を引くことはない。祭りが軍事訓練的な役目を持つことから、それは自然に受け入れられてきたことだった。

 祭りが終わった後には、同じ街の市民、同志であるという連帯感だけが残り、試合中の諍い、恨みつらみは持ち越さないのがルールだった。


 しかし、次の瞬間に不意にアントーニオは手を伸ばしてきて、俺の口元に触れた。


「顔が腫れている。その上、唇を切ってひどいな。あざが確実にできるな。『よきサマリア人の軟膏』で手入れを忘れるなよ」


「あなたにやられる前に、入り乱れて殴り合いをしていたからな……だけど、やられただけじゃなくて、何人かダウンさせたから、褒めてほしいな。おっと、倒したのはあなたのチームの人間だったっけ」


 俺のあざのあたりをそっと撫でようとする彼の行動を変に意識したくなかったので、わざと皮肉に言ったのだった。

 しかし、試合の間、彼が俺をかばったようなプレイをしたことを思い出して、彼を意識せずにはいられなかった。それまで目を合わせて話していたのだが、気まずくなって視線をそらす。


「だめだな……」


 アントーニオは俺との間合いを一歩詰めた。ぎょっとして、一歩下がろうとするが、噴水があるからそれ以上下がれない。

 口元のあざのあたりに触れていた指が滑って、俺の唇に触れた。


「なぜだか、お前には傷ついてもらいたくない……」


 そして、顔を近づけ、俺の耳元で歌うようにつぶやいた。


「Da mi basìa mille, deinde centum, dein mille altera, dein secunda centum deinde usque altera mille, deinde centum……」


(ラテン詩人のカトゥルス・カルミナ5より。さあくちづけを千たび、それから百、それからもう千、つづいてまた百、それからまた千まで、それから百…… )


 その言葉を聞いた時、どこかでそれを聞いたことがあるような気がした。

 そして、それはおそらくラテン語だろうと感じた。

 何を言っているのか、なんとなくわかるような気もするが、俺は正式にラテン語を学んでいないから、俺が想像する意味が正しいのかはわからない。

 それにも関わらず、心臓のあたりを鷲掴みにされたような衝撃を感じていた。

 動悸が激しくなって、触れられた唇が震えた。


「ジャンニ!」


 オステリアの方から俺を呼ぶ声が聞こえた。

 アントーニオはそれを聞いて、唇に触れていた手を離し、すっと数歩後ろに引いた。そして、目を細めた。


「どういうつもりで…」


 俺の声はかすかに震えていた。


「お前はもう気がついているんじゃないのか?」


「なにを?!」


 彼は掴みどころのない笑みを浮かべた。

 その笑みはいつもの自信たっぷりで、プライドが高い彼とは別人に見えるほどに、弱々しく、何か悲しげでもあった。


「ジャンニ、大丈夫か?」


 まだ何かを言いたそうだったが、その後の言葉を発する前にオステリアの方から選手仲間が二人、こちらに走り寄ってきたので、彼は肩をすくめた。


 サッサイオーラの最後に、アントーニオが俺を倒したのを皆は見ていた。だから、彼らはアントーニオと俺が何かトラブルを起こしているのではないかと心配し、駆け寄ってきたのだった。


「あ、ああ、大丈夫だ」


 駆けつけた二人はアントーニオの前に立ちはだかった。不穏な空気が漂った。

 アントーニオと彼らの間で小競り合いが起これば、彼らはただでは済まないだろう。サッサイオーラで彼の実力は証明されていた。

 無駄な争いを避けるため、俺はその間に入って安心させようとした。


「ここで偶然あったものだから、挨拶ついでに、仕事の話をしてたんだ」


「それならいいが……」


「私はもう帰る。剣の直しの仕事が終わったら、家の方へ納めに来てくれ」


 アントーニオは踵を返して、俺に合わせて言葉を吐き捨てると、何事もなかったかのように去っていった。

 俺達はオステリアに向かったが、俺はまだ上気している頬が気になって、用を足すという口実をつけて、必要以上に時間をかけて仲間のところへ戻った。



 その夜、午前様で自宅に戻った。

 アントーニオと別れてから、彼との間にあったことをごまかすように浴びるように酒を飲んだので、泥酔していた。だから、自室に入って、服を着替えもせず、そのままベッドに倒れ込むように眠りに落ちた。


 _______


「レスビアよ、生きよう、そして愛し合おう。きむずかしい年寄りの悪意ある噂話なんて、一文にも値しない。


 太陽は沈んでも戻ってくる。私たちは、短い光が沈めば、永遠の一夜を眠るしかないのだ。千のくちづけを、百のくちづけを、また千の口づけを、また百のくちづけを。


 そして何千ものくちづけを交わしたとき、それらを混ぜてしまおう。その数がわからないように、またキスの数を知っている意地悪なものたちがやっかみの目を向けないように」


 鈴のようで甘い声でその詩を歌う。

 気持ちは高揚していて、幸福感に包まれている。


「カトゥルスが好きだね、ヘレネは」


 私の隣に座っている彼が穏やかに、幸福感に浸るように言う。


「そうね、古典的な感じだと、オウィディウスよりも、カトゥルスの方が好きかしら」


「だけど、俺はこっちの歌のほうが好きだな」


 彼は私の頭にキスをしてから詩を詠じる。


「Iucundum, mea vita, mihi proponis amorem hunc nostrum inter nos perpetuumque fore. di magni, facite ut uere promittere possit, atque id sincere dicat et ex animo, ut liceat nobis tota perducere vita aeternum hoc sanctae foedus amicitiae.


(ラテン詩人のカトゥルス・カルミナ109より。私の命、君は僕らの愛が途絶えることなく永遠の伝説となることを誓った。君が本当に約束するように、そして、それを誠実に魂から言うことができるように。そして、私たち二人が永遠の神聖な愛の契約を最後まで生きることを許されるように)」


 それを聞きながら、私はふふ…と声を上げて笑う。


「恋する者の考えることは、共通なのかしら」


「恋する男の望むものはいつだって変わらない。自分の愛する女が誠実に、ずっとただ自分だけを愛し続けてくれることなんだ」


 私は両手を伸ばして、彼の両頬を包むようにして引き寄せる。そして、キスをしてからささやく。


「アンティノゥ、あなたを永遠に愛するわ。私はあなたのもの」


「俺の気持ちはカトゥルスと全く変わらないよ。君を憎み、君を愛す。君はなぜそうするのかときくかもしれない。わからない。でもそうなって、私を苦しめる(カトゥルス・カルミネ85)」


「愛は不思議だわ。人を幸せにして、同時に不幸にもする。天にも昇る気持ちにして、地獄にも叩き落とす。そして、愛しいと思いながら、同時に憎らしいと思う」


 彼の肩に手をかけて、耳の横のあたりに私の鼻筋を寄せて、甘えるように頬を擦り寄せた。そうしながら、彼の耳元で、「好き」を何度もささやく。


「君を愛しいと思いながら、同時に手に入らないならば殺してしまいたいと思った俺がいる。大切だと思いながら、俺を愛さないなら、めちゃくちゃに壊してしまいたい自分がいる。君は永遠に俺のものだ」


「あなたの望むように永遠にあなたを愛するなら……次の人生でもあなたと出逢って、あなただと見分けることができなくてはいけないわね」


 彼は私の瞳を覗き込んだ。


「あのね……瞳の奥を見ればわかる。どんなに変わってしまってもね……それだけは変わらないんだ。私は必ず君を見つけ出す」


 私も彼の瞳の奥を覗き込んだ。

 その黒い瞳の奥をじっと見つめるうちに、彼の顔の輪郭が揺らぎ始める。

 そして、アンティノウスの顔とアントーニオの顔が重なり合った。その顔は変わっていても、その瞳はアンティノウスであり、ギョームであり、アントーニオだった。


 <ああ、そうか、こんなところにいたのか……>


 俺は深い溜め息をつきながらつぶやいた。


 今までどうして気が付かなかったんだろう。

 覚えておかないと。

 夢から覚めたら忘れてしまうから、このことを覚えておかなくては……。


 そう思ったが、翌日、正午少し前に二日酔いで頭痛とともに目覚めた時にはすべてがまた遠く彼方へと消えてしまっていた。








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