2.生贄の覚悟
「火神様は、どこへ行かれたのですかっ?」
自力で泉から這い上がったチガヤは、真っ先にロキへと問いかけた。
ロキが口を開きかける。が、すぐ側にいた風神が翼を広げてそれを制し、嘴をチガヤへと向けた。
「チガヤ。何も聞かずに、まずはボクの問いかけに答えておくれ」
チガヤはすぐさまその場に膝をつき、風神と視線を合わせる。
真黒の鳥は嘴を開いた。
「あいつの生贄になる覚悟はあるかい」
×××
「丘の上にある孤児院が街の避難所になっている。今なら急げばまだ間に合うだろう。多少なりとも銃火器を扱ったことがあるのなら、そこで街の防衛を手伝え。そうすればお前たちの罪状軽減ぐらいなら口添えしてやる」
そう言ったロキに、泉から出てきた男三人はおいおいと泣いた。
「本当に、本当に死ぬかと思った……!」
「あの子は俺たちの女神だ! あの子の為なら俺たち何でもするよ!」
「ありがとう……本当にありがとう……!」
「あー、わかった。わかったから、早く行け」
泣き止まない三人を、道を示しながら観測所から追い出す。やれやれ、とロキは息を吐いた。
「俺も人のことを言えないが、チガヤは厄介な奴に好かれやすい質なのか……? どうにも先が心配になる子だな……」
そんなことを呟き、ロキは首を横に振る。
先のことを考えるのは止めよう。今は目先のことをどうにかするのが先決だ。
再び泉へと戻れば、そこにチガヤの姿はない。未だ泉の側で佇んでいる風神へと目を向ければ、風神は嘴で小屋を指し示した。
チガヤに貸し与えた方の小屋だ。その小屋の扉が、キィ、と開く。
「お待たせしました」
小屋から出てきたチガヤの姿に、ロキは僅かに息を呑み、そしてゆっくりと息を吐き出した。
チガヤは真白のドレスを着ていた。
この泉に最初に流れ着いた時に着ていた、生贄装束。あの花嫁衣装である。
生贄になる覚悟があるか、という風神の問いかけに、チガヤは「はい」と迷うことなく返答していた。
少女の目には強い意志と決意が宿っている。泉へと初めて流れ着いた時の、自信がなく行く末に迷っていた頃の面影は、そこに無い。今の少女は背筋を伸ばして堂々と胸を張り、生贄装束を着こなしている。
「チガヤ」
声をかけたのは風神である。鳥の姿をした神は、花嫁姿の少女を見上げた。
「水神の一部を持っているね」
「っ! ……はい。こちらに」
チガヤは握りしめていた手を開き、風神へと見せる。
ロキの目では何があるのか見えなかったが、そこには確実に何かがあるのだろう。
風神はそれをじっと見つめた後、小さく呟いた。
「……そうだね、水神……」
風神はおもむろに翼の中に嘴を突っ込むと、自身の羽根を一本引き抜く。そしてその羽根を、チガヤの手のひらへと乗せた。
「チガヤ。君にボクの加護を与える。君ならば、ボクと水神の加護と、君自身の導きによって、旧世界への道を通ることができるだろう。旧世界には火神の亡骸が残っている。あいつはそこへ向かっているはず……その後のことはどうなるか、ボクもわからない。君の命の保証できない」
それでも、良いんだね?
と、そう問いかける風神に、チガヤは頷いた。
「私にできることがあるのなら、やります。きっと、その為にこの泉へと導かれたのだと思います」
風神と少女のやり取りを聞き、ロキは大きく息を吐く。
チガヤが顔を上げてこちらを見た。肩を竦め、ロキは口を開く。
「……俺の立場としては、君を止めるべきなんだろう。君が行ったところでこの世界がどうなるか、確証なんてない。だというのに、君が犠牲になる覚悟であるのを、わざと見過ごすことになるからな」
「そんな、私は」
「いや、わかっている。君は止めたところで止まらない。俺の言葉で止められるほどの心意気なら、君は故郷の崖を三度も飛び降りたりはしない。そうだろう?」
うぐ、とチガヤが口を閉じる。
ロキは苦笑する。
「君はロアンに似ているよ。誰かの為なら自分の身を顧みない、そんな悪いところが、そっくりだ」
しかしロキはすぐに笑みを引っ込める。真剣な顔で、まっすぐに少女を見た。
「ただし俺は、君に犠牲になれと言うつもりは無い。ここに、生きて帰ってくるんだ。そして……ロアンのことを、よろしく頼む」
ロキは頭を下げる。
チガヤは目を瞬かせた。そして、こくりと、力強く頷く。
「わかりました。帰ってきます、必ず」
少女の強い眼差しに、頭を上げたロキは微笑んで頷き返す。
その時、場に嫌な空気が流れ込んできた。森がざわざわと騒ぎだし、木々の間で何かが揺れる。
青年が再生した時間が戻ってきてしまったようだ。揺れる何かは黒い霧となり、徐々に人の形を取っていく。その内の一体が、揺れながら森を抜けて泉がある広場へと足を踏み入れた。
チガヤは身構え、手のひらに乗っているものを握りしめる。
そして、そんなチガヤを守るようにロキは剣を抜くと、少女を背にした。
「チガヤは行ってくれ。ここは任せろ」
「ロキさん、でも……っ」
広場に入ってきた影の輪郭が徐々に形を成していく。
その姿を見たチガヤは、思わず声を上げそうになった。しかしロキはそれを承知でチガヤを促す。
「大丈夫だ、ここは俺が守る。君とロアンが、帰って来れるように」
「っ……わかりました……ロキさん、どうか、ご無事で……っ!」
大きく息を吸い込んだチガヤは、思い切って泉へと飛び込んだ。
そのまま少女の姿が沈み込み、上がってこないことを見届けてから、ロキは視線を前へと戻す。ロキの心情に同調するように、風神が肩にバサリと飛び乗った。
「先に言っておくよ。ボクはもう、そんなに保たない」
「ああ、わかっている。今まで助かった。感謝する、風神」
「礼を言うのはこっちだよ。ボクたちに、新しい世界の可能性を見出させてくれた。崩壊を繰り返す道とは、違う道を……ありがとう、ロキ」
思わずロキは風神を見る。
この神は以前、「ローシュ」と呼び続けられることに対して苦言を呈したロキに、「悔しいなら今の名前で功績を上げろ」と答えたことがある。
肩に乗る真黒の鳥は、そっぽを向いた。
ロキは小さく笑う。
「……なら、期待に答えられるようにするか」
そして改めて、前を見据えた。
風神との会話の間に、広場へと入り込んでいた影はその輪郭を完全に浮かび上がらせていた。
その姿を、ロキは知っている。
嫌になるほどに。
「風神から影の話を聞いた時から、来ると思っていたさ……――ローシュ。旧世界の、俺自身」
影は、旧世界で死んでいった者の後悔が残留思念として形を成したものだ。後悔が強ければ強いほど、その影は存在を濃くする。
勇者・ローシュ。
世界崩壊の際に、誰よりも何よりも、後悔を残して死んでいった男。
剣を片手に、右胸からは何かが垂れ流れている。おそらくこれは、ローシュが死ぬ直前の姿をそのまま表している。
「お前の後悔は俺が一番理解している……けどな、お前じゃロアンを救えない」
対峙し、剣を前に。
旧世界の自分自身へと切っ先を向け、ロキは宣戦を告げた。
「歴史を繰り返すことしかできないお前とは、ここで決別する。ここから先は、俺たちではない、彼女たちが作る新しい世界だ」
×××
チガヤの体は底へ底へと沈んでいく。
水面からどんどんと遠ざかり、光は届かなくなり、辺りは真っ暗になっていく。暫くして暗闇に目が慣れてきた頃、沈む先に何かがぼんやりと見えることに気付いた。その方向へと意識して降りていけば、やがてチガヤの足は自然と奥底へと着いていた。
以前に連れて来られた水神の神域と似ているが、雰囲気は違う。視界は暗く、辛うじて自分の手足がわかる程度にしか見えない。
手元を見れば、風神からもらった羽根がぼんやりと光っている。守ってくれているのだろう。風神の羽根をそっと握りしめ、辺りを見渡す。
と、視界の端に、ひらひらと舞う何かを見つけた。
「土神様……ここにいらしたのですね」
暗闇の中でもキラキラと輝くその蝶は、土神に違いない。故郷の崖から一緒に飛び降りた後、泉で姿を見かけなかったのだが、泉ではなくここへと来ていたのか。
蝶もチガヤを見つけたようで、チガヤの回りをぐるりと飛び回った後、ある方向へと向かっていく。
導いてくれるのか。チガヤは頷き、蝶の後を追う。
地面は固く、歩く度にカツンカツンと靴音が響く。暫く歩けば、その靴音がコツコツという音に代わり、やがてサクサクと何かを踏みつけるような音へと変化する。
足元にひやりとした冷気を感じた時、唐突にチガヤの目の前にそれは現れた。
「扉……?」
大きくて重そうな、両開きの扉だった。扉の隙間からは光が差し込んでおり、そこから冷気も流れ込んできている。
あまりにも威圧感を漂わせている扉に、思わず触れるのを躊躇う。
そんなチガヤの手元が不意に暗くなった。
「え?」
慌てて手元の羽根を見下ろす。
風神の羽根から発せられる光が、徐々に弱まっていく。まるで弱っているかのように、最後の力を振りしきるように何度か瞬いた後、光は静かに消え入った。
「風神様……」
これはおそらく、風神の死を、意味している。
漠然とそれを理解し、チガヤの瞳からは涙がこぼれ落ちた。自身の手足すら見えなくなった暗闇の中で、チガヤは祈るように鱗と羽根を握りしめる。
そして、顔を上げる。
気付けば扉の取っ手に蝶が止まっていた。 こちらを窺うように。
「……大丈夫、行きます。この先へ」
手を伸ばして扉の取っ手に触れる。
重そうな見た目に反して、扉は簡単に引き開く事ができた。
扉の向こう側は真っ白な空間だった。ずっと暗いところにいた為にすぐには目が慣れず、暫くその場に立ち竦んだチガヤは、指先に当たる何かに気付いてなんとか目を開く。
「これは、雪?」
目を開けて見たものは、一面の雪景色だった。
手前には膝丈ほどまで積もっている雪原が広がっており、人一人分が通れるほどの細い道が、雪をかき分けて作られている。灰色の空からは今尚も雪が降ってきており、指先に触れたのはこの雪だったようだ。右手には朽ちた鉄檻が野ざらしになっており、中には何も無い。遠くには高い塀が雪景色を囲んでいて、そこにもう一枚、別の扉があるのが見えた。
この景色は、見たことがある。水神の神域、そして、故郷の崖から飛び降りた際にも一瞬だけ見えた、あの場所だ。
「もしかして」
呟き、チガヤは雪原の道へと足を踏み入れる。
数歩進めば、チガヤの前を蝶が先へと飛んで行く。その蝶の行方を目で追えば、少し進んだ先にある雪の塊へと着地した。
否。
雪の塊に見えたものは、白い外套だ。
いつからそこにいたのか、もしくは、たった今現れたのか。白い外套を頭から被っている者が蹲っており、蝶が肩に停まると同時に、ゆっくりと立ち上がる。
外套から赤色の髪が零れているのが見える。ああ、やはり……とチガヤは歩を進めて近付いた。
「あの……あなたが、ミツさん、ですか?」
ミツ、という女性のことは、ロキから聞いている。過去、崩壊する以前の旧世界において、勇者ローシュと風神を引き合わせた人物だと。
水神の神域でも見かけた彼女が、どうしてここにいるのかはわからない。だが、ロキの話しぶりからしても、彼女がただの人だとは考えにくい。
「あ、あの、私、ロキさんからあなたの話を……――」
だが、チガヤの声は途中で途切れた。立ち上がったその者が、ゆっくり振り返ると同時に頭に被っている外套を背後へと落とし、隠れていた顔が見えたからだ。
チガヤと同じように癖のある赤い髪。柔らかい口元と、どこか寂しげながらも強い光を携えた瞳。
どうして気付かなかったのか、否、どうして思い出せなかったのか。
呆気にとられて開いたままのチガヤの口から、ほぼ無意識に、声が出た。
「……お母さん……?」
×××
チガヤの母親は、六年前に病気によって亡くなった、はずだった。
故にチガヤは困惑した。六年前、母をこの目で看取ったはずなのだ。しかし今ここにいる女性は、どこをどう見ても思い出した記憶の中にいる母の顔である。チガヤを見つめる瞳も、柔らかな笑みを浮かべている口元も、母そのものなのである。
「チガヤ」
呼びかけてくる声を聞いて、その声も母のものだったということを今になってようやく思い出す。
戸惑いは郷愁へと変わり、やがて涙となって頬を伝う。呆然として声も上げず、ぽろぽろと涙を零すチガヤに、女性はゆっくりと近付くとチガヤを抱きしめた。
「よくここまで、自分の足で来てくれたわね。チガヤ」
「っ、……お、かあ、さん……っ!」
そう言われて、ようやくこの女性が母で間違いないのだと確信した。
ずっと張り詰めていた心が堪えきれなくなり、母の胸に縋り付く。
そして、ひとしきり泣いた。
抱きしめてもらった母の腕の中は温かかった。幼い頃にやってもらったように頭を撫でられ、しゃくり上げた後、少し冷静になれたチガヤは泣き腫らした目で母を見上げた。
「……で、でも……どうして、お母さんがここに? 風神様の話だと、ここは旧世界に行くための道で、神様たちですら来れない場所だって……それに……」
聞きたいことは、何から聞けばいいのかわからないぐらいに沢山ある。
亡くなったと思っていたのに、どうして生きていたのか。
どうやってここに至り、どうしてここに留まったのか。
いや、否。
それより、なによりも。
「私……お母さんのこと、忘れていた……ううん、お母さんがいたということ事態、思い出すことが今までなかった……ロキさんや風神様からおとぎ話の世界のことを聞いた時、話を知っているような気がしたのは、お母さんがいろんなことを聞かせてくれていたからだったのに」
水神と風神、それにロキから、邪神に堕ちた火神や旧世界に関することを聞いた時、チガヤはなんとも言えない聞き覚えを感じていた。
今ならば思い出せる。彼らから聞いた話は、幼少期のチガヤを寝かしつける際に母が語ってくれた、おとぎ話の内容と同じだったのだ。村の絵本で読んだお話よりも、まるで見てきたかのような臨場感がある、そんな母のおとぎ話に。
だというのに、母が亡くなってからの六年間、母に関する記憶が不自然に曖昧になっていたことを、この時チガヤは初めて自覚した。そうして狼狽えるチガヤに、母は少し悲しそうにしながらも笑いかける。
「そう、それでいいの。あなたに、私のことを忘れるように暗示をかけたのは、私自身……私の介入もなく、あなたが自分の意志でここに来てくれることを、祈ってしたこと」
チガヤが母の瞳を見つめれば、母もまた、チガヤの瞳を見つめ返す。
そんな母の瞳を見て、ああそうか、とチガヤは理解した。
母は、人ではないのだ。
「私は、土神。四神の内の一柱、豊穣の奇跡を司る神。そして、滅んだ世界において人の形を取った際の名が、ミツだった」
そう告げる母の纏っている気配が、水神や風神を前にした感覚とまったく同じであることを、チガヤは感じ取る。
幼少期の頃は気付かなかった、且つ、他の神々に出会ってきた今だからこそわかる。
神々が持つ、あの独特の気配を。
「お母さんが土神様で、ミツさん……? だったら、私は? 私は一体、何なの?」
チガヤは問いかける。
母は瞳を細めると、背後へと目を向けた。
「……私たち四神には、互いに対になる神がいる。水神の対は風神。私、土神の対は、火神だった。そしてそれは、それぞれが持つ奇跡の力にも言える。土神が司る豊穣の奇跡は、新しい生と死を生み出せる力。火神が持つ、生と死を回帰させる奇跡とは、対になるもの」
母の視線の先には、雪に半ば埋もれてしまっている扉がある。チガヤが通ってきた扉とは、また違う扉だ。
「けれど崩壊する世界で、私は死んでしまった。そして、私が死んだことによって均衡が保てなくなった彼は、再生の力を暴走させた。その末に世界が崩壊し、歪んだ形で再生されたのが、今ある世界……力の暴走に巻き込まれて再生された私は、土神としての在り方が歪んでしまった。その上、彼との繋がりを頼りにここまで来ることは出来ても、今の世界に魂を縛られている私では、あの扉を越えることができなかった……だから私は、土神として残っていた最後の力で、私以外にここへと至れる存在を産み出した」
そして母は、チガヤへと向き直る。
振り返った彼女は、母ではなく神の顔をしていた。
「チガヤ……あなたは、私に残っていた豊穣の力で産んだ、まったく新しい存在。今の世界において、暴走した再生の力の影響を唯一受けていない、真白の生命。それが、あなたなの」
母の言葉に、チガヤは呆然としながらも、素直に納得した。
腑に落ちたのだ。自分という存在の在り方に。
「……私は最初から、火神様の生贄になる為に生まれたのね」
故に、そんな言葉が自然と口に出た。
土神は目を伏せる。そして、神の顔をくしゃりと崩し、母の顔へと戻った。
「最初はそのつもりだった。けれど、それだと世界は変わらないと思い直した。私たちの意義を押し付けるのではなく、あなたが……あなた達が、自身の意志で選ぶこの先を、世界は望んでいる……なによりも、私は、あなたに意志を持って、生きて欲しかった。生贄として命を犠牲にするのではなく、一人の人間として」
だが結果的に、我が子は生贄になることを決意し、ここへと辿り着いた。
ここへと辿り着いてしまった。
彼女としては複雑な心境だろう。神であると同時に母でもあるが故に。
彼女は再びチガヤを抱きしめる。
「チガヤ……あなたに背負わせてしまって、ごめんね」
この世界の命運を、たった一人の少女に。
けれどチガヤは首を横に振る。
今の言葉は、六年前、チガヤの前から姿を消す直前に母が言っていたものと同じだ。あの時の言葉の真意を知り、チガヤは体を離すと微笑んだ。
「お母さん。私に、生きてきた意味を与えてくれて、ありがとう。それだけで私、この先に進むことができる。だから」
と、言葉を続けようとして。
もうすっかり緩くなっていた涙腺から、ポツリと、また涙が流れた。
「だから……心配しないで。後は私が、成し遂げるから」
チガヤは気付いていた。
抱きしめられた時の、母の体の温度に。
彼女も、水神と風神と同じ存在だ。つまり今の世界において、彼女も、もう時間がないのだ。
母は再三、チガヤを愛おしそうに抱きしめた。
「ありがとう、チガヤ。どうか……彼と、あの子を、救ってあげて」
それが最期の言葉になった。
今度こそ本当の、母としての最期の言葉。
唐突に温もりが消え、姿が掻き消えた。チガヤを抱きしめていた腕も消え、目の前から母の姿が消える。
後に残ったのは一匹の蝶であり、その蝶も弱々しく宙を漂った後、力尽きたように落下していく。蝶が落ちきる前にチガヤが両手で掬い上げるが、蝶はそのまま溶けるように消滅した。
まるで雪のように。
チガヤは何も無くなった手のひらを見つめた後、顔を上げる。
視線の先にあるのは、雪原の向こう側。高い塀と、もう一つの扉。
細い道を進み、扉の前へと立つ。長らく誰も開けられなかった扉は雪が積もってしまっている。それに、よく見れば引っ掻いたような傷がいくつも見られた。必死になって開けようとしたのだろうその傷痕は、おそらく、母の――
チガヤは深呼吸し、扉に触れる。
冷え切った扉は途端にチガヤの指先を凍らし、その冷たさが痛みとなってチガヤに襲いかかる。母と神々を退けてきた絶対的な拒絶感が、凍り付く手のひらから感じ取れる。
しかしチガヤは怯むことはなかった。
「……私なら、開けられる……!」
母の言葉を信じ、確信を持って、扉を力一杯に押した。
重く堅い扉は最初まったく動かなかったが、数秒、数分と力を込めて押す内に、徐々に凍り付いた部分が溶け始める。そして全てが溶けきった時、扉は重く軋みを鳴らしながらも動き出した。
そして僅かに扉と扉の間に隙間ができた瞬間、突如として熱風が隙間から吹き抜けた。
「っ!」
咄嗟に扉から手を離してしまったが、扉はそのままゆっくりと開いていく。
扉の向こう側は、火の海だった。
炎による熱風は雪をあっという間に溶かし、それまでの雪景色を一瞬にして一変させる。膝まで積もっていた雪の道が溶け消え、降っていた雪もどこかへと吹き飛び、チガヤの手足をチリチリと焦がす。
この向こうへと行くためには、この火の海へと飛び込む必要があるようだ。突風が静まるのを待ち、熱い空気に僅かに噎せながらも、チガヤが自身を落ち着かせる為に深呼吸をする。
扉を押していた手のひらは、火傷したように赤く腫れている。爪割れ、指先には血が滲み出ているが、チガヤは手のひらを握りしめて痛みを誤魔化した。
そして一度、背後を振り返る。
ここに至るまでに来た道を。母と、神々と、ロキへ向かって。
「私、行きます。この先へ」
深く息を吸い込んで、チガヤは火の海へと飛び込んだ。
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