00.全ての命に祝福を
――影の襲撃があった、あの日。
泉から唐突に立ち昇った炎の柱は、街の孤児院からも見ることができた。
炎の柱からは火の粉が雨のように舞い散り、街全体を、否、街をも越え、広範囲に降り注いだ。後に軍本部が纏めた情報によれば、その範囲は国全土を覆う勢いだったらしい。
空から火の粉が降り注いでくる光景は、お伽噺として語り継がれている世界の終焉を彷彿とさせた。きっと世界はこのように滅んだのだろうと、誰もが納得できてしまうほどの光景だったのだ。
しかし火の粉から炎が燃え広がることはなかった。降り注ぐ火の粉は木々や地面や建築物に触れる直前に消え、多少のボヤ程度の火事はあってもすぐに鎮火した。
代わりに火の粉が燃やしたのは、周囲を襲撃していた影のみだった。影にだけは瞬時に炎が燃え移り、影だけが炎と共に消えていった。
この現象は一晩中続き、南の空を赤く照らし続けた。そして日が昇る頃、泉から立ち昇っていた炎の柱が、ふっつりと消えた。
そうして、新しい世界が、そこから始まった。
×××
瞼の裏に光を感じて、ロアンは、目を開いた。
先程まで街のあちこちから聞こえてきていた金槌の音が聞こえない。時刻は真昼間、日は空の天辺にある為、復興の手を止めて昼休憩でもしているのだろうか。
ロアンは少しぼんやりと辺りを見渡した後、ふぅ、と息を吐く。
今、彼がいるのは孤児院の庭にあるベンチだ。良い天気だったので部屋を抜け出したのはいいが、少しうたた寝してしまっていたようだ。
膝上に置いていた本が芝生に落ちる。拾い上げようとして身を屈めて腕を伸ばし、ズキリと痛む胸に思わず息を詰めた。
「ロアン、ここにいたのか」
その時、背後から声をかけられる。
本を拾い上げてゆっくりと息を吐き、痛みを堪えながらも後ろを振り向けば、片腕で松葉杖をつきながらロキがこちらに歩いてきていた。
「ジャンが探していたぞ。まぁ、俺も部屋から抜け出してきた身だが」
そう言うロキは、左腕を肩から吊り下げて頑丈に固定されており、頭の左半分は目を覆うように包帯が巻かれている。まだ安静にしなければいけないような状態だが、ロキは構わずにベンチにまで来ると、やれやれとロアンの隣に腰掛けた。
「じっとしてるのはどうにも性に合わない。体が鈍っちまう」
聞いてもいないのに言い訳するようにロキは言い、松葉杖を放り投げると、空いた右手でロアンの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「……髪、すっかり黒に戻ったな」
大人しく頭を撫でられながら、ロアンは小さく頷いた。
影が襲撃したあの日から、一ヶ月が経とうとしている。
あの日、観測所から助け出されたロキは、孤児院で待機していたジャンの元へと運び込まれた。
「ギャーッ?! 所長?! 生きてるっすか? 生きてるんですよねこれ?!」
とジャンに叫ばれたそうだが、生憎とロキ本人は覚えていない。その時には多量の出血による昏睡状態に陥っていたのだ。
容態は酷く、孤児院へ避難してきていた街医者の協力を得たジャンが懸命に治療にあたり、ロキは生死の淵を彷徨いながらも一命を取り留めることができた。しかしそれからすぐに意識が回復するでもなく、容態が完全に安定するまでロキは眠り続けた。
その間に夜が明け、街がどうなったのか確認する偵察をアルテとエリックに任せ、ユークリッドとフィルは観測所へと向かった。そこで発見して保護し、慌てて孤児院へと運ばれたのが、青年――後のロアンと、チガヤだったわけである。
二人共に身なりは酷い状態で、特に青年は胸から背中にかけて大きな傷痕があった。しかしそれらの傷は孤児院に運ばれた時点で殆ど治りかけており、治療にあたったジャンが不思議そうに首を傾げていた。
それでもやはりと言うべきか、二人ともすぐには意識が戻らなかった。昏々とそれぞれが眠り続け、襲撃の日から三日が経ち。
最初に目覚めたのはロキだった。
意識がはっきりとした直後、ロキはぎょっとした。すぐ側にプリシアが立っており、目が覚めたロキに気付いて安堵からか、声もなくはらはらと涙を流していたからだ。
「貴方……ああ、良かった……本当に……」
流れる涙が止まらず、ついには顔を手で覆ってしまう彼女を見て、ロキはこの時初めて申し訳ないことをしたと後悔した。危うく彼女に別れの言葉すら伝えずに死んでしまうところだった、と。
一方で同時刻に意識が戻ったのは、青年だった。
治りかけだった胸の傷は痛みが残るものの完全に塞がり、その他の傷や火傷も痕だけを残して完治していた。体を起こし、ぼんやりと自身の体を見下ろしていると、様子を見に来たジャンに見つかった。
「うわぁ起きてる! おはようございます! ……って、あれ、俺、今、普通に喋れてる……?」
驚きながらもすぐに困惑した表情をするジャンに、青年が口を開く。
此処はどこなのか、と問いかけた青年に、ジャンは再度驚いて大声を上げた。
「ギャーッ! 喋ったぁぁ!!」
きょとんとする青年の髪色は、眠っていた間に白から黒へと変化していた。瞳の中で揺らいでいた炎は無くなり、常にその身から滲み出ていた威圧感も無い。
そして、火神の力を完全に失っていた。同時に、それまでの記憶も殆ど思い出せなくなっていた。
はっきりと思い出せるのは、少女と共に火神の体を貫いていた杭を引き抜いたこと。それと、泉がある広場で炎に囲まれている中、ロキに名を呼ばれた時のことだけだ。前者についてはロアンの心そのものが体験した記憶であるから明瞭に覚えており、後者は、この体が印象的に覚えていた記憶だ。あの時に初めて名を呼ばれたことにより、体に残っていた意識がロアンに寄ったからこそ、覚えていられたのだろう。
それ以外の記憶については、酷く長く孤独だったという感覚以外は、どれもぼんやりとしている。だから、おそらく、火神が引き受けて持って行ったのだ。この体から、彼が離れた時に。
人の身として生きていくには重すぎるから、と。
そして最後に、少女はと言うと。
「ロアン! ここにいたのね」
孤児院の中からぱたぱたと駆けてきたのはチガヤだった。
癖のある赤毛は、泉から帰ってきた際に毛先が焦げてしまっていた為に短く切り揃え、走る度に彼女の首元でふわふわと揺れている。小走りでやってきた彼女は、ベンチに近付くとロキの姿に気付き、「あーっ」と声を上げた。
「ロキさん! 皆さんが探していましたよ! まだ安静にしてないと駄目じゃないですか。また傷口が開いちゃいますよ」
「また、とは何だ。まだ二回しか開いてないぞ」
「二回も傷が開いてるから安静にしてくださいと言っているじゃないですか! もう、プリシアさんに言いつけちゃいますよ!」
「待て、プリシアにはやめろ、また泣かれてしまう。わかった、戻るよ。戻ればいいんだろう」
やれやれとロキは溜め息を吐くと、松葉杖を引き寄せてベンチから立ち上がる。
「あ、そうだ、アルテさんが言ってました。エリックさん、無事に拘置所へ戻られたそうです」
「姿が見えなくなったと思えば、本当に自分で帰ってたのか、あいつ……変なところで律儀というか、何というか」
呆れながらもロキは言い、杖をつきながら孤児院の中へと戻っていく。
それを見送り、チガヤは振り返るとロアンの顔を覗き込む。
「ロアンは? まだここにいる?」
頷いて返事をすれば、チガヤはロアンの隣にぽすりと着席した。そして、見て見て、と自分の両手を前に出す。
彼女の手には、自分で作ったらしい手袋が着けられている。
「作ってみたの。外に出る時は着けておこうかなって。でも、これだと細かい作業ができないのよね。もうちょっと改良しなきゃ」
チガヤの両手の甲には、火傷痕が残った。
他の細かい傷は綺麗に治ったのだが、手の火傷だけは痕が残ってしまったのだった。そのことはチガヤ本人は特に気にしていなかったようだが、孤児院の子供達からは「痛そう」「だいじょうぶ?」と心配され続け、チガヤも対応に困ってしまったそうだ。
「さっき子供達にも見せたら、可愛いって。イリス先生にも褒められちゃった」
にこにこと言うチガヤに、ロアンは複雑そうに視線を逸らす。
彼女の火傷痕は、自分の責任だ。
影の状態では、火神の体を貫く杭に触れることすらできなかった。体を持っている誰かに引き抜いてもらう必要があった。
けれど、火神の力が入っている自分の体では駄目だった。神の力を退けるほどの邪念で固められたあの杭には、神の力がある体もまた、触れることができなかったのだ。
だからチガヤに引き抜いてもらう他なかった。だから、彼女の火傷痕は自分の、ロアンの責任なのである。
「大丈夫よ、ロアン。私、この傷が残って良かった、って思ってる」
顔を上げて彼女を見れば、チガヤは手袋越しに自分の手を見つめていた。
「この傷痕のおかげで、あの日見たことを忘れないでいられる。私が神様たちにできたこと、やりきれたこと。お母さんとの約束を、ちゃんと果たせたこと……神様たちはもう、私の目にも見えないと思う。そのことはとても寂しいけれど、傷痕のおかげで、神様たちとの繋がりが残っているように思えるの」
それに、とチガヤは顔をロアンに向け、にこりと微笑んだ。
「ロアンとここに戻って来れた、その証にもなっているから」
チガヤの笑顔につられて、ロアンも表情を緩める。
そしてふと考えた。邪神ではなくロアンとして目が覚めてから今日まで、彼女にちゃんと伝えたことがなかったのではないか、と。
「……チガヤ」
ロアンは声を出す。
「これから、よろしく」
「ふふ、こちらこそ!」
END
死にたがり邪神と嫁入りした生贄少女 最終章 嫁入り 光闇 游 @kouyami_50
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