3.新世界

 飛び込んだ先の回廊は、やけに天井が高かった。

 通路幅も広く、足元は高級そうな絨毯がどこまでも敷かれている。壁には絵画が飾られ、壁自体も白く美しかったのだろう――その全てが、炎に侵されていなければ。

 辺りを包む炎は高い天井の真上にまで届いており、いつ崩れてきてもおかしくない。壁に飾られていたはずの絵画はいくつか床へと落ち、あちこちに散らばっている。

 チガヤにとって唯一幸いだったのは、煙が少ないことか。床に落ちた絵画や絨毯が炎に包まれながらも原型を留めているところを見るに、再生の力はまだ辛うじて機能しているようだ。燃えると同時に再生しているこの空間内では、炎が燃え尽きることが無いために煙も発生しないのだろう。

 ただし、この状態がいつまで持つのか。時間が止まっていた場所に無理矢理飛び込んだのだ、何が起こるかわからない。まずは彼を見つけ出さないといけないが、どの方向へ向かうべきか。何か手かがりがないかと辺りを見渡したチガヤの目に、炎の中で不自然に揺れる何かが映った。

 人の形をした影だ。

 咄嗟にチガヤは身構える。が、すぐに眉を潜めた。

 影は襲ってくる様子はない。泉や故郷の森で見た影と比べて殺気のような強い気配が感じられず、影は佇み揺れているだけ。よく目を凝らせば右腕に当たる部分が特に大きく揺れており、じっと見つめて、それがチガヤを手招きしている動作なのだと気が付いた。

「……こっちへ来い、ということ?」

 影が大きく揺れる。チガヤの問いかけに頷き返したのか。

 警戒しながらも影がいる方向へと足を向けてみれば、その影はつかず離れずの距離感でチガヤを誘導するように先へと進み出す。そのまま導かれるままに歩を進めれば大きな階段が現れ、影を追って階段を駆け上がると、チガヤにも見覚えのある場所へと出た。

「ここ、知ってる……水神様の神域で見た……」

 水神に見せられた過去の光景。その中で見た、玉座のある場所だ。あの光景によれば、確かここで、彼は――

 ハッとして、あの光景の中で彼がいたはずの場所を見る。そこに彼の姿はなかったが、代わりに、その場所から炎の筋が玉座に向かって伸びている。

 まるで炎を引き摺ったかのような、炎の筋が。

「火神様……!」

 あの炎は彼が流した血の跡だ。チガヤは駆け出し、炎の行方を辿る。

 玉座前の階段を駆け上り、さらに玉座を通り過ぎる。すると下からでは見えていなかった、玉座の後ろにある扉を発見した。

 扉の回りには焼け落ちた重そうな布が散らばっており、おそらく、この扉は玉座の後ろで幕に覆われ隠されていたのだろう。隠し扉の鍵はこじ開けられ、炎の筋は扉の向こう側へと続いている。

 向こう側はさらに炎の勢いが強いのか、開かれた扉から炎がこちらにまで吹き出し、炎の熱がチガヤの肌をジリリと焦がす。それに構わず飛び込んだチガヤの目に、ようやく探し求めていた姿が映った。

 彼だ。炎に囲まれ、彼自身の手足も炎に巻かれながら、床に倒れている。

「火神様!」

 すぐに駆け寄り、彼の肩を揺さぶった。

 しかし彼からの反応はない。辛うじて瞼は開かれているが何処にも焦点が合わず、その瞳には何も映っていない。呼吸も今にも止まってしまいそうな程に弱々しい。そしてチガヤが結ったはずの髪は解け、床に散らばり、端々で炎が引火している。

 その炎の出所は、彼の胸に空いた穴からだ。胸から背中にかけて深く穿たれた傷穴があり、そこから未だに溢れ出る流血が炎となっては彼に還っているようだ。流血から生まれた炎は燃やし尽くすことなく、しかし消えるでもなく、彼へと還り続けている。


 意識がなく、いつ死に絶えてもおかしくない状態だというのに、彼は自身の力によって生かされている。彼自身の意志に逆らって。


 投げ出された彼の右手には、髪を結っていたはずの赤い紐が握られていた。その紐を彼の右手ごと掬い上げ、チガヤはきゅっと両手で握りしめる。

 そしてチガヤは顔を上げた。

 チガヤと彼から少し離れた位置に、ここまで案内してくれた影が、こちらを窺うようにゆらゆらと揺れている。

「……貴方、ロアンね?」

 確信を持って問いかければ、影は動揺したのか大きく揺れた。


 ――影は、旧世界で死んでいった者の後悔が残留思念として形を成したものだ。後悔が強ければ強いほど、影は存在を濃くする。

 それならば、火神として取り込まれなかった『彼の人間だった部分』が影となって旧世界に残されている、という可能性もあるのではないか。


「お母さんが言っていたの。『彼とあの子を救って』って……お母さんが言う『彼』というのが火神様のことなら、『あの子』というのは、貴方のこと?」

 チガヤが問いかけたからなのか、もしくは名を呼ばれたからなのか。曖昧だった影の輪郭が少しだけわかるようになる。

 面影は今の彼のままだが、影の方は少し若く見える。色合いがよくわからないが、髪は黒いらしく、瞳の中の炎もない。おそらく、これが人だった頃の――ロアンだった頃の姿、なのだろう。

 影はゆらりと腕を持ち上げて指を差す。

 チガヤがいる位置よりも、更に奥。チガヤが視線を向ければ、そこには炎の塊がある。何か大きなものが燃えているのかと思ったが、違う。燃えているのではなく、それ自体が炎を纏っているようだ。


 それは大きな獣だった。

 狼のような姿で、体毛が炎のように揺らめき燃えている。大人の人間ほどもある体躯は、動けないようにと四肢が鎖で繋がれ、背には何本もの槍が突き刺さっている。

 そして、背から腹にかけて、大きな杭が穿たれていた。


「これが……火神様の、元のお体……」

 つまり、彼は辿り着けていたのだ。旧世界に取り残されたという、自分自身の元へと。

 しかし直前で力尽きてしまったのか。彼の回りで燃えている炎が彼が流した血の形跡なのだとすると、ここで何度も自決を試みたのだろう。その結果、自我を磨り減らし、ついには動けなくなったのか。

「…………でも、ロアンの心は影になってここにいてくれている……今なら、まだお二人を助けられるのかもしれない……?」

 ここから先は何が起こるかわからない、と風神も言っていた。握っていた手を彼の胸へとそっと置き、チガヤは覚悟を決めて呼吸を整える。

 立ち上がり、改めてチガヤは獣を見た。四肢を繋ぐ鎖と、背に突き刺さった何本もの槍、そして――大きな杭。

 この杭が邪魔なのだと、チガヤは直感で判断する。この杭からは人の欲を煮詰めたかのような、禍々しい気配を感じるのだ。

「これを抜けば、もしかしたら……!」

 邪な異物を取り除けば、歪んでしまっているという火神の再生の力が元に戻るのではないか。

 その考えの元に、腕を伸ばし、杭を握る。

 刹那、ジュッと手のひらが焼ける痛みを感じた。炎の熱さだけではない、神すら再起不能にさせる邪な欲が、チガヤを拒絶する痛み。ぐっと息を詰めて堪え、しかし杭からは手を離さず、力を込めて杭を引っ張った。

 深く刺さった杭は、少女であるチガヤの腕力程度では簡単に抜けてはくれない。そうしている間にも自身の手のひらから肉が焦げる嫌な音と臭いがして、痛みに歯を食いしばる。ついには裾から炎が引火し、あっという間に炎がチガヤの全身を舐めた。

「っ……まだ……、もう少し……っ!」

 それでも杭を引き続ければ、ほんの少し、杭が動いた手応えを感じた。

 それと同時に、杭を掴むチガヤの手を、黒い影が覆う。

「っ、ロアン?!」

 ロアンの影がチガヤの手越しに杭を握っている。

 そして、チガヤと共に杭を引いた。

 手応えがあった杭はズルリと一気に引き抜かれる。体勢を崩したチガヤは、影と一緒に後ろへと倒れこみ。


 杭が完全に引き抜かれた瞬間に、獣の体から炎の渦が吹き出す。


 チガヤはそのまま、炎の渦に飲み込まれてしまった。


 ×××


 ロキはただ一人、泉の前で攻防を続けていた。

 風神が消滅する直前、泉周辺に突風による壁を発生させた為に、力が弱い影は森を越えることなく押し留められている。が、風神が残した風も目に見えて弱まっていた。あと数刻もすれば風の壁も消えてしまうだろう。

 数で言えば影の方が圧倒的だ。それに、影には肉体がない分、おそらく体力という概念もない。持久戦になればロキに不利な上に、風の壁がなくなれば森に蔓延る影が雪崩れ込んで勝ち目は無い。

 更には、ロキが対峙しているのは過去の己である旧世界でのローシュだ。影が取っている容姿から推測するに、あれは全盛期の自分なのだろう。当時のローシュの実力はロキ自身がよく知っている。繰り出される剣術を受け流し、はじき返しながら、ロキは短く息を吐く。

「っ、ハッ……――!」

 影から時折放たれる銃撃を身を翻して避け、避けた先で振り下ろされるローシュの刃を自身の剣で受け止める。

 ローシュの影による斬撃は素早いが、影である故か、重みはない。受け止めた刃を力で押し返し、影が体勢を崩した所を、剣を横に凪いで斬りつけた。

「手応えはあるんだがな……っ!」

 確かに斬りつけた手応えはある、が、影が消えることはない。切り裂いた部分が靄となって影に還り、何もなかったように元に戻るだけだ。

 消滅してしまった風神の力を借りられない今、ロキには影を完全に祓いきる力が無い。冷静に状況を分析すればするほど絶望的な結末しか見えてこないが、それでもロキはこの場を引くことは考えなかった。

 たとえ力尽きても、自分には守らなければならないことがある。

「くっ……!」

 再び繰り出されるローシュの斬撃を、ロキは剣で受け止める。

 先程のようにすぐ押し返せないのは、剣を握る手が痺れてきたからか。崩されかけた体勢をすぐさま立て直し、払い除けるようにローシュの刃を押し返す。


 次の瞬間、ロキの背後で炎の柱が立ち上った。


 何が起こったのかと、ほんの一瞬だけ、気が逸れる。

 その一瞬の間にローシュの剣はすぐそこにまで迫っていた。

「っ!」

 咄嗟に仰け反って回避しようとしたが避けきれず、刃の切っ先がロキの左瞼を抉る。

 視界が赤く染まる。何も見えない。

 マズい、と思ったのも束の間、空を斬る圧を感じて身を捻った。

 突き出されたローシュの刃が、左腕を貫いた。

 流血が噴き出す感覚がし、瞬時に痛みが脳に届く。歯を食いしばり、更に繰り出される刃を直感で思い切りはじき返した。ローシュの気配が離れ、ロキは地面に膝をつく。

「っ、くっ……」

 右目だけで現状を確認する。左目は使えない。左腕も、辛うじて繋がってはいるが大量に流血しており指先も動かない。致命傷は避けられたが、これでは思うように動けない。

「はっ……はぁっ……チガヤ……ロアン……っ」

 しかし泉側から異変が起きたのだ。チガヤが向かった先で、良くも悪くも何かしらの結果が出た、ということだろう。

「は、はは…………ここまで、だな……」

 前世の記憶を持ち、旧世界からのしがらみを背負ってきた自分に出来ることは、ここまでだ。

 後の世界のことは、彼女らが中心となって動かしてくれるはず。元勇者であった自分の役割は、これで終わる。

 そう悟ってしまえば、急速に手足から力が抜けた。一気に多量の血を流してしまったということもある。失った血の量と痛みで脳の処理が追いつかず、もう体を動かせそうにない。

 辛うじて頭を動かして顔を上げれば、前方にいるローシュの影がなにやら苦しんだ様子を見せていた。

 泉から立ちのぼる炎の柱は風神が残した風の壁をも消し去っていたが、森にいる影たちが雪崩れ込んでくることはない。炎の柱は上空で四方へと火の粉を散らし、その火の粉を被った影がみるみる消滅していっているのだった。

 そして、それはローシュの影も例外ではない。降り注ぐ火の粉が触れた部分から崩れるように消滅していく体に、苦しげな表情を浮かべ、しかし、諦め悪く、剣を振り上げる。

 が、ロキにもそれを避けるほどの力は残っていない。地面に膝をつけたまま、振り下ろされる剣がやけにゆっくり見える等と思考しながら、剣の軌道を眺めていた。


 と、ふいに剣の軌道が止まる。

 同時に影の胸から黒い血のようなものが突如として噴き出した。


「――――え……?」

 少し遅れて、ターン、という銃声音がどこからか聞こえてくる。

 影は狙撃されたのか。しかも背後から。一体、何処から。

 ローシュの影が膝を突いて倒れ込むのを見ても理解が及ばず、硬直するロキの耳に、今度は車のエンジン音が聞こえてくる。

 それと共に、聞き覚えのある声たちが。

「いた! フィル、あそこだ!」

「急ブレーキに気をつけろ、振り落とされんなよ!」

 横滑りで急停車したのは前面が大きく凹んでいる一台のトラックだった。運転席にはフィル、荷台から飛び降りたのはユークリッド、そして助手席から布を抱えたアルテが飛び出してくる。

 駆けつけてくる彼らに、ロキは呆然と声を出した。

「お前たち……どうして……」

「街の安全が確保され次第戻っていいと許可して頂いたでしょう、戻ってきました」

 短くユークリッドが返答する間に、アルテが手早くロキの左腕を布で縛って止血する。左目にも布をあてがい頭上でぎゅっと縛りながら、アルテも答えを続けた。

「チガヤちゃんが助けたっていう三人組をこっちに寄越しましたよね。あいつらが街に残っていた『赤の使徒』の残党に呼びかけて、孤児院の防衛に当たってくれてます。だから私たちがここに駆けつけられた次第です」

「でも、この状況だと俺たちも退避した方が良さそうですね。このままだと俺たちまで黒焦げだ」

 簡易的に止血を追えたアルテと代わり、ユークリッドがロキの体を担ぎ上げる。

 運ばれる束の間、ロキはようやく泉がどうなっているのかを視認した。炎の柱は勢いが留まらず、泉の淵すら崩しながら天高く立ち昇り、降り注ぐ火の粉は辺りの森を焼き始めている。その傍らで、先程倒れたローシュの影がひっそりと消滅しきったのを見た。

 アルテはトラックの助手席へと戻り、ロキは荷台へと乗せられてユークリッドに支えられつつ、フィルがトラックを急発進させる。

 森を囲う壁をどうやって越えてきたのかと思えば、どうやら街に残留していた『赤の使徒』から回収した爆薬で事務室がある壁面を爆破し、さらにその先はトラックを強行突破してぶち抜き、壁に大穴を開けてきたらしい。道理でトラックの前面が大きく凹んでいたのかと呆然となりながら思考するロキだったが、更に呆気にとられる事態が続く。

 ぶち開けた大穴を潜る直前、トラックを再び止めたフィルが車窓から身を乗り出し、真上へと声を張り上げた。

「撤退するぞ! 早く乗れ!」

 その言葉を合図に、ドシン、と荷台に何かが降ってくる。

 木の上から荷台を目がけて飛び降りたらしい、ライフルを持ったまま着地し、すぐさま荷台にしがみついたのは――拘置所の作業着姿のままのエリックだった。

「エリック?! なんで、お前、ここにっ?」

 一瞬痛みすら忘れてしまったほどに驚いた声を上げたロキに、エリックは一瞥を向けると、呆れたように口を開いた。

「……以外と余裕そうじゃないですか?」

「どこからどう見ても重傷人よバカ!」

「感動の再会は後にしてください、舌噛みますよ!」

 アルテが思わず声を出し、フィルが冷静に言いながらもアクセルを踏み込んでトラックを走らせる。

 それでも驚きを隠しきれないロキの様子に、エリックは眉間に皺を寄せながらエンジン音に負けないように声を張り上げた。

「世界がこんな状態なんだ、俺がどこにいようが関係ないでしょう」

「いや、でも、お前」

「今の騒動が終われば、自分で帰りますよ、拘置所に……それよりも、俺から姉さんを奪っておいて、この上、更に姉さんを未亡人にさせるつもりですか? いい加減にしないとその胸、今度こそ撃ち抜きますよ」

「さっきの銃声はお前だったのか……」

 ローシュの影を撃ち抜いたのがエリックだとすれば、あの影が消滅したのも納得がいく。旧世界においてローシュに致命傷を与えた者の生まれ変わりであるエリックの狙撃は、影にとっては急所そのものだったことだろう。

 ようやく脳が理解したところで、ロキは「はは……」と小さく笑う。

「エリック……お前、後で一発殴らせろ……」

「もうすでにジャンから鉄拳を貰いました。勘弁してください」

「は、ははは……」


 どうやら今回の自分は、仲間に恵まれたらしい、と。

 ロキの意識はそこで途切れた。


 ×××


 炎に飲み込まれたはずだが、気付けば水の中にいた。

 重い瞼をなんとか持ち上げて、チガヤは辺りを見渡す。視界は薄暗く、見通すことができないが、見覚えのある玉座が足元を通り過ぎていくのが見えた。

 どうやら城の中が水浸しになっており、チガヤの体は水流によって運ばれているようだ。来た道を辿るように、大きな階段を通り過ぎ、回廊を抜け、更には雪景色だったあの庭をも流されて通り過ぎる。

 そうして一番最初の扉の向こう側へと、吸い込まれるように放り出された。光源がなくなった視界は暗闇に閉ざされ、目を開けているのかわからなくなる。自分の手足がどこにあるのかも、わからなくなってしまった。

 と、視界の端に、白く光るものが映り込んだ。

 目だけを動かして追いかけてみれば、それは白く輝く魚の尾であり、チガヤの回りをぐるりと一周したのは紛れもなく、亡くなったはずの水神だった。

「チガヤ、ありがとう。あの子のところまで、わたしを連れて行ってくれて」

 チガヤに語りかけてくるその声も、聞き馴染みのある水神の声だ。

 そして水神の声に呼応するように、水神の側に別の黒い光が現れる。

「あいつの歪みの元を取り除いた結果、再生の力が正しく機能するようになったみたいだ。おかげでボクも水神も、この通りさ」

 この声は風神だ。水中にも関わらず羽ばたくように翼を動かし、水神の側に寄り添っている。

 つまり、あの杭を引き抜いた瞬間、正常になった火神の炎に、水神の鱗と風神の羽根がチガヤもろとも巻き込まれて触れたおかげで、二柱が蘇ったということなのか。

 それならば、もしかして……と、チガヤは辺りを見渡す。

 二柱よりも奥側、少し離れたところに、ゆらゆらと揺れる火を見つけた。

 獣の姿をした火神だ。杭が抜け、体中に刺さっていた槍はチリチリと燃え消え、四肢を繋いでいた鎖は引きちぎられている。

 遠くてよく見えないが、意識があり、こちらを見つめているようだ。火神から感じる視線は、泉で対面していた時の眼差しを思い起こされ、ああ、とチガヤは察する。


 亡骸であった元の体に、火神の力が戻ったのだ。

 全て、ありのままの状態へと。


 火神は大きく欠伸をすると、その場に伏せて目を閉じた。疲れた、とでも言うかのように。

 そんな火神の額を撫でる手がある。気付けばそこに、母の姿があった。火神の側に寄り添い、慈しみに溢れた笑みで毛並みを撫でている。

 そして、その笑みをチガヤにも向けた。声は聞き取れなかったが、ありがとう、と口が動いたように見える。

 母の姿が見えたのはそこまでだった。唐突に母の体が光り輝いたかと思えば、その身を蝶へと変え、眠る火神の額にそっと停まる。

 そのまま、母――土神と、火神の姿が、暗闇の奥へとゆっくり消えていく。

「さぁ、チガヤ。私たちとも、これで本当にお別れよ」

 水神がそう告げる。

「ボクたちはこの先、お前たちの前には現れない。ボクたちはあちらの世界へ行き、この道を今度こそ完全に閉ざすよ。もう二度と、同じ事が起こらないようにね」

 風神が続けて告げる。

 そうして二柱はチガヤを見つめると、声を揃えた。


「けれど、見守っている。そのことを、どうか、忘れないで」


 水神と風神はチガヤに背を向けると、先に行った土神と火神を追いかけるように暗闇の奥へと向かっていく。

 チガヤは何も言うことができなかった。声を出すほどの力も残っていないのだ。手足は重く、指先すら動かせない。体中のじぐじぐとした痛みと、蓄積した疲労感で、ただ神々を見送ることしかできない。

 やがて神々の姿が完全に見えなくなり、辺りは再び暗闇に包まれる。もがくこともできないチガヤの体は、ぶくぶくと、下へ下へと沈んでいく。


 と。

 不意に、手を引かれた。

 最後の気力を振り絞って瞼を持ち上げれば、そこに誰かの手があり。

 その手首には、赤い紐が絡まっていた。


 ×××



 ×××


 影の襲撃から、一夜が明けた。


「フィル、そっちはどうだ」

「駄目だ、いない……兄貴の方も見つからないか……」

 フィルとユークリッドが泉があった場所の周辺を偵察しいていた。

 泉周辺はすっかり荒れ果て、泉も淵が崩れて形が変わってしまっている。こんこんと湧き出ていた水も止まってしまったようで、水位も半分ほどになってしまっていた。泉の中央にあった岩も粉々に砕けて、もはや以前の面影はない。

 ただ幸いだったのは、懸念していた火の粉による火事が早々に鎮火したことか。泉周辺の木々は焼け焦げているものの、倒木にまでは至らず佇んでいる。念のためにと銃を携帯していたフィルとユークリッドだったが、あれほどいた影たちもすっかり消えてしまったようだった。泉周辺は荒れ果ててしまっているものの、以前の静けさを取り戻しつつあった。

 が、もうここが聖域と呼ばれることはないだろう。水が湧いてこなくなった泉は早くも濁り始めている。

 そんな場所で二人が何を探しているのかと言えば、他でもない、あれから一向に戻ってくる気配がない少女と青年の姿だ。

「まさかこのまま行方不明とか、ないよな……?」

「不吉なこと言うなよ。所長は戻ってくると言っていたんだ。その言葉を信じよう」

 もう少し捜索範囲を広げてみるか、と二人は頷き合う。


 そうして泉へ背を向けた時、ばしゃり、と音がした。


 驚いて二人が振り返った時、泉の中から何かが這い出てきた。

 青年だった。崩れた泉の淵に片手をかけ、ひどく咳き込みながら、水の中からなんとか体を陸へと引き上げている。彼のもう片腕には、ぐったりとした様子の少女が抱えられていた。

 フィルとユークリッドは驚きながらも、咄嗟に声をかけるのを躊躇った。何故なら、青年の髪が見慣れた白髪から、まばらに黒が交じり合った色へと変わっていたからだ。

 青年が顔を上げる。

 その瞳の中に、炎はない。


「っ、彼女を……――」


 そう声を発して、青年は意識を手放した。

 少女を抱きしめる腕には、赤い紐が絡まりついていた。



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